39、家族の夢
今回はいつもより長めです。
那須の山は陽ざしは眩しいが、東京と比べて風が違う、空気が違う、ずっと涼やかだった。
というか肌寒い。
厚着をしてきて正解だった。
私たち家族は半休を取った聡と、聡の職場の近くの喫茶店で待ち合わせた。
カランカラン。
ドアが開くたび、そちらを見ていたら、
「おいおい。よほど会いたいんだな」
と父に笑われた。
カランカラン。
きょろきょろしながら聡が入ってくる。
「聡!」右手をあげれば、聡は満面の笑みで私達のテーブルへやってきた。
「奈美子、体調はどうだ?」
「ばっちりよ。もう眩暈もしないの」
「本当に良かった。お父さん、お母さんも那須までお疲れ様です」
「いやいや。なんてことないさ」
「聡さんこそ仕事が充実しているのね。顔つきで分かるわ」
「那須はコロナ禍でお家時間が見直される前から絶え間なく不動産が動いていましたからね。先ほども手掛けた別荘の契約を済ませてきたところです」
「お疲れ様。すごいわね。聡の仕事が順調で、私すごく嬉しいわ」
「奈美子こそ夢ができて、それに向かって頑張るんだろう?すごいよ」
私は「夢」という言葉を聞いて、心に驚きとときめきが入り混じった。
「夢?」
「そう、夢。自分がこうしたい、こうなりたいっていうのが夢だろう?」
「そうだわ。夢だわ。確かに夢だわ。まさか40の頃にまた夢を持つなんて……」
「奈美子。夢を持つのに年齢なんて関係ないぞ。服部なんて、建築を学んで社会人をしてから、40歳で医者になったんだ。40歳なんてまだまだこれからだ」
「うん。ありがとう。お父さん」
「それで奈美子は具体的にどういった夢を叶えるつもりなの?」
「最初に保育士の資格を取るわ。私子供の成長段階のこととか福祉のこととか全然知らないから、それを勉強したいの。まずはそれが目標ね」
「そうか。それはいいことだと思う。先ほどの言葉と矛盾するが、時間は有限だ。保育士資格を取得した後のこともなるべく早く考えておきなさい」
「はい」
「奈美子はまた勤めに出るつもりなのか?保育所?」
聡の目に少し不安の色が滲んだのを私は見逃さなかった。
「聡。大丈夫よ。もう挫けたりしないわ。自分の好きなことをやるのだもの。人間関係で躓いたら、聡やお父さん、お母さん、職場の先輩に心開いてアドバイスもらって、やれることはなんでもやるつもり。それに子供たちの笑顔で嫌なことのほとんどは忘れちゃうと思うの」
「そうか。そんな風に覚悟しているのか。なら、俺も本格的に応援する。人間関係の修羅場ならけっこうくぐってきたからな。なんでも聞いてくれ」
「頼りにしているわ」
「父さんは昨夜も言ったけれど、奈美子には院内学級の先生もあっていると思うぞ」
「もちろん、それも視野に入れているわ。一歩ずつ自分のできることを確かめながら進んでいきたいの」
「そうだな。分かった」
「それと聡……」
「うん?」
私はどっどっと波打つ心臓を感じながら、聡の目を見た。
「聡は……養子とかどう思う?」
聡は目を見開いた。
「養子?子供を育てるのか?」
「もちろん、仮定の話よ。私もまだその覚悟はないわ」
聡はほっとしたように息を吐いた。
「俺は……、奈美子と違って、子供がどうしても欲しいわけじゃないし、一番大切なのは奈美子だ。そんな俺が血の繋がっていない子の親に……。正直自信がない」
「そうね。分かるわ、その気持ち。でも人生って何がどう転ぶか分からないでしょう?一応タイムリミットはあと5年。45歳まで養子縁組ができるの。5年の間にそういう可能性もあるかもしれないと思ってはダメかしら?」
「可能性か……」
聡は遠い目をした。
「可能性なら……。そうだな、気持ちは変わるものだからな。分かったよ。養子についても考えておく」
そういってポンポンと私の頭に手を置いた。
「お父さんとお母さんは、養子についてどう思う?」
「私は……おばあちゃんになることなんて、もうとっくに考えていなくって。子どもを育てるって大変なことだし、ましてや血が繋がっていない子を育てるってハードルが高いと思う。夫婦二人の生活を大切にした方が良いと思うわ」
「父さんは、聡君と奈美子が決めたことに全面的に賛成するよ」
