1.ピクニックと花の雨
イギリスの春は、日本よりも遅くやってくる。
四月は寒さが和らいで花も綻び始めるが、時折冬を思わせる寒さが戻り、小雪が舞うような日も珍しくはない。
だが、五月になるとさすがに冬の気配は遠のくものだ。木々や草原の緑は青々と鮮やかに、庭や公園の花は景色に明るい彩を添える。
それゆえ、イギリスでは『A merry time it is in May』 ――『たのしきかな、五月は』といって、五月の喜びを歌うそうだ。
四月三十日。
いよいよ明日から五月を迎える日、私はコッツウォルズ名物の丘を歩いていた。
日本のような五月晴れとはいかずとも、久々の青空が広がる緑の丘は気持ちが良い。いつものパトロールも兼ねているが、今日の一番の目的はピクニックである。
『今日は晴れているし、一日暖かいようです。せっかくですし、外で昼食にしましょう』
ジャックの提案にアーティもヴァンも朝からはしゃいで、私も少しわくわくとしながら準備を手伝った。
ジャックが持つバスケットの中には、熱い紅茶を入れた水筒と二種類のサンドウィッチ、バタービスケット、スコーンとフルーツケーキが入っている。私は食器とブランケットが入ったピクニック用のバスケットを手にしていた。
私の前を行くのは犬のアーティと、サラマンダーのヴァン。
アーティは機嫌よく尻尾をぶんぶんと降り、ヴァンはアーティの背中のブルーグレーの毛にしがみついて、きゅうきゅうと歌うように鳴いている。最初の頃はぎこちなかった二匹だが、今ではすっかり兄弟のように仲良くなっていた。
村から離れすぎないよう、近くの丘の上でジャックは足を止めた。
「この辺りにしましょうか」
「はい」
ブランケットを広げて食器や軽食を並べていく。あっという間に準備は整い、腰を下ろしたジャックが水筒から熱い紅茶を注いだ。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
春めいても、丘に吹く風はまだ少し冷たく、冷えた手にカップの温もりが伝わってくる。淡いオレンジの色合いの紅茶は、若葉のような香りがした。
「春摘みのダージリンです。少しクセはありますが爽やかでみずみずしい香りがして、一番季節を感じることができて好きなんです」
ジャックは嬉しそうに香りを嗅いで、口を付ける。
私も紅茶を飲み、キューカンバーサンドイッチに手を伸ばす。これは名前の通り、具がキュウリのみのサンドイッチである。薄切りのキュウリに塩、コショウ、そしてワインビネガーを振りかけてしばらく置いて水気を取り、バターを塗った薄いパンに挟んだシンプルなものだ。
だが、これがとてもおいしかった。酸味のきいたキュウリにまろやかなバターが口の中で一緒になって、すっきりとしたサワークリームのような味わいだ。香りの強いダージリンがよく合う。軽くてさっぱりとして、まさに今日のようなピクニックにぴったりの軽食だった。
別のサンドイッチには焼いたベーコンとオムレツが挟まっていて、スライスオニオンと粒マスタードの風味が抜群に合っていた。
ほろほろとした風味豊かなバタービスケット、ブランデーをきかせたフルーツケーキ。スコーンにはチョコチップとキャラメルが入っていて、甘さと香ばしさが口いっぱいに広がる。
食事が終わると、ブランケットの上にジャックがごろりと横になった。珍しいと目を丸くする私に、ジャックは悪戯っぽく笑う。
「こうすると空がよく見えるので。サキも試してみるといいですよ」
のどかな陽気に柔らかな風の中、何とも魅力的なお誘いに負けて、私もそろそろと横になった。
淡い青色の空には羊のような雲が幾つも流れ、時折太陽を遮っては私達の上に影を落としていく。地面に近くなった分、風に揺れる草の音がより大きく聞こえた。目を閉じて深呼吸すると、緑と土と花の匂いがはっきりと感じ取れる。
まるで自分が丘の一部になったようだ。
日本にいた頃は、春の訪れを喜ぶなんてことはほとんど無かった。だが、今ここで五感いっぱいに伝わってくる春がなんだか嬉しくて、心地よい。
うとうとと眠りかけた時、顔に何かが落ちてきた。
「わっ……」
空から降ってきたのは花びらだった。
白色、黄色、青色……。思わず起き上がると、胸の上に落ちていた花が膝の上へとパラパラ落ちる。驚く私の頭上から、さらに花が降ってきた。さながら花の雨だ。
側にいたアーティが、ヴォウッ、と宙に向かって強く吠える。「きゃあっ」と高く小さな声が上がった後、ひそひそ、くすくす……とさざめく声が風と共に遠ざかっていった。
「今のは……」
「妖精達のようですね」
ジャックは眉根を寄せて、ブランケットの上に散らばった花弁を拾い上げる。
「……いたずらでしょう。彼らもこの陽気で浮かれているのかもしれません」
そう言われて、私は以前も風の妖精にいたずらされたことを思い出す。
管理局の見習い保護官である私の様子を見に来ているのか、それともからかっているのか。
顔や体についた花びらを掃っていると、ヴァンも見よう見まねで小さな前足で花弁を取ってくれた。
「ありがとう、ヴァン」
「きゅっ」
ヴァンの頭を撫でると、嬉しそうに黄金色の目を細めた。
するとヴァンに負けじとアーティが私の上に乗ってくる。せっせと花を取ろうとするが、何しろ小さな花びらだ。アーティの前足では難しい。するすると肉球の下を滑る花びらにアーティは苦戦して躍起になるも、成果はゼロであった。
「アーティ、ありがとう」
悔しそうなアーティの頭を宥めるように撫でていたが、ジャックが指先に摘まんだ青い花をじっと見つめていることに気づく。
「どうしたんですか?」
「ああ、いえ……」
ジャックの手にあるのは、釣鐘型の小さな青い花だ。
「ずいぶん遠くから、運んできたのだなと思って」
ジャックが視線を上げて見るのは、丘のはるか向こう――濃い緑の集まる森だ。深い青色の目が細められていた。
「ジャック?」
何か気に掛かることがあるのか。尋ねようとしたが、ジャックは表情を緩めて花を離す。風が吹き、青い花は草原の波にさらわれて消えてしまった。
「さて、まだ時間はあるので、もうしばらく休んでいきましょうか」
ジャックは何事もなかったかのように横になって目を閉じる。
それ以上聞くことも躊躇われ、私も横になった。かすかに胸によぎった不安は、くっついてくるアーティとヴァンの温もりでそのうち薄れていった。




