9、家にて(勤めてから4日目の夜)
奈美子は、ストレスを感じると体が重くなる人です。
「パート、順調みたいだね」
聡が、ネクタイを外しながら言った。
私は曖昧に頷きながら、言いたいことが山ほどあるのに、何を話してよいか分からずに、聡のネクタイを受け取った。
順調じゃない。
人間関係がうまくいっていない。
まだ勤め始めて4日だというのに。
でも、聡に何といえばいいの?
今のところ、あからさまに私を無視しているのは、加藤さんただ一人。
でも、何かが違うの、何かが。
その何かが自分でも分からない。
来週には、栃木県へ単身赴任が決まっている夫に、余計な心配などかけたくない。
職場で何かがおかしいの、なんて、言えないわ。
「聡は、仕事は順調?」
「まあね。向こうに支社を移転する準備を任されてからは、忙しくて昼飯も食べる時間さえないけれど、充実しているよ」
「そう」
「俺じゃなくて、奈美子が栃木県へ会いに来るのだから、楽しみにしてろよ。観光地だからな。お義父さんが乗り気で別荘を建てる準備もし始めている。建築士の腕がなるんだろうな」
ふと早く家を建てて、仕事を辞めて引っ越そうかな?という思いが湧く。
家族の要望が取り入れられた一戸建てに、緑が多い静かな環境。
私が夢見ていた生活。
私は、職場でのことを吹っ切るように笑った。
「栃木県へ引っ越すのもいいかもしれないわね」
「うん。別荘を本宅にしてもいいよね。奈美子は、もしそうなったら栃木県でももちろん働くつもりなんだろう?そのほうが、すぐに知り合いもできて、人間関係が広がるからな」
その言葉で、どんどん気持ちが滅入っていく。
“スーパーでうまくいかないからって、栃木でも同じようになるとは限らない。大丈夫よ、きっと大丈夫”
「どうした?働きたくないの?それならそれで……」
「ううん、違うの。栃木県は田舎だから、どんな仕事があるかな?って考えていただけ」
「奈美子、顔色が悪いぞ。疲れているんじゃないか?俺は一人で食べられるから、先風呂に入って、休めよ」
「ありがとう。今日は、そうさせてもらうわ」
聡といろいろ話したかったけれど、何を話してよいのかわからない……。
職場のことを思い出すだけで、こんなに気が重くなるなんて……。
足もだるいわ。
私は何とかシャワーを浴びて、浴槽に浸かった。
お気に入りのシャンプーの香りでも、華やげなかった。
お風呂に浸かりながら考えるのは楽しいことではなく、加藤さんのことだった。
“話したこともないのにどうして?”
責める心が押し寄せる。
“噂でも流れたの?”
背中がひやりとして、お風呂のあたたかさが分からなくなった。
私は、この日を境に体の重さと戦わなければならなくなった。
責める心は相手に向かうようで、実際は自分の心を攻撃するものだという事実。
倫理的な問題以前に、責める心はストレスになる。
ストレスは、自分の心と体をひどく蝕むのだ。
たった数度の無視でこうなってしまった自分。
弱い。
卑屈。
そして、運が悪かった。
どこで歯車が狂ったかを知ったのは、それから3日後のことだった。
お読みくださり、ありがとうございました!