第5話
薄闇の中で静かにそれは辛うじて向こう側が透けて見えるほどの透明度で水色の明かりをぼんやりと発している。
泉周辺に生えた苔の緑と相まって、岩場に狭められた細い光の線によって照らされたその姿は、しばらくこのまま眺めていても良いとも思えるほど幻想的な景色だったが、ベゼルもそこまで暢気ではない。
出来る限り相手を刺激しないように静かに立つ。確かに魔物と対峙するのは同じだが、青戦熊と比べればスライムは危険度の少ないまものであり、今は冒険者の心得を思い出す程度の冷静さはある。
ベゼルが完全に立ち上がってもスライムはほとんど無反応なようだ。
「よかった・・・いきなり襲われるってことは無さそうだな」
ここに来るまでに山を落ちてはいるものの、平地に比べればまだ魔素は濃い地域のため、スライムも恐らくこちらから害を加えない限りは襲ってこないだろう。
警戒しつつ、ゆっくりと距離を取る。
ある程度スライムから離れたら、自分の状況を改めて確認する。
まず剣は吹き飛ばされた時に落として来てしまったようだ。
荷物は背負っていたので装備に関してはそれほど損害は無いが、不倒の緑のメンバー達と離れてしまったのは痛い。
ここからは下りとはいえ、山の気温や空気の薄さに対しての補助はイスバが魔法で行なっており、はぐれてしまった以上はその補助無しで進まなければならない。
また、魔物の対処も問題だ。そこにいるスライムのような魔物なら良いが、好戦的な魔物と遭遇してしまえば、今のベゼルにはどうしようもない。
「それに・・・」
自分の周りを眺めるが道らしい道は見当たらず、周りは鍾乳洞の天井が無くなったような岩山が林のように立ち並んで泉を囲み、
水の流れる先は小さな洞窟のようだが、暗くて先は全く見えない。
「そもそもこれ、・・・ここから出れるのか?」
遭難時の常套手段はその場から離れないことだが、あのはぐれ方をして生きていると信じてもらえる方が可能性としては低いように思う。また、冒険者がその依頼の中で起こることは自己責任だ。それは例え新人でも変わらない。
改めて、この絶望的な状況を自分の力で解決するしかない事を確認し、ベゼルは立ち上がった。
「登るのは・・・無理そうだな」
高くそびえる岩山の一つに手をあてて感触を確かめる。岩肌は少し湿っていて、上に登る途中で滑り落ちてしまいそうだ。
物によってはかなり高さがある岩もあるので、下手に登って落ちると更に状況を悪化させることになりかねない。
「そうなると、こっちしか道は無くなるわけか。」
そう言いながら、水が流れゆく先の全く見えない深い暗闇が広がる洞窟を見据える。
魔法などで明かりを出す事が出来れば一気に危険度は下がるが、残念ながらその選択肢は無い。また、洞窟の入り口はベゼルが四つんばいで丁度くらいの大きさのため松明などを持って入るのも困難だ。
何も見えない暗闇の中を出口もあるかわからない中、丸腰で進んでいくしか無い。
しかし、現状それしか道がないのも事実だ。
川とも呼べないほどの水の流れに沿って洞窟に近づくと、濡れた指先を一本突き出し、洞窟の入り口に近づける。
「良かった。空気の流れはあるみたいだ。出口はともかく、最悪窒息死は避けられるか」
今一度、装備の確認と持っていた水筒に泉の水を確保し穴に乗り込んでいく。
〜〜ティアフォール山 洞窟〜〜
決意を固め、用意していたカバンを腹側に抱えるようにして、四つん這いで穴に入っていく。
当然恐怖はあるが、この道を行く以外にここから生きて帰る術は無い。
洞窟の中では多少狭くなったり広くなったりはするが、概ね幅は変わる事なく繋がっていた。
急に狭くなった洞窟の天井に頭をぶつける事は何度かあったものの、洞窟内では幸いにして暗闇の中で水色の光を放つ夜行キノコの一種が時々生えており、その明かりを目印にして進む事が出来る。
しかし、四つん這いで丁度程度の穴を進んで行く閉塞感と圧迫感は、入る前の想像を遥かに超えており、ベゼルの体力と気力を大きく消耗させていた。
体のあちこちに痛みを感じて来た頃、一旦休憩を挟もうと洞窟の中で仰向けになると、足元の方にぼんやりと明かりを感じる。
少なくともベゼルの記憶ではその位置には夜行キノコは生えていなかったはずだ。
不審に思い意識をそちらに集中させると、明かりはゆっくりと、しかし確実に動いている。
その明かりの正体に思い至った瞬間、ベゼルは死に物狂いで先に進み始める。
ヤバいヤバいヤバいヤバいーーー
対峙した時に襲って来なかっので、こちらに全く関心が無いものと意識の外から消してしまっていた。そう。あのスライムがベゼルの後を追いかけてきているのだ。
地上では状況次第で退ける、または逃げることも出来るかもしれないがこの洞窟で身動きが取れない状態では万に一つの勝ち目も無い。
「なんでっ・・・なんでだよっ!!」
