36、あの子との出会い
苦しい時に、それを根こそぎ救う出会いを得た人は幸運です。
私は明るい気持ちになって、久々にベニマル百貨店によろうと決めた。
父と母に甘いものでも買って帰ろう。
今うきうきしているから、きっと負のオーラも出ていないだろう。
いつもこんな気持ちでいられたらいいな。
そう思いながら、百貨店の扉をくぐる。
百貨店は、人でごった返していた。
でも、色とりどりのスイーツに、香ばしい香りのするお惣菜、本当に目にも鼻にも鮮やかで心が弾む。
“うわぁ、このザッハトルテ、おいしそう。でも、あちらのバームクーヘンも良い香りがする”
そう思い、顔を上げた時だった。
1歳半くらいの男の子だろうか。
私と目が合うと、にこっと笑って手を広げてきた。
私は思わずその子を抱っこしてしまった。
子どもの香りって相変わらず優しい。
この香りを嗅ぐのは、美佐子の子を抱っこして以来だから約10年ぶりだ。
そして高めの体温。
涙が出てくるほど温かい。
「坊や。ママはどこ?」
そう聞くと、その子は私の胸に顔をうずめてきた。
久々に味わう子供の感触に、私は何とも言えない愛おしさがこみあげてきた。
私の首に手を回して、にこにこしている。
“なんてかわいいの”
“でも、この子のお母さんは、今頃この子を探しているはず”
きょろきょろ辺りを見回したが、家族らしき人たちはいない。
私はその子を抱っこして、インフォメーションセンターへ行くことにした。
忙しく立ち回っているお店の人よりも、そちらの方が良いという判断をしたのは、無意識の内にこの子といたいと思ったからかもしれない。
インフォメーションセンターに行く間、その子に童謡を歌ってきかせた。
その子は体を揺らして喜んでくれた。
“あぁ、かわいい”
そして、インフォメーションセンターにあっという間に着いてしまい、寂しい気持ちになる。
迷子だという旨を伝えると、受付の女性が男の子を自分の方へ抱っこしようとした。
すると「いやぁ」といやいやし、泣き始めた。
でも、私が抱っこすると泣き止む。
「あらあら、ママと思われていますね」
あまりのことに私は絶句した。
「ママ」……。
私は喉から手が出るほど欲しかったもの。でも決して手に入らないもの。
でも……不思議なことに母親になれなかった悲しみよりもその子への愛しさの方がまさった。
「あの……この子のお母さんが来るまで、私が抱っこしています」
「そうですか。助かります」
私は男の子の温もりを享受しながら、今度は昔話を聞かせた。
男の子はべったりと私にくっついて離れない。
“なんて幸せなのだろう”
男の子のキャッキャッ笑うその笑顔に私も笑顔を返しながら、自分が今までで考えられないほどの喜びに溢れているのが分かった。
「匠!」
その時、男の子のお母さんが息を弾ませながら、私の方へ寄ってきた。
「良かったぁ。ありがとうございます!」
目元が男の子に似ている。
あぁ、この子のお母さんだ。
子どもには、大人の心をきれいにする不思議な力がある。
あれだけこの子との時間を楽しんだのに、それが奪われることにも何も抵抗はなく、ただただ良かったと思った。
私は何の躊躇いもなしに、男の子とお母さんに対して、感謝の心だけを持った。
「この方がここまで連れてきてくださったのですよ」
「本当にありがとうございました!ちょっと主人が目を離したすきに、いなくなってしまって……。」
「いえいえ、当たり前のことをしたまでですので」
そういって、匠君をお母さんに渡すと、すんなり抱っこされた。
「あの失礼ですが、保育士さんでもされているのですか?」
「えっ、どうしてです?」
「この子は、主人の母にも抱っこされるのをあまり喜ばないのです。それが見ず知らずの人に抱っこされるなんて」
「いえ、私は……保育士でもなんでもなくて」
「そうなのですね。きっと優しい雰囲気だからかもしれないですね」
最後に匠君はにこりと笑って、バイバイしてくれた。
私はその甘くて優しい感情に、すっかり魅了された。
子供のことを考えると、あんなに寂しくて悲しくてどうしようもなかった私が、愛しい感情が次々と溢れてくる。
まったく寂しさがなくなったわけではない。
しかし、自分が寂しさを越えて愛しく思えたという経験は、私にとって自分を信じる大いなる事実だった。
‘私は子供のいない悲しみに負けない大切なものを持っていたのだわ“
美佐子の子も私に懐いてくれたが、あの時私は若かった。
多少の焦りはあったものの、まだまだ子供を産める年齢とあって今ほどの悲しみなどあるはずがなかった。
“子供を諦めてから子供に接したのは初めてだったけれど。私……”
子どものいないことでぽっかり空いた心の穴に、大河のような愛情が流れ落ちていく。
それは聡への愛情を再認識した時のものと同じだ。
二つの大きな流れが、私の底なし沼のような穴を次から次へと満たしていく。
穴の向こうはブラックホールではなかった。
その穴はいつの間にか埋まり、大海原のように広く清く満たされた。
心地よい風が吹き、今まであった霧も吹き飛ばされていく。
そして、いよいよ私の人生が次のステージへと昇華する。
それは幾つかの選択肢はあっても、全く迷いがない、私の運命だと断言できる決断だったと今でも感じている。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました!




