3、むかつく
打たれ弱い奈美子です。
自分の仕事の能力は未知数だった。
女子大を出てすぐ結婚したから、実務経験が全くない。
専業主婦としていっぱしにやってきたつもりだけれど、SNSにのせられるような凝った食事を作ろうとは思わなかったし、インテリアの趣味もいたって普通だった。
同い年の夫もうるさく言わないし、姑や小姑と一緒に暮らさず、夫が婿に入る形の家庭生活だったから、がんばる必要がなかったというのが実情だ。
それに子供もいなかったので、キャラ弁や誕生会など難易度が高い料理を求められなかったのも大きい。
つまり、専業主婦としても、たいした経験がないということだ。
だから、自分という人間が社会で何ができるということは未知数で、まずは求人サイトで「未経験、無資格Ok!」という謳い文句が書かれていた、スーパーの商品補充の仕事に応募した。
面接では、「実務経験がなくて自信がないから、この仕事に応募した」という理由を話したら、あっさり受かった。
そして、昨日という初日を迎えたわけだが、2日目で早くも社会の洗礼を受けた、と思った。
こういっては大げさかもしれないが、経験がない私にはそうとしか思えなかったのだ。
しかし、この時の私にはまだ気力があった。
仕事をがんばろうと張り切っていたから。
お金をいただくのだから、新たな出会いの前に仕事をがんばるのは人として当たり前だ。
お金が入るという事実も、私には嬉しいことだし。
夫が有名企業に勤務しているため、お金に不自由はしたことはないが 、自分でお金を稼げるということは、私に言い知れない喜びを与えた。
働いている友人の美佐子が、よく言っていたものだ。
「パート勤めでは、子供がいると全部必要経費にまわってしまうのだけれど、たまにへそくれるときがあるの。家族で外食する時、私が出すと家族がおおっ!ってありがたがるのよ」
私も、聡と食事がしたいな。
お母さんとお父さんには、旅行をプレゼントして。
お義父さんとお義母さんには、果物を送ろう。
それから、美佐子の誕生日が近いな。
美佐子本人にというより、お子さんたちも食べられるお菓子の詰め合わせのほうがいいかな。
私は、そこまで想像して、幸せな気分だった。
一回のお給料では、一度にかなわないから、なるべく長く勤めたい。
そのためには、仕事ができるようにならなきゃ!
よし!やるぞ!
缶詰の補充を「正確に間違えないように」と、黙々と作業していたときだった。
「むかつく」
小声で、そう聞こえた。
え?
私は、びっくりして振り返った。
商品棚の通路を加藤さんが足早に歩いていく。
え?なに?いまのなに?
私は、戸惑った。
むかつく?確かにそう聞こえたけれど、誰のこと?私に言ったの?
私以外に、この通路には誰もいない。
ひとりごと?
それとも、きき間違い?空耳?
嫌な汗が全身に吹き出すかのようだった。
こういう言い知れぬ不安に負けちゃダメ!気のせいよ、きっと。
あまりに小声だったから、私は本当に気のせいかも知れないと思ったが、朝のあいさつを無視されたことが、重い重しになって胃にぶら下がっていた。
私、何かしたかしら?
「佐竹さん?手がとまっていますよ。どうかしましたか?」
はっとして横を向くと、チーフがいた。
「すみません」
それだけ言うと、私は缶詰をいそいで補充し始めた。
「佐竹さん。その商品はその下です」
やってしまった。
「すみません、やり直します」
「まだ2日目だから、気にしないで、がんばって!」
チーフはそう笑って言ってくれたが、私は自己嫌悪だった。
“こんな単純作業でミスをするなんて”
私は、自分のメンタル面での課題を早くも突き付けられ、このすぐへこむ性格を直さないと、社会ではやっていけない、と肝に銘じた。
しかし、この課題はおそらく私にはそう簡単に超えられる壁ではない。
暗い未来が見えたようで、人知れず深いため息をついたのだった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。