幼女の魅力が世界を変える 4
「エマさん、嘘、です、よ…………」
急に声が出なくなった。絞り出そうとしても、かすれた音とともに息が吐き出されるだけ。舌が痺れるような感覚が襲い来る。身体が思うように動かなかった。指先が意思に反して小刻みに震えている。
それを見たエマさんが口元を歪ませる。
「シャルくん、ご苦労様。作戦、大成功だね」
作戦? 何のことだ。問いただそうにも声が出ない。セルシスたちの視線を感じたけれど、首を振ってみせることすらできなかった。
エマさんは僕に歩み寄り、僕だけに聞こえるように耳元で囁いた。
「痺れ薬がようやく効いたんだね。即効性の強力なやつだったんだけど、このタイミングで効いてくれてラッキーだよ」
そんなものを打たれた覚えはない。僕の疑問に答えるように彼女は舌を出した。綺麗なピンク色をした舌の上には小さくなった飴玉が一つ乗っている。エマさんが帰り際にくれた飴玉に痺れ薬が入っていたということか。鬼である僕には効果が薄かったのだろう。それでも僕の動きを封じる程度には強力なようだ。
エマさんはその舌を僕の口内へ侵入させる。貪るような口づけ。僕の舌にエマさんのが絡みつく。麻痺しているせいで何の感触もなくて、その行為を他人事のように眺めていた。
彼女は飴玉を僕の口の中に残して、瑞々しい厚い唇を離す。糸を舐めきる妖艶な動きが、今は苛立たしかった。
「ご褒美だよ、シャルくん。この子たちを殺したら、約束通り結婚しよっか」
待ちに待った返答。これでエマさんと幸せに暮らせる。
そんな喜びなんて、微塵も感じなかった。
「しゃ……る…………」
か細い声でセルシスが僕を見上げていた。その表情を見て、ようやくエマさんが僕に口づけをした理由を知る。
違う。違うんだよ、セルシス。
叫びたいのに、今すぐ伝えたいのに、この喉は、この舌は、ただ震えるだけだ。
「……そん……な……」
セルシスの頬に一筋の光が流れていった。それは洪水のように目から溢れ、彼女の丸い顎から滴り落ちる。
エマさんは僕の背中へ這うように腕を回す。
「こんな穢れた怪物の面倒を押しつけちゃってごめんね。その分、これからはたっぷり甘えさせてあげるからね。これから私は、シャルのものになるんだよ」
「しゃる……わた、し……の、こと…………」
「シャルは何とも思ってないよ? まさか、好きになっちゃった? 勘違いしないでよ。シャルは私のためにあなたたちに優しくしてたんだよ」
「しゃる……」
小さな手が壊れそうなほど、スカートをぎゅっと握り締める。
救いを求めるように見上げる視線に、僕は応えられない。
迸る怒りを瞳に込めて、エマさんを睨みつける。視線が合った彼女は暗い顔で苦笑するけれど、すぐにその目に憎悪を滾らせ、セルシスへ顔を向けた。
その妖艶な唇が、セルシスの心にナイフを突き立てる。
「あなたのことを愛してくる人なんて誰もいない。私とシャルのために、早く――」
――死んで。
心が砕け散る音が聞こえたような気がした。セルシスは膝を折り、ガックリと肩を落とす。俯いた顔から落ちる滴が、地面に染みを広げていく。
エマさんが合図すると、家屋の屋上から銃を構えた軍人が大勢姿を現した。照準はセルシスたちへ向き、その引き金はすでに動き出している。
「セルシー! しっかり――」
リノが駆け寄ろうとするけれど、足を止めて息を呑む。
セルシスの周囲が陽炎のように歪み始めた。肌を焼くような熱を感じ、彼女を中心に風が吹き荒れる。
放たれた銃弾の雨は彼女へ届くことなく宙で溶けた。
