(7)
あの夜の出来事は、忘れることができない。
家族で外食をした後、港の近くの公園を皆で歩いていた。
その日は珍しく雪が積もって、満月に照らされる一面の雪が綺麗だった。窓の外を見てそわそわとしていた私に気づいた姉が、少し歩こうと言ってくれたのだ。
私は、あまり自分のしたいことを言えない子供だった。それも仕方ない。四歳の時に両親を亡くし孤児になった私を、母の知人だった久住一家が引き取ってくれた。
義父も義母も優しく、私を我が子のように育ててくれた。そして、久住家の一人娘であったユキは、
『ユキとサキ、名前も似てるのね。本当の姉妹みたい』
と言って、私を実の妹のように可愛がってくれた。
おねえちゃんと呼ぶと、嬉しそうに笑ってくれた。幼いながらも養子であることを理解していた私が遠慮する前に、姉はまるで魔法使いのように願いを叶えてくれた。
そんな幸せな日々は、唐突に終わりを迎えた。
夜の公園を歩いていた私達は、異人――吸血鬼に襲われたのだ。
『……逃げて』
私の手を握る姉の手は、震えていた。
痛いほど強く握り締められた後、そっと振りほどかれる。
『逃げなさい!』
初めて聞いた彼女の怒鳴り声に、身体が竦んだ。
悪戯をして怒られたときにだって、家出をして心配させたときにだって、こんなに怖い声は聞いたことがなかった。見上げた横顔は強張り、色を無くした唇を固く噛み締めた彼女は、私の方を見向きもせずに前を睨んでいた。
後ろ手で肩を押されて、竦んだ身体がよろめいた。
数歩下がれば、白いコートを着た彼女の向こうに、倒れる二つの人影が見える。雪の中に埋もれた義父母の身体からは、まるで魂が溢れるように白い湯気が立ちのぼっていた。同時に、濃い血の香りが風にのって流れてくる。
義父達の傍らに立った男が、こちらを向いた。
黒い影。長い爪。開いた口から覗く尖った二つの牙は、真っ赤に染まっていた。赤く光る目がこちらを捉えて、にんまりと細められた。
そして私の目の前で、姉は男に掴み上げられ、その細い首に牙を突き立てられた。首筋を伝う血が、白いコートを赤黒く染めていった。
動かなくなった姉を投げ捨てた男が、動けぬ私に近づく。
私もまた首を噛まれて――悲鳴を上げたのは、男の方だった。
私を突き飛ばし、雪の上に膝をついた男が、口元を押さえている。苦悶の声を上げ、喉を掻き毟る。
『お、おま、え……ま、さか……⁉』
怒りと恐れの混じった赤い目が私を睨みつけながら、雪の上に倒れ込む。四肢を震わせていた男が息を吸った後、ふいに動きを止めた。その身体はミイラのように干からび、ぼろぼろと崩れて灰となり、風に吹かれて消えていく。
私は己の首の痛みも忘れて、その奇妙な光景を見ていた。やがて我に返り、側に倒れている姉の元へ近づく。
『ねえ、おきて……おねえちゃん……おきてよ……』
首から下の半身を赤く染めた姉に呼び掛けても、返事は無かった。浅い胸の動きが小さくなる。握った手がどんどん冷たくなっていくのが怖くて、両手で強く握った。
姉の命の火が小さくなっていく。離れた場所にいる義父母の身体からは、とうに湯気は消えていた。
握った姉の手が冷たくなっても、離せなかった。誰かに声を掛けられても、姉を離すように言われても、動けなかった。
その時、私の耳に届いたのだ。
『ねえ、お嬢さん。お姉ちゃんに起きてほしい?』
見上げた先に居たのは、長い金髪の綺麗な男の人だった。その人は赤い唇の端を上げて、妖艶に微笑んだ。
『私なら、君の願いを叶えてあげられるよ』
甘く優しい誘惑に。
私は、乗ってしまった。
もう一人きりになりたくなかった。姉に側にいてほしかった。
私のわがままを、金髪の男、ジョアン・ブラッドレイ公爵は叶えた。彼は死の淵にいる姉に己の血を与えて、眷属……吸血鬼にしたのだ。
人間だった姉は『異人』になった。
最初こそ、姉が再び目を覚ましたことを喜んだが、それは徐々に罪悪感へと変わっていった。
吸血鬼となり、十二歳のまま成長が止まった姉。幼いままの姿を見て、そして彼女の『食事』を見て、私は己の罪に気づいた。
不老不死の吸血鬼。血を糧とし永く生きる彼らは、人間ではない。
成長して、学校に行って。誰かと恋をして、結婚して。子供を産んで、老いていく……。そんな人間の生活はできない。
気づけば姉の背を追い越し、どんどん小さく見えていく彼女の姿に、私は今さら後悔した。私のせいで、彼女の運命を捻じ曲げてしまったのだ。姉がどう思っているか、怖くて聞けなかった。
そんな頃、異人管理局の執行部からスカウトが来た。吸血鬼を死に至らせた私の『薔薇の血』が貴重だと知った。
だが、執行官にはなりたくなかった。
その際、私を引き取った養父であり、異人管理局の保護官であった敷島由一が、保護官の道を教えてくれた。さらに公爵がイギリスでの研修を提案し、私は二つ返事で了承した。
日本にいることが、姉の側にいることが辛かった。あれだけ姉に側にいてほしいと望んだのに。自分勝手なひどい感情で、自己嫌悪はさらに増した。
そうして私は、逃げるようにイギリスに来たのだ。
保護官になりたいのは、執行官になりたくないから。それだけの理由だ。
何がしたいかではなく、姉を殺したくないから。自らの願いで姉を異人にしておきながら、手を掛けることが怖いから。
なんて臆病で、卑怯な手段。
きっと公爵も、由一も気づいている。おそらくは、姉も――。
それなのに受け入れてくれた。笑顔で、送り出してくれたのだ。
***
俯く私の前にある皿に、カラフルなカップケーキが置かれる。
「どんな理由でもいいんですよ、サキ。受け入れなさい。あなたはお姉さんを死なせたくない。それでいいんです。叶えられるよう頑張りましょう。私がその手伝いをします」
「っ……」
温かな声は、私が己を受け入れるよりも先に、私のことを受け入れてくれている。顔を上げると、ジャックは変わらぬ優しい笑みを浮かべていた。
「とりあえず、今は腹ごしらえですね。ここのカップケーキも絶品ですから」
さあ、と勧めてくれたケーキを手に取り、私は齧り付く。胸に込み上がる感情と零れた涙のせいで、味はあまり分からなかった。
これにてロンドン支部編終了です。
次話は閑話でアーティ目線の話になります。




