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英国カントリーサイドの吸血鬼   作者: 黒崎リク
第一章 春には早い、三月
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3.緑の丘とエルフの番人(1)


「サキ、アーティと散歩に行きませんか?」

「……」


 昼食作りの最中、ジャックがそんな提案をしてきた。



 ジャックの家にホームステイして、一週間以上が経つ。

 すでに町の住人の半数に、私は『管理局の研修生の日本人』として知られていた。最初の数日、外出時にジャックがいつも一緒で、町の人達に会う度に私のことを紹介してくれたおかげだろう。

 大通りにある食料品店に買い物に行けば、数人に声を掛けられるようになった。小さな町には私の他にアジア系の人がいないせいか、顔をすぐに覚えられたようだ。

 町長のバンクス氏や、その孫のメアリーとトニーは家に遊びに来てくれて、ジャックお手製の菓子でアフタヌーンティーを楽しんだ。

 少しずつ町での生活に馴染んでいく中、私はもっとも身近にいる存在に、いまだに馴染めなかった。

 それがアーティだ。

 アーティはジャックの飼い犬で相棒だ。

 ブルーグレーとホワイトの艶やかな毛と、つぶらな水色の目を持つボーダーコリー。賢くて、人間の言葉を理解し、ジャックに忠実で愛情深い性格なのが見て取れる。

 アーティは、ジャック曰く人見知りである。

 リビングではジャックの脚にくっついて離れず、私がそばを通る度に、ぴっと耳としっぽを跳ねさせる。

 視線を感じて振り向けば、壁に隠れてこちらを見つめるアーティと目が合うこともしばしば。しかし私が一歩踏み出すと、さっと逃げてしまう。

 メアリーやトニーは、アーティが逃げてもめげずに追いかけて撫でていた。アーティは仕方ないというように目を閉じて、大人しく二人に撫でまわされていた。

 子供達のようにできればいいが、そもそも私は犬が得意でない。彼の警戒をどう解いていいのか分からず、できるだけアーティと距離を置いていた。アーティもまた、私を警戒して距離を置いている。


 そのアーティと、散歩。

 私はグラタン皿に山盛りになったマッシュポテトをならしながら、即答できずにジャックを見た。

ちなみに、今日の昼食はシェパードパイだ。玉ねぎとひき肉を炒め、ケチャップやウスターソース、塩コショウで味付けする。味付けしたひき肉を大きなグラタン皿に入れ、マッシュポテトを山のようにたっぷりのせる。これをオーブンで焼けば、羊飼い(シェパード)が食べていたというシェパードパイが出来上がる。

 さて、昨日と一昨日は、アーティを連れたジャックに道を教えてもらいながら、周辺の丘を散策した。今回もジャックと一緒なら――。

 そう期待したが、ジャックが「あなたと、アーティだけで」ときちんと言い直した。


「……分かりました」


 ノーとは言えず、重い気持ちでマッシュポテトの山の表面に溶き卵を塗って深い切り込みを入れていると、ジャックが苦笑する。

 ジャックは余ったマッシュポテトで味付けしたひき肉を包み、解凍した冷凍パイ生地を伸ばす作業をしながら言葉を続ける。


「……あなたとアーティは、よく似ています」

「え?」

「人見知り同士、仲良くなれると思いますよ」


 微笑むジャックの言葉に、私は曖昧に頷いた。




***




 青みを帯びた濃い灰色の毛並み。首周りの白い毛には、赤い首輪が映える。

 玄関先で首輪に赤いリードを繋げると、散歩だとわかったアーティは嬉しそうだ。だが、そのリードを握ったのが私だと分かると、しっぽがぴたりと止まった。先っぽが白い、ブルーグレーのしっぽが、しゅんと垂れる。何だか申し訳ない気持ちになった。

 ジャックは屈んで、そんなアーティの頭を撫でる。


「アーティ、サキを頼むよ。お前の方がお兄さんで、先輩なのだから」


 ジャックの言葉に、アーティはぴんとブルーグレーの耳を立てた。水色の目がきらりと輝き、しっぽが力強く振られた。

 『先輩』という言葉が気にいったのだろうか。アーティはきりっと凛々しい顔をして、先に立って歩き始める。リードを軽く引っ張られ、行くぞ、と言われているみたいだった。


「サキ。アーティはこの土地をよく知っています。困ったことがあったら、彼に頼って下さいね」

「は、はい」


 ジャックに見送られながら、私はリードをしっかりと握ってアーティの後を追った。




 アーティとの散歩は、ただの散歩ではない。

 一日に二回、村やその周辺で異常がないかを見回るパトロールが目的だ。

 アーティが先導して、昨日ジャックと歩いた道をたどり、村の境界にある柵へと近づく。柵の柱には〝パブリック・フットパス〟と掠れた白文字で書かれた看板が掛かっていた。

 パブリック・フットパスは、イギリス国内に張り巡らされている、公共の歩道のことだ。

 国有地・私有地に関係なく、通行を許可された通路なら、敷地内を誰もが自由に通り抜けることができる。

 道はときに農場や放牧地を突っ切り、川や丘を渡り、民家の庭や軒先を横切る。特にこの辺りのような田舎町……カントリーサイドにはフットパスが多くあり、古くから使われているそうだ。

 柵に設けられた簡素な木の扉を開けて、緑の丘へと足を踏み入れる。

 柵沿いに続く道をアーティと並んで歩いた。いつ雨が降ったのか、土の道はぬかるんでおり、防水のサイドゴアブーツが役に立つ。

 斜め前を歩くアーティは、時折こちらを振り返る。その目には以前ほど警戒は無く、頼りない新人を見る先輩のように心配する色があった。

 アーティの歩く速度はゆっくりだ。ジャックと同じように、私に合わせてくれているのだろう。犬ながら紳士である。

 木立の切れ目。隣村との境。放牧地の入口。アーティは、ジャックに教えてもらった道の通りに進む。

 三十分ほど歩いて、木立のある丘の上に辿り着いた。昨日も休憩した場所だ。

 私は背負っていたリュックを下ろし、ミネラルウォーターのペットボトルと、シリコン製の折り畳み皿を取り出した。ぱこっと皿の中央を押してボウルの形にし、水を入れてアーティに差し出す。

 赤い舌を出して勢いよく水を飲み始めたアーティの横で、木陰に造られた古い木のベンチに座る。この放牧地のオーナーが、誰でも座っていいように置いているものらしい。

 ジャックが出掛けに用意してくれた保温ボトルの熱い紅茶を飲み、私も一息つく。

 リュックの中には、他にもジャックからもらった紙袋が入っている。余ったシェパードパイの具をパイ生地にのせ、二つ折りに包んで焼いたものだ。

 持ち歩きに適しているからと、昼食の準備のときに一緒に作って用意してくれていた。もっとも、今はまだお腹がいっぱいで食べられそうにないが。

 紅茶をもう一口飲んで、遠くを眺める。

 緩やかな傾斜の広い丘が下っては上り、下っては上り、地平の果てまで続いている。大きな波のようにも見える緑の草原を、野生のカウスリップやバターカップの可愛らしい黄色の花、カウパセリのレースのように繊細な白色の花が彩っていた。

 緑の波の途中には、青々とした木立や木製の柵、平たい石を積んだ石垣が境界線を引く。はるか遠くには、少し霞んだブライアーヒルや近隣の村の、ハチミツ色の町並みが見えた。




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