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英国カントリーサイドの吸血鬼   作者: 黒崎リク
第一章 春には早い、三月
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(3)


 身体も温まって人心地つき、ジャックと雑談を交わす。もっとも、主にジャックが話して、私は相槌を打つくらいだ。


「おや、イギリスは初めてでしたか。ロンドンは観光しましたか? ストランドのあの透明の観覧車……そうそう、ロンドン・アイは私もまだ乗ったことが無くて」

「このビスケット、手作りなんです。口に合ったようでよかった。甘いものはお好きですか? よければスコーンもありますよ」

「紅茶のお代わりはいかがです? 好みの茶葉があったら言って下さいね」


 ジャックの穏やかな口調は、聞いていて心地が良い。穏やかな風貌や落ち着いた物腰は、まさに紳士という感じだ。

 少しずつ私の返事の言葉が増えてきた頃、ふいにジャックが言った。


「英語がお上手ですね。ジョーから習いましたか?」

「……」


 ジョー。

 その名前が、私の知人の吸血鬼、ジョアン・ブラッドレイ公爵の愛称だと認識するまで数秒掛かった。普段、公爵デュークと呼び掛けているせいだ。

 幼い頃から彼に英会話を教わり、イギリス行きが決まった去年の冬から三か月間は、特にみっちりと英語漬けの日々を送ったものだ。おかげで日常会話には困らず、こうしてジャックと話すことができている。


「はい、彼から習いました」

「やっぱり。発音や話し方がよく似ています」


 あの女装癖のある曲者の公爵と似ていると言われるのは、あまり嬉しくない。

 私がわずかに顔を顰めたのに気付いたのか、ジャックがくすりと笑う。どうやら、私の心情を分かっているようだ。


「ジョーは相変わらずのようですね。彼から研修生が来ることは聞いていましたが、こんなに若いお嬢さんだとは思っていませんでした」

「一応、十八歳です。こちらでは成人の年齢です」


 日本では未成年だが、それは言わずにジャックを見れば、彼は「ええ」と頷いた。


「あなたがイギリスにいる間、ここにホームステイさせるようにジョーから頼まれています。あなた宛ての荷物も預かっています。ですが……あなたは、私と一緒に暮らすことに差し支えはありませんか?」


 眉尻を下げて、ジャックが聞いてくる。

 若いお嬢さん云々と言っていたから、異性と暮らすことを私が気にしないかどうか、気遣ってくれているのだろうか。


 あるいは、異人と暮らすことが嫌ではないかどうか。




 異人と人間の間には、いまだに壁がある。

 会社や学校などの公共の場で過ごすことは厭わなくても、同じ敷地や家で共に暮らすことには抵抗がある者は少なくない。

 異人の多くは、人間には無い能力を持つ。

 人間より優れた五感と身体能力を有するだけでなく、人狼は狼に姿を変え、エルフは美しい容姿と長い寿命を持つ。グールは人の肉を主食とし、吸血鬼は人の血を飲む。もっとも、今は代用の人工肉や人工血液があるため、異人が人間を襲うことはほとんど無い。

