宿題に 汗掻き引かぬ 弱冷房
四月に開業して暫くは閑古鳥が泣いていたが、駅の監視カメラから自動照合して、捜索対象を見つけ出す『昴システム』を開発してから、一気に客が押し寄せ、忙しくなった。
今月末には、裕子とも入籍する予定で、今は頑張りどころだが、真夏は暑くて、脱水症状になりそうで、フラフラになる。
そして、その依頼者の身辺調査から戻ったが、汗が引かない。今月から社長命令で、エアコンの設定温度が二十八度に決められた。これじゃやってられない。設定温度を二十六度に変更しようとしたら、未季に怒られた。
未季は息子の嫁で、仕事を辞めて専業主婦になったが、この便利屋『昴』を開業する際、裕子のスパイとして送り込まれ、ここの総務部長になった。
とんでもなく生意気な嫁だが、明るいだけが取柄で、職場を明るくしてるし、接客も心得て、事務全般を無難にこなしてくれているので、まぁ重宝はしている。
「君は冷え性かもしれないが、外から帰ってきた人には二十八度は厳しいよ」
そう言いたかったが、その言葉をぐっと飲み込み我慢した。
PCを起動して、メールを確認すると、知らないメールがあった。送付主のアドレスは、意味不明の記号の羅列だが、メールの内容を見る限り、来夢からだった。
『お義父さん、
ロボット工学の専門家なら、詳しいと思いメールしました。
添付のシステムに対する意見を、参考までに聞かせて下さい。
ふつつかな母ですが、私の大切な母です。宜しくお願いします。 来夢』
でも、彼女は私のメールアドレスを知らない筈だ。本当に来夢からのメールなのか疑わしい。さて、どうしたものか。幸にも、今日は土曜日、裕子は自宅にいる。
私はそのメールを「来夢を名乗ってるけど、スパム添付つきの不審メールと思われる。どうしよう」とコメントを付けて、裕子に転送した。
その後、三十分経っても返信がないので、電話を掛けようと思った矢先に、裕子がやってきた。
「裕ちゃん、どうしたの?」
突然の彼女の訪問に、未季が驚きの声を上げた。
「会社では、社長でお願いします。ちょっと所長と打合せ」
「打合せ? 何々、入籍に向けての打合せ?」
「あなたには、関係ないこと」
裕子は私の机にやってきて、メールの回答を伝えてきた。
「電話で確認を取りました。本人が送付したと言っていたので、間違いありません。でも、どうやって貴方のメールアドレスを知ったのかと訊いたら、『Set a thief to catch a thief』って言って来たの。大丈夫かしら」
「へぇ。やっぱりそうだったんだ」
『蛇の道は蛇』 やはり、彼女がライムライトと言うハッカーだった。同時に、メールアドレスを知っていた理由も理解した。先月、彼女が日本に帰ってきた時に、私のPCをハッキングしたのだ。
その添付のPDFファイルを開くと、英語の研究論文が表示された。『インターネット回線を使ったバイラテラルマスタースレーブシステムの研究』と言うタイトルだった。
「ねぇ、何か知ってるの?」
「彼女の秘密みたいだから、例え裕子でも、自分からは言えない」
「来夢に言わないから教えないさい。社長命令です」
普段は強権発動しないのに、やはり、娘の事だと感情的になる。可愛い。
「じゃあヒントを上げる。恐らく大学かその前かもしれないけど、かなり長い事、彼女はその趣味にのめり込んでたみたいだ。アメリカに行って、その道の達人に出会い、師匠として崇め、その趣味の技術を昇華させた。ハンドルネームはライムライト」
「それじゃ、何の事か、解らない。」
「ハンドルネームだよ。解るでしょう。私が入室禁止になってる部屋を探して見れば、その片鱗は見つかる筈だし、今のをネタに彼女を誘導すれば、真相は明確になるよ」
裕子が解らない筈はなく、認めたくない意識が『解らない』と言う発言になっているのは明白だ。これで彼女がどう動くのか観察したいが、残念ながら今は仕事中だ。
論文は、遠隔操作型ロボットで用いられる力の伝達方法をインピーダンスモデルに基づく対称型構成で実現するものだった。一般には力帰還型と呼ばれるフィードバック方式を用いるが、これだと同時性に問題があり、対称型構成が望ましいという趣旨を数式展開して説明し、理論だけで妥当性を論じている最低の論文だった。
いったい、彼女は何故この論文のコメントを求めているのか、その意図が分からない。そうは言っても、本人からのメールだ。誠意を持って回答しようと、以下のコメントを書いて送付した。
「P2Pと違い、インターネットは遅延時間を一定に保てない可変無駄時間系になる。力の安定限界をなすインピーダンス限界が事変するので、筆者の考え方は正しい。ただ、遠隔操作の本来の意図は、操作対象の未知の固さや柔らかさを操作者が認識して、判断を操作者に伝える事が目的である。そこに、安定系をなすためのインピーダンスモデルを直列すると、対象がそれ以上の固さであっても、安定化インピーダンス以上を認知することはできず、無意味である。こんな手法をとるなら、遠隔ロボットに作業指示だけ出し、遠隔ロボットが指示に従うように、勝手に判断して、自律作業させる方がずっといい。また、論文のまとめに、ネットゲームでの適用を期待できると書いてあるが、この場合には次のやり方を推奨し、本論文は無意味と判断する。
◎ネットゲームでのマスタースレーブシステム
ゲーム内の対象モデルは既知なので、その作業対象のインピーダンスモデルをクライアントに転送し、転送された作業対象のインピーダンスモデルと実マスタとのマスタースレーブシステムを構築させる。スレーブ側には、マスタ位置のみ送信し、その位置により、作業対象インピーダンスが大きく変化する事態がおきれば、それをクライアントに転送する。このやり方が最も安定で臨場感を創出できる」
その返信を返した翌日、来夢から短いメールが届いた。
「 Dear Dad.
Thank you nice suggestion, and speak ill of grave paper.
Please may you help me next.
I love my Dad.
by The Limelite 」
何で英語なのだ。それに、ライムライトって名乗っているし。