2.メイ・フェアの憂鬱(1)
五月一日、メイ・デー。
早朝、まだ朝露の残る時間に起きた私は、軽く身支度を整えて一階に降りる。裏手にある庭に通じる屋根付きポーチには、庭仕事用のエプロンを付けたジャックがいた。
「おはようございます」
「おはようございます。サキ、眠くないですか?」
「大丈夫です。昨夜は早く寝たので」
話しながらジャックと並んで向かったのは、庭を囲む生垣の一角だった。
茂る緑の葉の間に、白色の小さな花が十輪ほどまとまって咲いている。五枚の花びらでできた花は、リンゴの花や桜に似ていた。
「これがサンザシですか?」
「ええ」
ジャックは作業用エプロンのポケットから花鋏を二つ取り出し、一つを渡してくる。
「朝露の付いたものを……このくらいの長さで切って下さい。棘があるので気を付けて」
ジャックはサンザシの枝の一つを手に取り、ぱちりと切る。
このサンザシの枝を家に飾るため、手伝ってほしいと昨日頼まれていた。朝露の残る時間にとのことだったので、早く寝ておいたのだ。ちなみにアーティとヴァンは、まだすやすやとベッドで眠っている。
「サンザシはメイ・フラワーやメイ・ツリー、メイ・ブロッサムとも呼ばれる、まさに五月を代表する花です。五月一日に行われる五月祭には欠かせません。メイ・デーは、今でこそ労働者の日と言われていますが、かつては豊穣の女神マイアや花の女神フローラを讃える祭りでした」
「そうなんですか?」
「ええ。昔は五月一日の朝、若者たちは朝露の残る時間に起き出して、野山でサンザシの枝を摘んできて家に飾っていました。そして広場では、サンザシの花やリボンで飾り付けた長い棒……メイ・ポールを立てて、その周りを踊って祝います。
古い時代から、樹木は人々に崇められていました。冬に枯れても春になると新たに緑の葉を茂らせる……復活する樹木の霊魂の恩恵にあやかり、農作物の生育や家畜の繁殖を願うんです。メイ・フェアは、豊穣を願いながら夏を迎える伝統的な祭りなんですよ」
「サンザシを飾るのはそのためなんですね」
ジャックの話を聞きながら、私もサンザシの枝を一つ、二つと切った。
「ええ。もっとも、今はもうこの習慣は廃れてしまいましたが……ああ、ちなみにこの朝露で顔を洗うと美しくなるそうです。よかったら試してみますか?」
「え……っ!」
ジャックの冗談に狼狽え、手元がおろそかになる。跳ねた枝の鋭い棘が手の甲を掠め、鋏を取り落としてしまった。
「サキ!」
「だ、大丈夫です」
とはいうものの、手の甲に一筋の赤い線が浮かぶ。じわりと滲み出る赤い血は、白い花の中でやけに鮮明に見えた。
血を拭わなければと思うが、今はティッシュもハンカチも持っていない。一度室内に戻ろうと踵を返した時、突然手首を握られた。
「ジャック?」
「……」
ジャックは血の滲む手を掴み、じっと私の手を見下ろしていた。
ゆらりと水面が波立つみたいに、青い目の光が歪んだように見えて、一瞬背が粟立つ。ぎり、と手首を握る力が強くなり、咄嗟に声を上げていた。
「ジャック!」
はっとジャックが目を見開く。同時に、握っていた手がぱっと離された。
「あ……」
数秒の沈黙の後、ジャックは申し訳なさそうに眉尻を下げながら謝ってくる。
「すみません。痛かったですよね」
「あ、いえ……」
何と返していいのか戸惑う私に、ジャックは穏やかな口調で言葉を続ける。
「早く傷口を洗った方がいい。ポーチに水道がありますから、先に行って洗って下さい。私は救急箱を取ってきます」
そんなに深い傷ではなかったが、私は大人しく言葉に従った。
手の甲を押さえて血が地面に落ちないようにしながら、小走りでポーチに向かう。
手の下で滲む血は『薔薇の血』。異人の持つ異能を消す力があり、異人にとっては劇毒と同じである。
今まで彼の前で怪我をしたことは無かったから、油断していた。自分の迂闊さを反省する。ジャックや彼の眷属であるアーティ、そして精霊サラマンダーであるヴァンに触れさせてはならない。彼らを傷つけ、死に至らせるものなのだ。
気を付けなくてはと血を押さえる私の手は、微かに震えていた。
……今さらながら、少し怖かった。
自分の血を見るジャックの強い視線が、振りほどけない手の力が、あの時の吸血鬼と重なった。
だが、ジャックは私が『薔薇の血』の保有者であることを知っている。だから血を欲することは無いはずだ。それは彼の死を意味する。
なのに――私の血を見つめるジャックの目は、渇望しているように見えた。
『ジャックは死にたがりだから、気を付けてあげてよ』
なぜか脳裏を過ぎったのは、ルカの言葉だ。
ジャックのことを、私は知らない。彼の『庭』に踏み入れる覚悟がないからだ。
知った方がいいのだろうか。私は彼のことを知りたいのだろうか。でも、知ってどうするというのか。
『あなたが何をしたいのか。何をしたくないのか』
ポーチの水道で傷を洗い流し、流れゆく透明な水の流れを見ながら、私はティールームでのジャックの問いかけを思い返していた。