何か具体的にわからない事があるわけではない。何故スライムが今さら襲ってきたのか、何故あの場所に落ちてしまったのか、そんないくら考えても答えの出ない疑問たちが、自らの境遇を呪う言葉となってベゼルの口から溢れてくる。
「なんでっ・・嫌だっ・・・どうしてこんな・・・」
短期間に何度も死の淵に追い込まれてベゼルが考えたのは、そんなどうしようもない不平感にも似た感情だった。
岩場を必死で登ったせいで指の爪は剥がれ、顔は涙と汗でぐしゃぐしゃにし、服のあちこちを破きながらそれでも死は受け入れらず、抗って進むしか無い。足を止めて後ろを見れば、やはり先程と変わらずスライムは追跡を緩めようとはしない。
洞窟の圧迫感と後ろから迫り来る恐怖で半ば半狂乱状態のベゼルが体力の限界を迎えようとした時、穴が開けた場所に出た。
穴から転がり出るように這い出ると、距離を取り、無くしてしまった剣の鞘を持って穴に向かって構える。四つん這いで動き続けたせいで腰が固まってしまい、立ち上がろうにも体が持ち上がらず体勢はへたりこんだままだ。
スライムはベゼルが穴から出たそのすぐ後に、音もなく穴から這い出し出口で止まると、初めて見かけた時のようにそこから動かなくなった。
「なんだよ・・・なんなんだよお前っ!」
相手の意図が全く理解できず、ベゼルは叫ぶ。しかし当然スライムには反応は無い。
そしてベゼルは一つの回答に至る。
「そうか・・・お前、僕が動けなくなるのを待ってるってことか・・・」
魔素の濃い場所ではそれほど頻繁に他の生物を襲う必要がない魔物は、そのような狩の仕方をした方が効率が良いのかもしれないという推論を出し、ベゼルはまた絶望に打ちひしがれる。
だが、その推論が仮に合っているとすると、落ち込んで弱っているように見えるとすぐに襲われる危険性もある。出来るだけ、通常を装わなければならない。
「俺はお前なんかに喰われてやらないからな・・・」
そう言ってベゼルは鞘を杖のようにして体を持ち上げると、スライムの方を睨みつけた。
泉での行動からも少なくともこちらから攻撃または、弱っている様子を見せない限りスライムは何もして来ないという結論からベゼルはその場で少し休息を取る。食事と水分を補給し持ってきていたポーションを一口流し込んだ。指先の痛みが消え、体にすこし活力が戻ってくる。ポーションはあくまで怪我の治療などで使用することを前提とした薬だが、体力の回復にも一定効果がある。
「・・・・よし。
少し休んだら体力もそれなりに回復した。洞窟の中の寒さもそこまで気にならないし、この場所の魔素が濃いお陰かな?」
辺りを見回すと、洞窟の穴から出た広間のような場所は地下水の溜まり場になっていて、その上には道すがら目印にしてきた夜光キノコが大量に密集しているため、広間の視界には困らない。そこから、ベゼルが出てきた穴を一番上として、他にも3つほど人が立って入れる程度の大きさの洞窟に繋がっている。
「どれが外に繋がってるんだ・・・・」
もちろん、全ての道が行き止まりの可能性もあるが、それを今考えても仕方ないーーー
そう考えながら洞窟を見ているうちに、スライムがベゼルに向かって動いている事に気がつき、反射的に目の前にあった真ん中の道に飛び退いてしまった。
スライムはジリジリとベゼルに近づいている。
「どうして急にっ・・・ しかもこっちに向かって来てるっ」
危険を感じたベゼルはスライムに背を向け、仕方なく入ってしまった道を走り出す。この洞窟の広さであれば走って移動が出来るし、走っていればスライムの移動速度ではついて来れないはずだ。
「はっ・・・はっ・・・」
暫く走り、おそらくスライムとの距離もかなり空いたところでまた休憩をとる。だが、スライムに追われながらのため、満足に眠る事もできない。
少し休憩を取りまた走り出す。
魔素の濃さのお陰か、体力的にはこのペースでもう暫くは移動できると感じたのと、今はむしろじっとしている方が余計なことを考えてしまいそうで、走っている方が気が楽だった。
また何度か走っては休みを繰り返しているうちに、
段々と洞窟の道が広くなってきているように感じる・・・出口が近いのかもしれない。
そんな希望を抱いた矢先、ベゼルふと歩みを緩めると段々と周りの明るさが消え、向かう先には完全な暗闇が広がっていることに気がつく。比喩的な意味ではなく、今まで洞窟のなかで明かりとなってくれていた夜光キノコの姿が消えているのだ。
そのためその先が、行き止まりなのか、それとも単なる暗闇なのか全く判断がつかない。
「逆によくここまでキノコが生えててくれたって 感謝した方が良いくらいかもな」
良いながらベゼルは荷物の中から松明の準備を進める。
道具自体はあるのだが、洞窟内湿気が多くなかなか松明に火が付かない。
ーーようやく松明に小さな火が着くと、ベゼルは頭上に違和感を覚えて視線をあげる。
「ーーー天井が、動いた?」
足元の松明には完全に火が付き、持ち上げると同時にベゼルの状況を露にさせた。
キノコが無くなった訳ではない。その上を覆っていた者が居たのだ。
「吸血蝙蝠・・・・!」
洞窟の天井を覆うほど、大量の蝙蝠達が松明の明かりに照らされてその瞳をベゼルに向けている。逃げるかーーそう思って後ろを振り返る。
「嘘だろ もう、追い付かれた!?」
松明に火を付けるのに多少手間取ったとはいえ、まだ追い付かれるような距離ではなかったはずだが、ベゼルのその疑問に答えてくれるものは今この場には居ない。
スライムか、吸血蝙蝠の群れかーーー
並みの冒険者であれば、両方同時でも対処が出来てしまう顔ぶれだが、ベゼルにとってはどちらも死の危険を伴う。危険度であればスライム一体に対処する方が楽だが、対処したとしてもその先はまた洞窟だ。一方、蝙蝠の群れは危険だがその先に出口がある可能性もある。
「ーーー行くしか・・無いっ!!!」
少しでも防御力をあげるため、装備の上からローブを纏い片手に松明、もう片方に剣の鞘を持ってベゼルは暗闇の中へ突っ込んでいく。
「うわぁぁぁあーーーーッ!!!」
本人は威嚇のつもりだが、悲鳴にも近いような雄叫びをあげ、両手を振り回しながら突き進む。
途中何度か蝙蝠を打ち落としたような手応えはあった。恐怖と、最悪行き止まりになれば剣か松明が先に当たるだろうという考えから、半ば眼を瞑って走り抜ける。
すると突如、空気の匂いが変わり、
「おわっ!!」
足元に躓いてベゼルが派手に転ぶ。
ーーー目を開けると、夕方に差し掛かかり少し下から橙がかった青空が見える。
「外に出て・・・出られた!!出られたんだ!!」
情けなくも安心して気が緩み、涙が溢れる。
良かった・・・まだ生きてる・・・生きていられる・・・
涙目で見た空の色はあの山頂で見た景色と少しにていたが、ベゼルの胸にあったのはあの時のような高揚感ではなく、ただただ今自分の命があることへの安堵だった。
だが、喜ぶのも束の間、未だ遭難中であることには変わり無い。
周りの景色からすると、そこそこ山の下までは降りてきたようだが、洞窟の中もかなり長い距離を移動して来たので、ここがティアフォール山のどの辺りなのかも全く想像が付かない。出来れば山を降りて人里を探したいが、松明もあるので、どこかで狼煙を上げて助けを待つ方が懸命だろう・・・
そう考えて、狼煙をあげるに適した木の枝等を探そうとし始めた時、
大きな羽音と共に地面に降り立った人影が、ベゼルに向かって凄まじい速度で走り出す。
「!!」
かなり手遅れな距離まで近づかれてベゼルはようやくその存在に気がつき、
その走った勢いのまま繰り出された右ストレートを顔面に受けて吹き飛ぶ。
「おぶっ!! ーーー痛ったぁ・・・」
衝撃的な事の連続と疲れで、脳がロクに機能していない。
殴られた頬を擦りながら仁王立ちしてこちらを睨む人影に顔を向ける。
ーーー見上げた先に居たのは目に一杯の涙を湛えた少女。
すらりと伸びた背に、片方にまとめている黒髪。涙で潤んで煌めいているのは吸い込まれてしまいそうなどこまでも黒い瞳。
ベゼルの探し人、ユリィその人だった。
「ベルのバカっ!! 死んだらどうすんのよっ!!」
ベゼルにとっては死にそうな状況からさらに追い討ちをかけられて言われる台詞では無いと思ったが、駆け寄ってきたユリィの瞳を見るとそんな感情は掻き消えてしまった。
「ーーーーごめん」
「あんた弱いんだから・・・もう止めてよこんなのっ・・・・」
ユリィはベゼルの肩を掴んで泣き崩れる。
「ーーー本当にごめん」
でも僕は・・・そう、ベゼルが続けようとした時、ユリィの背中越しに現れる影に気がつく。
「ユリィ危ない! 後ろ!!」
ユリィは即座に剣を抜き後ろに振り返る
「・・・スライム?」
「そう。俺洞窟からずっとコイツに追いかけられてて、、俺のこと食べる気なんだと思う・・・」
「全く・・・スライム一匹対処出来ないのに、冒険者ギルドなんか登録してんじゃないわよ!
このスライムは私が倒しておくから、ベルは後ろに下がっててね。」
言いながらユリィは剣の刀身に手を触れマナを纏わせている。
スライムは自らの状況を理解していないのか、ベゼルを追いかけていた時と同様に自分から動こうとはしない。そしてそのまま光を放つ剣をスライムに向け、切りかかる
ーーーーが、すんでのところでユリィの剣が止まる。
「・・・・あれ?」
「ユリィ、どうしたの?」
「ベル・・・・このスライム・・・。
ーーーベルがテイムしてるみたいだよ?」
お互いに何を言っているのか解らないという表情で見つめ合う二人の冒険者を尻目に、
物言わぬ水色の球体が風に吹かれて静かに震えていた。