 異人と人間。両者の間にあるのは、友好関係だけではない。一八世紀以前も以後も、幾度もの抗争と和解を繰り返してきた。

 人間は異人に恐れを抱き、異人は人間を見下す。その対立する感情が完全に消え去ることはおそらく無いだろう。


 私は義父の仕事もあって異人と接することが多く、一時期は吸血鬼である公爵の屋敷に滞在していたこともある。異人と暮らすことには抵抗も恐れもない。


「私は大丈夫です。……あなたこそ、私がこの家に住んでも構いませんか?」


 ジャックが、公爵から私のことをどこまで聞いているかわからない。だが、彼が私のことを知れば、一緒に暮らすことを拒むかもしれない。


 ……私は、異人を恐れる必要がない。むしろ異人が、私を恐れるのだから。


 膝の上に置いた拳を強く握る。身構える私に、ジャックは微笑んで頷いた。


「ええ。あなたが来るのを心待ちにしていました。これからどうぞ、よろしくお願いします、サキ」

「……はい。こちらこそよろしくお願――」


 言いかけたとき、玄関扉が強くノックされる。ジャックさん、と呼ぶ大きな声も。

 ジャックは「失礼」と席を立って玄関に向かう。扉が開いた途端、強い訛りのある早口の英語が響いてきた。


 うちの羊が盗られちまった。ありゃあライオンだ、どうにかしてくれ――。


 聞き取れた単語の一部にぎょっとする。

 なぜイギリスの片田舎にライオンがいるのだろう。動物園から逃げ出したのか。


「わかりました、今すぐ行きます。やれやれ、今年はいつもよりも多いですね……現場はどこですか?」


 ジャックの返答にさらに驚くものの、彼の平然とした態度は慣れている風だった。

 ライオン相手に羊を取り返すつもりなのだろうか。いくら身体能力が優れた吸血鬼とはいえ、危険ではないだろうか。

 私がソファから立ち上がった時、リビングの窓がガタガタと激しく揺れた。ごおっと強い風の音が聞こえてくる。

 窓の外を見ると、道の向かいの木のてっぺんに降り立つ、ライオンが居た。

 それは、とても大きなライオンだった。擦りガラスのように白く半透明な身体は、四メートルはありそうだ。その大きな口には、白い羊が一匹銜えられていた。

 玄関の方で「うちの羊だ!」と声が上がる。ライオンはこちらに一瞥をくれた後、風に乗って丘の方へと消えていった。


「…………」


 呆然と見つめる私に、ウールのコートを着込んだジャックが声を掛ける。


「すみません、少し留守にします。あなたはここで待っていていただけますか」

「あ……は、はい」

「羊を取り返したら、すぐに戻りますので。遅くても六時までには帰ります。キッチンはこちらですから、自由に使って下さいね。家の中のことは後で説明しますが、先に見て回ってもらっていても結構です。二階にベッドルームが三室ありますから、どこでも好きな部屋を選んで下さいね。ベッドカバーもシーツも新しいものに替えているので、横になっても大丈夫ですよ。ああ、そうそう、あなたの荷物は階段を上がったすぐのところに置いています」


 口早に言った後、ジャックは「アーティ!」と廊下の奥に声を掛ける。すぐにアーティがその足元に駆け寄った。


「パーシーさんの羊を探す。先に追いなさい」


 ウォン、と力強く返事したアーティが駆け出す。リビングの窓から、アプローチを一蹴りで飛び越えて石垣の向こうへ駆けるアーティの姿が見えた。


「それでは行ってきますね。サキ」


 ジャックもまた、軽く手を振って来客と共に家を出て行った。

 気をつけてと言うこともできずに見送り、私はソファにすとんと腰を下ろした。


 ……何から驚けばいいのだろう。

 初めて訪れた家で初日から留守を任されたことか。空を飛ぶ巨大なライオンが羊を攫ったことか。それを当たり前のように受け入れているジャックやこの町の人のことだろうか


 三月はライオンのようにやってくる。

 だからといって、本当にライオンが出るなんて。しかも普通のライオンではなく、おそらく風の精霊が形を取ったものだ。


『向こうは、こちらよりも私達みたいなものが多いから』


 公爵の言葉を思い出す。日本でも異人と関わることは多かったが、初っ端からイギリスの洗礼を受けた。これからきっと、私はもっと多くの、様々な異人達と関わることになるのだろう。


「はあ……」


 誰もいなくなった部屋で大きく溜息を吐き、ソファの背にもたれた。体の力を抜けば、暖かな毛織物のカバーとふかふかのクッションの間に埋もれる。

 心地よさに緊張が解かれたせいか、疲れが一気に出て腕も足も重く感じた。


 初めての国際線。長時間のフライト。英語が羅列する掲示板や看板。異人管理局のロンドン支部への訪問と諸々の手続き。そのまま電車とバスで移動して、寒い中を迷いながら歩いて、辿り着いた知らぬ場所。見知らぬ異人や人間や犬。


 不安はたくさんあるが、ここで頑張っていくしかない。


 日本には、戻れないのだから。


 頭に浮かんだのは、幼い少女の笑顔。それから泣き顔。胸が軋む痛みを伝える前に、私は固く目を閉じた。



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