私は何故小説を書くのか
私は何故小説を書くのか。
結論から言えば『業』を背負っているのだ。
Twitterを眺めていたところ、とある小説家様の無期限の活動休止宣言が拡散されてきた。内容を要約するならば「読者からの反応がなくなってもう小説を書きたくない」という具合だ。私もこの宣言に思うところがある。この機会に自分の創作者としての在り方を見つめ直そうと考え、これをしたためている次第である。
そもそもお前は誰なんだ、という方が殆どであろうから、軽く自己紹介をば。
ペンネーム『いちご大佐』。小説を書き始めて六年経つ。別に何の実績もないしこれで飯を食っているわけでもない。ただただ頭に浮かんだ物語を、文章に書き起こし、このようにして電子の海に放流している。代表作(というのも烏滸がましいが)は『改造怪物スイーパー』という長編小説。何せ六年前初めて書き起こした小説がこれであり、六年経った今もひそひそと連載を続けている。
さて、本題に移ろう。創作者としての在り方の話だ。
上で述べたように、私は『改造怪物スイーパー』という作品を六年書き続けている。だがこれが話題になるようなことは未だに一度もない。当然だ。技能未熟で筆も遅い、おまけに極めて趣味が悪い。作者が言うのも変だがよくこんなものに点数が付いているものだ。
そのような有り様で何故筆を止めないのか。創作が好きだから? 断じて違う。寧ろ嫌いだ。あれでもないこれでもないと試行錯誤している時間が苦痛で苦痛で仕方がない。私は絵も描くがそれも同じだ。こんなことを好きでやっている奴らの気が知れない。では何故か。答えは極めて単純。物語が生まれてしまうからだ。
私は幼少から酷い思考癖があり自分の思考を自分で止めることができない。文字や数字やキャラクターが勝手に頭の中に生まれてきて、起きている間中ずっとそれを転がし続けている。そして、単なる空想で終われば良いのだが、それを何とかして形にしないと気が済まないのである。私のような創作者は意外と多いのではなかろうか。好きではないがやらねば死ぬ。実際死ぬわけではないが、生き方にすら関わるこの部分を歪めるというのは、人として死ぬのと同義だ。
私はこの「絶対変えられない生き方」を『業』と呼んでいる。業とは本来「前世の罪」だとかを意味するが、昔読んだ何かでこのような定義をしていたのが強く印象に残っているので、以来この表現を用いている。成る程この不自由な生き方、閻魔様のせいにでもしたくなるというもの。
しかし世間ではしばしば特定の人間性を強要をされる。
大学で油絵を学んでいた際、楽しんで描けとよく言われたものだ。楽しんで描いた作品こそ人の心を引きつける。そうでない作品はただのつまらない作品だと。絵に限らず、例えば教師ならば子供好きであり教えることに情熱を持つこと、医者ならば責任感強く人の命を救うことに心を燃やすこと……等を世間は求めてくる。感情が何かの材料になるのだと信じているのだ。だが敢えて言おう。そんな馬鹿なことがあるか。感情とはつまるところ『行動の型』だ。確かに感情の赴くまま行動して上手くいくことは沢山あるが、それが必要不可欠の材料になるなど、ただのオカルトだ。まあ彼らに何を言ったところで「心が籠もっていない」と一蹴されてしまうのだろうが。兎に角、感情信者の蔓延るこの世の中は業を背負った人間にはとても息苦しい。辟易する。
だが一方で、この業に生かされている側面もある。
ここ数年私は、しばしば死ぬことを考える。一度や二度ではなく数え切れないほど。本筋から逸れるので詳しく言及しないが、簡単に言えば、辛い出来事が多く割に合わない人生だと感じるのだ。しかしその度にある思いが楔となる。
「まだ『スイーパー』を書き上げてない!」
勿論他にも色々な楔があるのだが、中でも特に大きなモノがこれだ。この身体が死のうがどうでも良い。ただ人として死にたくない。もう永遠に物語を形に出来ないのだと思うと死ぬに死ねない。じゃあスイーパーが完結したら死ぬのかと言えば、それはない。まだまだ物語は無限に生まれてくる。それを全部形にし終えるまでは死ねない。まさに業。自ら苦痛を浴びるために辛い人生を耐え続けている。
かの夏目漱石は死に際にこう言い放ったらしい。
「ここに水をかけてくれ! 死ぬと困る!」
生者風情が死んだ者のことをあれこれ語るのは好きではないのだが、それでも何となく、彼もまた業を背負った人間だったのかなと思わざるを得ない。何せ書き途中の長編小説『明暗』が絶筆となってしまったのだ。私ならばあの世で気が狂う。
ここで冒頭の某宣言の話に戻ろう。
読者からの反応がない、ということが作者にとってどういうことなのか。作者の在り方次第でその意味は色々変わる。
まずその作者が自己承認欲に動かされている人ならば、これは致命傷だろう。そもそも目的達成ができていないのだから。
ならば「好きで書いている」という人ならばどうか。好きで書いているのならば書くこと自体が目的だ。評価云々が創作活動に直結することはないように思われる。だがその目的自体が崩れたなら。つまり、書くことが好きでなくなる、ということは往々にしてありえる。そして読者からの反応というのは作者の心理に強く影響を与えるものだ。無反応という低評価を受け続ければ、いずれは心が折れないとも限らない。月並みな意見だが、創作を好きで居続けたいならば評価とは無縁の内輪で楽しんでいるのが一番賢いだろう。
そして私のように『業』で創作している人は。多分、上の二つのタイプよりはずっと読者の影響を受け辛いだろう。現に大して評価されていない作品を延々連載し続けている。だから私はこれで良いはずだ。
創作者としてはこの在り方で良いはずだ。
だが時々正気に戻ってしまう。
このまま業を背負い続けていれば人としては幸福になれないだろう。
しかし業を捨てて狂うよりはマシだ。
本当にこの生き方でいいのか?
いや、良い。幸福になる必要などない。
私はこれでいい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
私はこれでいい。私はこれでいい。幸福にならなくていい。
以上。