30、聡と話すⅡ
自分の中の愛を信じられると人は強くなります。
『偽善者』問題はスーパーの方で謝ってくれた。
でも、私の心はまだ重いままだ。
それは子供のいない悲しみで人に触れてしまったこと。
「聡、ありがとう。でも、私は子供のいない悲しみを癒してから、人と関わるべきだったのかもしれない」
「それは違う。人の心の欠如したものは、人によってしか埋められない。奈美子がとった行動は人がよくやる行動だ。失恋したって、若い子たちはすぐ新しい恋で忘れようとするだろう?それが間違っているかと言えば、絶対に間違っているとは言えないはずだ。たまたまあのスーパーにいる人たちがそんな傷をもった 奈美子を温かく迎え入れなかっただけだ。だから、奈美子は何も悪くない」
私はベッドの中で、強張った体が解き放たれる感覚を得た。
「ありがとう、聡。スーパーのことは本当に気が楽になった」
「そうか。それなら良かった。でも、本題はここからだ」
聡の顔がより真剣になった。
私にもぴりりと緊張が走る。
その夜、聡と私は初めて子供ができなかったという事実に夫婦で向き合ったと言えるかも知れない。
不妊治療をやめた日も、「仕方ないね」と抱きしめ合って眠ったが、核心については何も触れなかった。
そして、私だけが心の整理ができなかった。
「子供ができなかった奈美子の悲しみを。おれは分かってやれていなかった。本当にすまない」
聡が目に涙をためて頭を下げる。
私は慌てた。
「謝らないで。聡は何も悪くないの。私が……」
「俺も子供が欲しかった。でも……それを忘れるほどの充実した仕事を任されて、いつの間にか奈美子の悲しみに鈍感になっていた」
「そう。そうよね。仕事があるってそういうことよね。私には考える時間が山ほどあって、子供ができないことを繰り返し考えてしまっていたから」
「奈美子は、もう少し自分の気持ちを俺にぶつけろよ」
気持ちをぶつける?
普通の妻は、ここで泣きわめていて、夫にすがるのだろうか。
そして、おもいきり胸の内を吐き出して、夫の胸を叩く。
でも、それは私の心には全くないものだった。
しかも、聡は私にとって掛け替えのない存在。
そんな聡にたいして、遣る瀬無い思いをぶつけるなんて、許されることではない。
でも真実は……
今にして思えば、それができないほど私の心の悲しみは深かったのだと思う。
「私の心は……自分でもいうのも変だけど、すごく静かなの。ただいつも深い心の底に悲しみがあって……ふとした時に顔を出すの。だから、大声で叫んだり、聡にぶつかっていったりとかするような状態ではなくて、ただ悲しいというか………。私はその悲しみに蓋を無理やりしてしまおうとしていたのね」
「俺は………、奈美子の悲しみの半分を背負う立場なのに、すぐに子供のことを忘れた最低な人間だ」
上手く言える自信がない。
でもこれだけは聡に伝えなければならない。
「そうじゃないわ。聡まで悲しみに沈んでいたら、わが家はふさぎ込んだ家になっていた。あなたのその明るさにどれだけ救われたかしれない」
これは本当だ。
どうしようもない悲しみが襲ってきた時、聡のいつもと変わらない様子にどれほど安堵したか。
「ダメなのは私。子供を妊娠できにくいのはどうしようもないことなのに、子供は授かりものなのに、私がいつまでも引きずっているから」
「正直に言う。俺も子どもが欲しかった、でも、奈美子ほどの悲しみは感じていない。それは奈美子がいなくなる方が俺にはものすごい恐怖だからだ。子供より奈美子の方がずっと大切だ」
そう言って、聡は私の髪をなでた。
そうだったのか。聡はそんな風に思ってくれていたのか。
私だって聡に何かあったら耐えられない。子供だって聡あってのことだ。でもだからこそ、そんな聡だからこそ聡の子どもを生みたかったのだ。
私の瞳から、涙がとめどなく溢れて止まらない。
聡の子を産めたら、どんなに良かったろう。
「聡……。私もあなたが大切。この世で一番愛している。だからこそ……だからこそあなたの子どもが死ぬほど欲しかった。あなたをお父さんにしてあげたかった。あなたのDNAを……この世に……残したかったの」
その瞬間、強く抱きしめられる。
「ありがとう。奈美子、愛している、心から。でも、子供はいいいんだ。俺は奈美子さえいればいい」
私も強く聡を抱きしめる。
「私も聡を愛している。どうしたらいい?それでも子供がいたら良かったってまだ思う私がいるの」
聡の涙が頬を伝ってくる。
「いつでも悲しくなったら、俺に話して」
「うん」
「いつだってどんな奈美子だって、受け止めるから。一緒に乗り越えていこう……」
そうかすれた声で言うと、私を再びぎゅっと抱きしめた。
聡の温かな体温を感じ、心臓の鼓動を聞いて、私の中で狂おしいほどの聡への愛情が溢れかえった。
それは子供がいないことでぽっかり空いた穴にとどまることなく吸い込まれていく。
私の穴はスポンジのように吸収に終わりのあるものではなく、底なし沼のように次から次へと吸い込まれていくもの。
しかし……私の聡への愛情は絶対に尽きることがない、そう思わせた。
だからきっときっと大丈夫。
だって私こんなに愛に溢れている。
こんなにも人を愛おしんで、大切にしようとしている。
そして、深く深く愛されている。
だから、その穴はいつも悲しみで飲み込もうとするけれど、もう前と違って私自身を飲み込めやしない。
聡の愛と聡への愛がいつだって穴の栓となろうとし、私を引っ張りあげてくれる。
私達はその夜お互いを労わりあいながら、きつく抱き合って眠った。
まるでお互いが自分より大切であると確かめ合うように……。
二人の確かめ合った気持ちをしっかり魂と体にしみこませるように……。
どうすれば深い悲しみは乗り越えられるのか?
それは聡の言うとおり、人でしか埋められない。
そして、その一番が夫婦であり、家族なのだと思う。
今現在、私は幸せだ。
この幸せはこの夜がなかったら決して得られなかったことを思うと、私は聡の存在に感謝してもしきれないのだ。
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