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英国カントリーサイドの吸血鬼   作者: 黒崎リク
第三章 薔薇が綻ぶ、五月
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3.ブルーベルの森で(1)


 扉の向こうで、姉が泣いている。


『どうして――』


 続く言葉は嗚咽で掻き消されて、私が立ち竦む廊下には届かない。

 扉のわずかな隙間から見えたのは、ソファに蹲って泣く小さな少女と、その背を撫でる公爵の姿。

 我が子を慈しむように姉を宥める公爵は、こちらに気づいていたのだろう。

 目線をわずかにこちらに向けた後、小さく顎を振る。立ち去りなさいと言っているのだ。それは、彼が気まぐれに見せる優しさだった。

 これ以上、ここに私がいれば、傷付くことになる。

 私も――姉も。

 嗚咽の中に、聞き取れそうな単語が徐々に混じってくる。それを聞く前に、私は身を翻した。

 足音を立てないように。荒い息が零れないように。

 震える膝を前に出し、強く歯を食いしばって声を飲み込む。

 どうして、の後に続く言葉を聞きたくなかった。

 彼女がどんな思いを抱いているのか、知るのが怖かった。

 部屋から遠ざかり、嗚咽も誰の声も届かない静まり返った廊下。なのに、頭の中にはがんがんと幻の声が響いていた。

 掌で両耳を塞ぎ、目を固く閉じてその場に蹲る。

 姉の悲痛な声を初めて聞いたその夜は、私が姉よりも頭一つ分背が高くなった、十五歳の誕生日のことだった。




***




「……」


 アラームが鳴る前に瞼を開く。

 頭の奥に鈍い痛みが残るのは、昨夜遅くまで寝付けなかったせいだろうか。いや、近頃、どうも眠りが浅く、すっきり起きられた試しが無かった。

 のそりと起き上がる私の足元では、アーティとヴァンがじゃれ合っていた。今日は珍しく先に起きていたらしい。

 二匹は私が起きたのに気づくと、膝の上に乗ってきた。二匹の頭を撫でた後、隣接するバスルームで顔を洗い、軽く身支度する。

 いつもと変わりないコットンシャツとジーンズに着替えて一階に降り、台所に顔を出す。


「おはようございます、ジャック」

「おはようございます」


 振り返るジャックの手元には、角切りにしたトマトやキュウリ、みじん切りの玉ねぎが入ったボウルがあった。ジャックはレモン汁とオリーブオイル、塩コショウで味付けして混ぜ合わせたサラダを皿に広げ、ちょうど焼き上がった目玉焼きを乗せる。


「サキ、トーストにバターを塗って下さい」


 赤く熱されたトースターの中には、こんがり焼けたトーストがある。日本で食べるような分厚いものではなく、サンドイッチ用に売られているような薄いものだ。

 ジャックは自分の作業をしながら指示を出してくる。


「今焼けた分はバターだけで。次の分はバターと蜂蜜を。そちらにはシナモンもふって下さい。それから、別皿に乗っている分はハーブバターを塗ってから焼いて下さいね」

「はい」


 言われた通り、二等辺三角形のトーストを取り出し、まだ焼いてない分を入れる。焼き立ての熱いうちにバターを塗れば、ふわりとバターの匂いが鼻を擽った。

 別皿に乗った分には、パセリやディル、バジルなどのハーブ入りのバターを塗っておき、前の分が焼き上がれば入れ替える。

 そうしてジャックの指示で出来上がった三種のバタートーストと、目玉焼きのせサラダ、キャベツとベーコンのコンソメスープが今日の朝食だった。

 いつもよりも量が少なく、シンプルな味付けのあっさりしたものが多く並んでいる。不思議に思ってジャックを見ると、ジャックはただ小さく微笑んだだけだ。


「さあ、いただきましょうか」


 私の食欲が落ちていることに気づいて、こんな風に食べやすいものにしてくれたのだろうか。ジャックの心遣いは有難くも、自分の至らなさに申し訳なくなる。しかしここで謝るのも余計にジャックに気を遣わせる。

 自分がしなくてはならないのは、しっかりとご飯を食べて、彼に心配を掛けないことだ。


「……いただきます」


 初日に大盛りのイングリッシュ・ブレックファーストを食べた時のような心持ちで、私はフォークを手に取った。



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