26、服部先生の診察
病院の独特の雰囲気、けっこう苦手です。
先週末は、トイレと歯磨きとお風呂以外私はベッドで過ごした。
食事も着替えも全てベッドの上でした。
眩暈は「偽善者」と「子供がいない」ということを考えると起こるので、体の問題ではないとふんでいた。
だからと言って精神的なもの方が軽くて良いとは絶対に言えないけれど。
だって、実際にこんなに苦しいのだもの。
両親に両脇を支えられながら、覚悟を決めて、服部先生の病院の門をくぐった。
聡には父の懇意にしている先生が診てくれると伝えたら、納得してくれた。
ぷ~んとする消毒薬の匂いとスリッパのひんやりした冷たさが緊張感を高める。
「よう。佐竹。元気だったか?」
恰幅の良い白衣をきた医師が、父に陽気に声をかけた。
「おう、服部。お前も元気そうだな。太ったか?今日は朝早くから悪いな」
父も明るく答える。
「酒太りだよ。ゴルフで早起きは慣れているからなんてことはない。検査も娘たちがやるから、全く気にしないでくれ。いやいやそれより、朝からこんな美しい女性2人を見られて眼福だよ。やぁ、紗千香さんも奈美子ちゃんも久しぶり。元気……とはいかないようだね」
私は急いで会釈したが、すぐに顔をつかまれて、目の下を押しさげられた。
「顔色が悪いね。それに貧血も少しあるようだ。早速だがすぐに検査をはじめよう」
服部先生がにっこり笑っていってくれたので、私は本当にほっとした。
私の子供がいない悲しみも、明るい服部先生には全く通じない。
こういう人もいるのだと私は思う。
あのスーパーにいた人たちがたまたま心の色に敏感だっただけで、服部先生のような人が従業員に大勢いたら、私の仕事の行く道はまた違っていたのかも知れないとも。
いや初出勤の日、綿貫さんにマウントを取ったと誤解された時点で、パート仲間からは良く思われない定めだったのだだから、変わらなかっただろう。
綿貫さんの影響力は大きかったもの。
そこまで考えてまたくらり。一瞬倒れそうになる。
「大丈夫かい?ここは病院だ。なあに、倒れたってここほど安全な場所はない」
そう言って、また豪快に笑う服部先生は頼もしい。
こちらの考えていることを察さず、現実に起きたことだけみてくれる。
よく父が服部先生を「空気を読まん奴なのだよ」と言っていたが、弱っていた私にはこの時ほどそのことが有難いと思ったことはない。
血液検査にMRIの検査などを足早に済ませる。
その間、眩暈は起こらなかった。
多分検査に集中していて、余計なことは考えられなかったからだろう。
検査をしてくれた服部先生のお嬢さんたちも、良い意味で事務的で私を安心させた。
結果が出るのを待っていると、服部先生に呼ばれた。
緊張で汗が一筋流れる。
「今のところ、取り立てていう異常はないよ」
“―――やっぱり”
私は自分のスリッパの先を見ながら、次の言葉を待った。
「恐らくストレスからくるものだと思う。奈美子ちゃん、心当たりはあるかい?」
私は小さく頷いて「あります」と答える。
本当にスーパーに勤めるまでそんな症状はなかったのだから、あのスーパーでの出来事が原因だろう。
「服部先生。その原因をまだ私たちも聞いていないのです」
母が私の背中に手を当てながら言う。
「まぁ、言いにくいこともありますよ。なぁ、奈美子ちゃん」
そう言って、服部先生は豪快に笑った。
その笑顔を見ていると、なんとなく大丈夫な気がしてくるから不思議だ。
「ちょっとした人間関係のもつれがあったのです」
服部先生の笑顔につられて、思わずそう口にした。
服部先生は、真剣な表情で私を見て気づかわしげに言った。
「奈美子ちゃんがここまで疲弊するのだからよほど辛かったのだろうね」
“たった1週間勤めただけだなんて、やっぱり言えないわ”
私は下を向いて、言葉につまった。
「言いたくないなら言わなくていい。ただ旦那には言っておきなさい。これは医師としてより人生の先輩としてのアドバイスだ」
聡のことを言われて、私の目頭がじんわり熱くなった。
「どうしても旦那に言えないのならば、すぐにでも心療内科に行って聞いてもらいなさい。なあに、もう今の時代は特別な人が行くところじゃない、みんな気軽に足を運んでいるよ」
「はい」
そう答えたが、正直行きたくなかった。
だってたったあれだけのことで壊れるなんて、私がどうかしている。
「先生。奈美子は思考能力も落ちているみたいで。今までは一言えば、十悟る子だったのに。それにコロコロ意見をかえるのです。まるで目の前のことに振り回されているみたいで」
「それもストレスからでしょう。ストレスがひどいと、記憶力も思考能力も落ちるのですよ。まぁ一時的なものなのですが。なるべくストレスから距離をとって、好きなことをするとよいでしょう」
それも無理だわ。
だって私は悲しみを撒き散らす、人間性が欠如した偽善者なのだもの。
さっきの心療内科へ行くという答えも取り繕っていたわ。
ぐらっ。
私は歯を悔いしばって耐えた。
「これは本当に心療内科へ行った方がいい。眩暈を抑えてくれる薬を処方してもらえるから。一応ここでも薬を2週間分出しておくが、早めに心療内科へ行くのだよ」
服部先生は、私の脈をみながらそう言った。
こうして私の診察を終わった。
父と母からしてみれば、何があったか気になるところだろう。
でも聞かずにいてくれたのに、ほっとした。
しかし新たに「心療内科に行く問題がある人」というレッテルが自分自身にはられたことに傷ついていた。
たった1週間。
きっと人の心を壊す期間は1分でもあり得るのだろうと思えたのは。ずっと先のことだった。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました!
更新を今の今まで忘れていて、いつもより遅くなってしまいました。申し訳なかったです。