(3)
「っ……」
かすかに震える自分の手首を、もう片方の手で強く押さえつける。
――落ち着け。アーティの居場所を教えてもらうだけだ。そんなに重い取引ではないのだから。
深く呼吸して、考えを巡らせる。自分が持っているものは、リュック、スマホ、紅茶の入った水筒。それから……。
私は急いで、リュックからパイの入った紙袋を取り出した。
「これを……」
ルカに差し出すと、彼は緑の目をぱちりと瞬かせた。やがて、軽やかな笑い声があがる。
「ジャックお手製のパスティか! これはいいね。彼の作るものは何でもおいしいから」
「ジャックを知っているんですか?」
彼の口から出てきた名前に驚く。ルカは「もちろん」と頷いた。
「うん、よく知っているよ。君の知らないことも、たくさんね」
そうして思わせぶりな笑みを浮かべたルカが、腰を屈めて、ぐいっと顔を近づけてくる。
「教えてあげようか?」
甘く誘惑する声。間近にある美しい顔。影になった目の色は、木立の重なる葉のように複雑で、昏くて、奥にあるものを見通すことはできない。
「……いいえ、けっこうです」
私は首を横に振った。どんな対価を要求されるか分からないからだ。
それに、ジャックのことを詳しく知りたいと思うほど、私は彼のことを知らない。彼が自分から話さないことを、他人から聞きたいとは思わなかった。
私が今知りたいのは、アーティの居場所だ。そして、ジャックが待つ家に早く帰る。
紙袋をルカに押し付けるように渡して、アーティのことを聞こうとした時だった。
伸ばした手を、彼に掴まれた。
ひんやりとした、冷たい手。
咄嗟に振りほどこうとしたが、やんわりと手首を掴む彼の手は、鉄の枷のようにびくともしなかった。
そのまま手首を軽く引かれて、前によろける。倒れ込む私の腕をルカが掴んで支えるが、それは彼の腕の檻に囚われる形となった。はっとして見上げた私の目の前に、ルカの顔がある。
間近で見るとなおさら、彼は幻のように美しかった。
髪色よりも少し濃いブロンドの睫毛が、瞬きで揺れて光る。緑の目は、宝石のように少しの動きで微妙に色合いを変える。
エルフや人魚、吸血鬼……異人の中には、美しい容姿をしている者が多い。人間を魅了して精気や魂、血液を得るためだ。極上の美貌は、相手を捕らえるための罠でもある。
普通の人間であれば意識を奪われて相手の思うままになるだろうが、私は異人の能力に対してある程度の耐性を持っていた。
だが、目を見続けるのは危険だ。いくら耐性があっても捕らわれやすくなる。目を逸らそうとした矢先、彼が口を開く。
「……薔薇の香りがする。まだ四月にもなってないのに、ずいぶんと早咲きの薔薇だね」
『薔薇』と言う単語に、はっとする。
見開いた目の端で、覆い被さるルカの金髪が、さらさらと流れ落ちる。
「ジャックはね、薔薇が好きなんだ。庭で大切に育てているだろう? 吸血鬼だっていうのに。人間の伝承では薔薇の花は吸血鬼の肌を焼き、香りは彼らを退けるらしいね。実際はそうじゃないけれど、たいてい彼らは薔薇を好まない。……でもね、ジャックは薔薇を愛するんだ。まるで破滅を望んでいるかのように」
ルカの声は聞き心地よく、滑らかでよく通るのに、何を伝えたいのか理解できない。難しい戯曲の台詞を聞いているみたいだった。
そもそも、ルカはどうして、私にそんなことを聞かせるのだろう。
「祝福か、破滅か。君はどちらを届けに来たのかな? だって、君は――」
言いかけたルカの言葉を、鋭い鳴き声が遮った。
ヴォウッ、と空気を震わせる低い声が響いた直後、黒い影が横から飛び掛かってくる。ルカはすばやく私の手を離して、後ろに大きく飛びすさった。
その間に、私の目の前に黒い大きな獣の影が立つ。影は揺らめきながら徐々にはっきりとした輪郭をとり、ブルーグレーの毛並みを持つ犬へと変わった。
「アーティ……?」
アーティだ。アーティのはずだ。
彼の目は青白い燐光を帯び、体長の倍以上長くなった尾の先は、炎のようにゆらゆらと揺れていた。
長い尾で私を守るように覆ったアーティが、ルカに相対する。鋭い牙を剥いて唸るアーティに、ルカは降参するように両手を上げてみせた。
「落ち着きなよ、アーティ。彼女には何もしちゃいないよ」
「――人間を異界の挟間に閉じ込めておいて、何もしていないと言うのですか?」
アーティの代わりに答えたのは、静かな声。
いつの間にか、私の傍らにはジャックが立っていた。大きなブランケットを持ったジャックは、それを私の肩に巻き付けるように掛けながら、真剣な表情で尋ねてくる。
「サキ、大丈夫ですか?」
「え? ……あの、ジャック?」
「おや、男爵まで登場とはね」
ルカは半分驚き、半分愉快そうに目を瞬かせた。面白がるような声に、ジャックが目を眇める。
「リュカリウス、これはどういうつもりですか?」
「やあ、ジャック。管理局の新人さんに挨拶していただけさ」
「挨拶に何時間かける気ですか」
「だって、君がなかなか会わせてくれないから。わざわざ森から足を運んだんだよ? 少しくらい大目に見てくれてもいいじゃないか。それに……」
緑の目が、私を見つめる。
「とびっきり珍しい子だもの。そして、異人に取っては〝危険〟な子だから」
ルカは薄い唇の端を上げて笑う。
危険――それは、かつて私のことを『薔薇』と例えた者が告げた言葉と同じだった。
『君は、異人にとって〝危険〟な存在なんだよ。だって、君の血は――』
月明かりに照らされた雪原。黒い血だまり。
雪の上に投げ出された手足。人形みたいな二つの人影。
目の前に横たわる長い髪の少女。
細い首に無残に刻まれた二つの穴から、紅い血が滲み流れる。
逃げなさい。そう言った唇は青ざめて動くことなく。
逃げて。そう強く握られた後に離された手が、どんどん冷たくなっていく。
おねえちゃん、おきて。泣き続ける、幼い声。
『私なら、お姉さんを起こしてあげられるよ』
甘い誘惑の声が、耳に、脳に、痺れて――。
フラッシュバックする記憶に目眩がして、私は咄嗟に近くにあったジャックのカーディガンの裾を強く握った。
気づいたジャックが、私の肩を支える。厚いブランケット越しに彼の熱が伝わってきて、そのことにひどく安堵した。青ざめ俯いた私にジャックは眉根を寄せた後、ルカを見据える。
「……リュカリウス」
「ああ、ジャック。そんな怖い顔しないでよ。別に管理局と敵対する気は無いし、彼女に危害を加える気もない。……個人的には、面白そうな子だと思うしね。仲良くなりたいだけさ」
ルカは軽く肩を竦めて見せるが、ジャックとアーティの気配が和らぐことはない。二人に睨まれたルカは、やれやれと苦笑した。
「仕方ない。残念だけど、そろそろお開きにするよ。そうだ、パスティをありがとう。おいしく頂くとするよ。……それじゃあまたね、サキ」
紙袋を抱え、私に向かって軽く手を振ったルカが、踵を返して丘を下っていく。その姿は白い霞の向こうへ、闇の中へと消えていった。