ゆらりと立ち上がるセルシスの顔が上がる。白い肌に走る赤い亀裂。生意気な可愛い顔は面影なく狂気に染まり、凶暴な犬歯が牙のように尖る。深紅の髪はまるで炎に姿を変えたように揺れ広がり、血の色で満たされた目が僕らを捉えた。その額から小さな黒い角が二本顔を出す。
鬼と化したセルシスが口にしたのは、とても人間とは思えない、獣のごとき唸り声だった。
構えられた長剣に炎が渦巻く。肌を突き刺す殺意。それに呼応するように苛烈さが増していく。鬼となったことで格が上がり、アルカゼノムの力を最大限まで発揮できるようになった彼女は、すべてのものを灼き尽くさんと腕を振り回す。
迫り来る灼熱。身体はまだ動かない。エマさんは目を見開いて硬直していた。恐怖で表情が引き攣り、目覚めさせてしまった絶望を前に、途方に暮れているように見えた。
死んだと思った。けれど間一髪のところで僕の身体は炎から遠ざかっていく。
「り、の……」
ようやく絞り出せた声。助けてくれたことに驚きと疑問があった。エマさんの言葉を信じれば、僕はリノたちを裏切っていたことになる。セルシスはそれに絶望し、鬼に飲み込まれてしまった。だから見捨てて当然のはずだ。
涙を浮かべたリノが引き結んだ唇を開いた。
「わたしはバカだからな。エマの言ってたことはよく分からん。だからわたしは、わたしが信じたいものを信じるぞ」
無理矢理に笑おうとして、リノは震える口角を吊り上げる。不細工な笑みが僕の胸を締め付けた。
「どうしたらいいのかな……。セルシーが、おにに、なっちゃった……」
震えながらゆっくりとしか動かない手をリノの頭に乗せてやる。今の僕ではボサボサの髪をとかすことすらしてあげられない。
「だい……じょう、ぶ……だ」
何が大丈夫なもんか。一度鬼になってしまったアルカゼノマーが元に戻った例など聞いたことがない。それでも僕はそう言うしかなかった。僕自身の折れそうな心を支えるには、虚勢を張るしかなかったのだ。
「とりあえず街の外へ出ます。ここでは被害が拡大するだけですから」
隣にいたマリアさんがエマさんを抱えながら言う。カミュは背中に抱きついていた。
「は、放して!」
険しい表情でエマさんを一瞥し、マリアさんは正面へ顔を戻した。
「黙っててください。エマさんのために助けたんじゃありません。セルシーちゃんのためですから」
リノたちは屋根を伝い、街の外へ一直線に走る。後方で空気を薙ぐような轟音が鳴り、振り返ればセルシスを囲んでいた軍人が炎の渦に飲まれ、灰と化して消えていった。
アルカゼノマーは借り物の力を行使しているだけに過ぎない。そのため物に力を付与するのが限度だ。依り代を介してでしか、奇跡を起こすことができない。
けれど正当な行使者である鬼にその制限はない。それ単体で具現化が出来てしまう。
幸か不幸か軍の時間稼ぎによって、僕たちはもうすぐ街を抜けようとしていた。しかし、その行為は自ら火の中へ飛び込む虫のようなものだった。
待ち構えていた小隊が一斉に銃口を上げる。着地点に向かって宙を飛ぶ僕らに、それを避ける術はなかった。
心臓を一突きにされるような鋭い殺意を感じて、僕はようやく動くようになった手で剣を後ろへ振り上げた。
重い金属音が弾け、その衝撃を殺すことができずに僕らは吹き飛んだ。流星が空を駆けるように軍人たちの頭を越えて、数十メートルに渡って地面を抉る。剣を持っていた方の腕に痛烈な痛みが走り、見れば変な方向に曲がっていた。
「大丈夫か?」
駆け寄ってくるリノに傷は見当たらない。上手く受け身を取ったようだ。鬼と化したセルシスに注意が集まったおかげで、マリアさんたちも無傷で僕のところまで来られた。