「お母さん、まだ決めたわけではないけれど、私の子供への愛情があふれ出てきて止まらなくなってしまったら、考えてほしいの」
母は溜息をついたが、頷いてくれた。
「奈美子。俺の夢も話していいか?」
聡が遠慮がちに話に入ってきた。
「もちろん!なになに?聡にも仕事以外に夢ができたの?」
「奈美子、お父さん、お母さん。那須に家を買って、一緒に住みませんか?」
私は思わず喜びの声を出した。
「ほんとう?そうしたい。私、聡と週末にしか会えないなんて嫌だもの」
「那須って良い所よねぇ。家を買うなら、山の方がいいわ」
「建築士の腕が鳴る。聡君、家の良し悪しは私にもわかるから、何でも相談してくれ」
聡も白い歯を見せて、身を乗り出す。
「実は延床面積が60坪で敷地面積が200坪の家が3000万で売りに出ているんです。お父さんがやりたいと言っていた家庭菜園も十分できる広さですし、車で30分以内にスーパーも病院もあります。そこを見た時、不動産屋の勘でここはいいぞと。どうでしょう?どう思います?」
「相場的には妥当なのかい?」
「はい。とても良い買い物だと思います」
「60坪は私達4人で暮らすのに広すぎないかしら?」
「総二階で6LDKですが、一階にはガレージもあるので、そこまで広さは気にならないかと……これが外観です」
そういって聡がスマホを取り出した。
「うわぁ、すごい!」
そこにはいかにも別荘という外観の深緑色の家があった。
「ウッドデッキが素敵ね。木漏れ日の中でお茶を飲んだら心癒されそうだわ」
「それでこれがダイニングリビングキッチン」
「うわぁ、吹き抜けで明るいのね。天窓からの光がきらきらしている。こんなキッチンだったら、立つのが楽しくなりそう」
「そうね。お友達を呼びたくなるわ」
「お義母さん。お義母さんは東京に友だちも多いから、那須へ来ることは寂しいのではないですか?」
「そうね。でも、一軒家に住むのは私の夢だったの。那須は観光地だし、友人を招待してお家でもてなすのもいいと思って」
「それなら良かったです。お義父さんは仕事の方は?」
「確かに顧客は東京の方が多いが、もともと独りでやっていた建築事務所だから、那須でも問題ない。逆に別荘地だから、仕事も舞い込んでくるかもな」
「そうですよね。本当はお義父さんに設計してもらいたかったのですが、俺が家族と離れがたくなってしまって……。そこに良い物件があったものですから、すみません」
「いいや、いいんだ。奈美子のこともあって家族は一緒に過ごした方が良いと俺も強く思った。どれどれ次の写真を見せてくれ」
「これが二階です」
「部屋が4つあって、トイレも1階と2階それぞれにあるんです」
「この部屋……」
私は二階の大きな出窓がある南向きの部屋に釘付けになった。
リーフ柄の壁紙が優しい。
この場所に呼ばれている、そんな気がした。
この出窓の下に机を置いて、勉強している自分。それがすっと思い浮かんだのだ。
「聡、私この家に住みたいわ」
「確かに良いつくりだな。聡くん、考えてみよう」
「俺の夢は自分の一軒家を持って、家族と暮らすことだったんです」
思わぬ言葉に聡の顔を見る。
「えっ?!そうだったの?」
「そう。急な話にもこうしてみんな真剣に考えてくれる。ありがたいよ」
私は感慨深くて、思わずぽつりと口にしてしまった。
「聡の夢は家族の夢だわ」
私は聡に向かってもう一度言った。
「聡の夢は家族の夢」
「そうね」
「そうだな」
母と父が同時に頷く。
「滅多に自分からこうしたいと言わない聡の夢を私が前向きに考えないなんてあり得ない」
「奈美子……」
「那須で保育士資格を取得するわ。お父さん、お母さん、良いよね」
父と母は笑顔で再び頷く。
こうして私たちは那須で新たな出発をすることに決めた。
あの高原の涼やかな風に吹かれながら、家族の夢を語ったひと時はとてもとても幸せで、あの幸福感はずっと私の心に残るだろう。
私の心のよりどころとなる思い出がまた増えた。
夜には東京に戻る。
でも夢があると不思議と寂しいとは感じなかった。
ただただ一瞬一瞬が名残惜しい。
その甘く切ない感覚に身を委ねながら、私はこれからの生活を口元を緩めて思い浮かべるのだった。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました!