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英国カントリーサイドの吸血鬼   作者: 黒崎リク
第一章 春には早い、三月
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(2)


 放牧が始まって、草を食んだり休んだりする羊の白い点も見える。頼りない足取りの子羊が親羊の後を追い、常に寄り添っていた。アーティについていく私みたいだ。

 似たような風景を一日一回は見ているのに、不思議と飽きることは無い。気づけば時間を忘れて眺めている。

 晴れていればもっと綺麗なのだろうが、今日の天気は曇りだ。そもそも、快晴が一日中続くことが少ない。

 この地は天気が変わりやすく、一日一回はシャワーと呼ばれるにわか雨が降るのが常なのだそうだ。現地の人は傘をさすことはなく、小雨であればそのまま、少し強い雨にはフードを被って凌ぐ。それに倣い、私も防水のウインドブレーカーを着てきた。

 曇り空の日差しは弱く、昼を過ぎても気温はそれほど上がらない。むしろこれから冷えていく時間帯だ。

 ストールかマフラーを持ってくれば良かったと思っていると、水を飲み終えたアーティがじっと見上げてくる。

 私は彼の首輪からリードを外した。


「い……行ってらっしゃい、気を付けて」


 声を掛けると、アーティは一つ頷いた後、身を翻して丘を駆け下りていく。

 この牧草地が広がる丘は、アーティの見回り場所だ。アーティは賢く、羊を追いかけたり吠え立てたりすることは絶対にしない。もう何十年も前から、この丘ではリード無しでいいと許可が出ているそうだ。

 アーティは広い丘を駆け回り、ジャックの代わりに目となり耳となり、異常がないかを確認する。ジャックの相棒としての役目をきっちり果たしていた。私よりもよっぽど『保護官』の仕事をしている。先輩という表現は正しい。

 ……思えば、ブライアーヒルに来てから、私は保護官らしい仕事をしていなかった。

 ジャックに連れられて、村の人に顔を覚えてもらったり、散歩という名の巡回をしたりと、それぐらいだ。

 研修は一年間あるのだから、最初から焦っても仕方ない。「まずはこの土地に慣れましょう」というジャックの助言通りに、地道にやっていくしかない。

 それこそ、まずはアーティと仲良くならなければ。そのために、ジャックは二人での散歩に行くように勧めたのだから。

 分かってはいるが、私自身、犬が苦手であった。アレルギーがあるとか昔噛まれて苦手だとか、そういう理由ではない。彼らを前にすると、どうしても身構えてしまうのだ。

 彼らは人間よりも正直で、感情を素直に向けてくる。逃げられたり、嫌われたりしたらと考えてしまうと、最初から近づかない方がいいのではと思ってしまう。

 犬だけではない。人間や異人に対しても、私は近づくことを恐れる。できるだけ距離を置いて、自分も相手も傷付くことが無いように。

 ……日本にいる頃から変わらない。臆病なままだ。

 重い息を吐いてから顔を上げると、いつの間にか辺りはうっすらと霞がかかっていた。立ち上がって見回すが、丘には羊どころかアーティの姿も見えない。


「アーティ?」


 アーティはたいてい見える位置を駆け回り、見えなくなったとしても五分も姿を消すことは無い。念のため五分待った後、今度はより大きな声で名前を呼んだが、姿を見せなかった。

 何かあったのだろうか。ベンチから離れ過ぎないように丘の上を移動しながらアーティの名を呼び、姿を探したが、やはり見つけることはできなかった。静まり返った丘にかかる霞はより濃く、周囲の景色を見えづらくする。


 ……様子がおかしい。


 さすがに普通の状況ではないと分かる。しかし、困ったときはアーティに頼るようにジャックは言っていたが、そのアーティもいない。

 急いでジャックに連絡をしようと、ベンチに戻ってスマホを取り出した時だった。


「――やあ、どうしたの?」

「っ!」


 背後から声を掛けられて、驚いてスマホを取り落としてしまう。ゴトッと鈍い音を立ててベンチに当たり、地面の草の上へと落ちた。

 慌てて振り返ると、一人の青年が立っている。

 背が高く、ほっそりとした身体つきで、カーキ色のウインドブレーカーとブラックジーンズを身に着けている。フードを目深に被っているため顔は見えないが、声は若かった。

 イースター休暇で地元に帰ってきた学生だろうか。その予想は、彼がフードを取った瞬間に覆された。

 現れたのは、肩よりも長い金髪と、透けるような白い肌。長い睫毛に縁どられた緑色の瞳に通った鼻筋、筆で描いたような淡い桃色の唇。

 細面の顔は完璧に整い過ぎていて、顔から下のラフなウインドブレーカーに違和感がある。そう、まるで撮影前で衣装に着替えていない、化粧済みのスーパーモデルだ。

 そんな彼の耳の先は、普通の人間よりも細く尖っていた。

 人間離れした完璧な美貌。彼にだけ光が当たっているような存在感。映画で見たハリウッドスターのハーフエルフに匹敵する……否、それよりも美しいかもしれない。

 本物の、エルフだ。

 初めて会うエルフに、私は緊張のあまり固まった。そんな私に構わずに、彼は気さくな様子で話しかけてくる。


「君は誰? どこから来たの?」


 笑みを浮かべながら近づいてくる青年に、思わず後ずさる。青年はくすっとおかしそうに笑い、慈愛に満ちた聖母のような眼差しを向けてきた。


「そんなに怖がらないで。僕はリュカリウス……ルカでいいよ。君の名前は?」

「…………サキ、です」


 警戒し、フルネームは言わずにファーストネームだけを答えた。

 青年、もといルカは「サキ」と確認するように呼び掛けてくる。距離があるはずなのに、彼の声は耳元で囁かれているように甘く響く。


「ねえ、君、困っているんでしょう?」

「……犬が、いなくなって」

「赤い首輪のボーダーコリー? 水色の目でブルーの毛並みの?」

「! 知っているんですか⁉」


 アーティの特徴をさらさらと答えた彼に、私は目を瞠る。ルカはにこりと頷いた。


「うん、知っているよ」

「教えて下さい。アーティはどこに……」

「教える代わりに、君は何をくれる?」

「え?」


 ルカのいきなりの要求に戸惑う。だが、すぐにこれはエルフ……異人との取引なのだと気付いた。

 例えば、皿洗いや掃除をしてくれた妖精にお礼をするときは、コップ一杯のミルクを置いておくように。異人とやり取りするときは、どんなに些細な頼みごとでも、対価を払うことが必要な場合が多い。

 この場合は、どのくらいの対価が必要なのだろう。

 対価――。蘇る記憶に、ざっと頭から血の気が引く。


『私なら、君の願いを叶えてあげられるよ』


 それは優しく甘く、誘う声。すべてを失いかけた私を救う声。

 異人のことを何も知らなかった幼い私は、彼の言葉に縋って取引をした。

 それが、とても重い対価になることも知らずに――。



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