マリアさんのに腕を治して貰い、セルシスの方へ顔を向ける。僕らを攻撃した隙を狙われ、彼女は銃弾をその身に受けていた。
軍人たちが使っている武器には十中八九、人工瘴気が練り込まれている。人工瘴気はアルカゼノマーの弱点で、家でリノたちが行動不能に陥ったのはそれが原因だ。触れるだけでアルカゼノマーの身体は弱体化する。
僕のような生まれながらの鬼や、人間には効果がない。アルカゼノマーにだけ効き目を発揮する。それは鬼の力を移植する際、人工瘴気に弱くなるよう意図的にいじられているからだ。人工瘴気は対アルカゼノマー戦の切り札と言える。それによって政府は鬼と化した者や逆らう者を処理してきた。
セルシスの身体中から血が流れる。けれど、しばらくして傷は塞がった。僕の何倍もの回復力。鬼の力が身体に馴染んでいる証拠だ。
弱体化してもセルシスは強かった。小隊をあっという間に薙ぎ払い、一帯を煉獄へと変える。僕らを捉えた彼女は地面を踏み砕き、矢のごとく一直線に向かってくる。
その殺意を遮るようにリノが前に出た。
「下がれ! リノ!」
僕の言葉なんて届いていない。リノは真っ向勝負を仕掛ける。けれど、それは愚策だ。今のセルシスは鬼の力によって身体能力が跳ね上がっている。正統な鬼の僕ですら力負けし、あまつさえ腕をへし折られたのだ。いくらリノでも渡り合えるとは思えなかった。
しかし、リノは凡である僕の予想を遙かに上回る天才だった。
衝突した二人。セルシスの剣を、リノは決して受け止めずに流す。槍のリーチを活かし、初動の段階で攻撃を弾き、その軌道を大きく逸らす。彼女は並々ならぬ身のこなしで槍を操り、懐に飛び込もうとするセルシスを寄せ付けない。
見事にセルシスを押さえ込むリノに僕は希望を見た。けれど、容赦なく剣を振るうセルシスに対し、リノは防戦一方で、隙があっても攻撃しようとしない。戦いに挑む覚悟の差は、拮抗したかに見えた彼女たちの戦いを大きく傾け始める。
セルシスの踏み砕いた地面から火柱が立ち上った。リノはそれを後ろに飛んで避ける。そこへ自身の身体が焼けるのにも構わず火柱を突っ切ったセルシスが、大上段に構えた長剣を振り下ろした。リノは驚愕に目を見開き、その剣を受けてしまう。彼女たちの周囲が音を立てて陥没した。リノは歯を食いしばって受け止めている。震える腕にむち打って、リノはセルシスを睨んだ。
「セルシー! もうやめろ! わたしはセルシーと戦いたくないんだぞ!」
彼女は唸り声を返すだけだった。リノの表情が苦悶に染まる。ミシミシと腕が悲鳴を上げているのがここまで聞こえてきそうだ。
セルシスは握る手にさらなる力を込め、リノを押し潰そうとする。それにも耐え抜いたリノ。けれど、唐突に終わりを迎えた。
炎を纏い、赤く発光した長剣が槍の柄を両断したのだ。そのまま振り下ろされ、リノの左肩から腹部にかけて鮮血が噴き出した。咄嗟に後ろへ飛んでいなければ、リノは左側を失っていただろう。とは言っても致命傷を避けられただけで、傷は十分に深かった。下がろうとするリノをセルシスは逃がさない。半分の長さになった槍で応戦するも、すでに勝敗は決していた。もう後がない。
それを見たマリアさんは眦を決し、バトルライフルを構える。ダイヤルを回し、フルオートモードへ。抱きかかえるようにして地面に転がり、全身で銃を固定する。
「シャルちゃん! 私を抱いてください!」
「へ、だ、だ、抱くって――」
こんなときにえっちなこと……。
「銃口がぶれないように固定して欲しいんです!」
バトルライフルは大口径のため殺傷能力が高い。けれどその分、反動が大きいため狙いが安定せず、フルオート射撃には向いていない。
知ってたよ。うん。
多少の罪悪感を覚えつつ、マリアさんから言われたんだから無罪と心中で唱える。覆い被さるように抱きつくと小さな身体がすっぽり収まり、柔らかい感触が僕へ牙を剥く。
「もっと強く押さえてください!」
「ひゃ、ひゃい!」
煩悩を押し殺し、マリアさんの幼い身体をぎゅっと抱き締め、地面に縫いつける。そこへカミュも加わった。こんな殺伐とした状況でなければ歓喜に打ち震えるシチュエーションだ。
マリアさんがトリガーを引き絞った瞬間、強烈な衝撃が全身を駆け抜けた。思わず手を放してしまいそうになるのをグッと堪え、マリアさんを押さえる。
その甲斐あって全弾が寸分違わずセルシスへ殺到した。常人であれば蜂の巣。けれど、セルシスはそのすべてを灼き消した。
弾倉が空になるまで打ち尽くすもセルシスは無傷。しかし、リノが離脱するための時間を稼ぐことはできた。
「――主よ、それは奇跡の賜物。私は願う。痛みと絶望の苦しみを癒やす御手をお差し伸べください」
リノの左半身の傷に、マリアさんが銃口を突きつけトリガーを引いた。瞬間、リノの身体が光に包まれる。傷が修復を始め、あっという間に塞がった。
負傷を帳消しにできたものの、リノにはもう獲物がない。戦力としては期待できないだろう。マリアさんも接近戦向きではないし、カミュは論外だ。次なる足止め要員は僕しかいない。
リノやエマさんたちと距離を置くため、セルシスの方へ走った。けれど無策に突っ込んだりはしない。リノのような戦闘センスもセルシスのような膂力も僕にはない。あるのは少しだけ頑丈な身体と気持ちばかりの回復能力だけ。
できる限り戦わずに時間を稼ごうとするけれど、セルシスは僕の思惑に真っ向から斬りかかる。剣筋ばかりに気を取られ炎に灼かれては元も子もないので、大きく避ける。小手先の技術での競り合いはなしだ。
はっきり言って、これは心の整理をつけるための時間だった。
救う方法など皆目見当がつかない。狙いは僕とエマさんのようだから、逃げても追ってくるだろう。限界のぎりぎりまで引っ張って、それでも駄目なら――――殺すしかない。
セルシスだってこの状態のまま生きていたくはないはずだ。もし、彼女の身体にまだ心が残っているなら、そう思っているはずだ。
そうだ。自分がセルシスであることを忘れてしまったなら、目の前にいるのは彼女ではない。誰とも知れない、ただの不幸な鬼だ。
だったら殺してやった方が親切というもの。
そう。これは自分を納得させるための、少しでも罪の意識から逃れるための時間。言い訳を並べ立て、彼女を殺すことを正当化するための儀式。
僕はセルシスを殺したくない。けれど、しようがないじゃないか。
決意を固める度に、決意が揺らいだ。強く握りすぎたせいか、剣を持つ右手の感覚がない。口が渇いて、体中から汗が噴き出る。心も体も拒絶する選択。
けれど、きっと、これが僕の役割なのだろうと思った。
僕は彼女たちを幸せにするために生き残ったんじゃなかった。そんな良い配役が来るはずがないのに、恥ずかしいったらありゃしない。
僕は彼女たちの介錯人となるために生かされたのだ。暴走してしまった彼女たちを確実に殺せる、おそらくはこの世界でたった一つの存在として。
僕のアルカゼノムは一振りで街一つを吹き飛ばずことのできる強力なものだ。けれどそれは、力を制御できないせいだった。角が短いせいか、上手く操作ができない。ここで使えばリノたちを巻き込む危険があった。
力を使おうと考えるときには、必ずあの記憶が蘇る。




