(5)
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「――サキ……サキ? 大丈夫ですか?」
何度か名を呼ばれた後に肩を叩かれ、我に返った。
顔を上げると、ベンチの横に立ったジャックが謝ってくる。
「すみません、すぐに行くと言ったのに待たせてしまいましたね。少し顔色が悪いですね。どこか具合が悪いのでは……」
湖のような青い目が心配の色を浮かべていた。私はのろのろと首を横に振る。
「いえ……いいえ、大丈夫です。少し、眠かっただけで……」
乾いた口を動かして何とか答えた。熟睡しているサラマンダーの籠を抱え直すと、ほんのりと腕に温もりが伝わってくる。カイロのような温もりに落ち着きが戻ってきた。
ジャックに心配をかけないよう、私は強張った頬をさりげなく擦った。サラマンダーの籠を鞄に入れて、ベンチから立ち上がる。
「お話、終わったんですね。帰りましょう、アーティが首を長くして待っていますよ」
そう促すが、ジャックは歩き出さず、ホールの壁にかかっている時計を見た。
「……サキ。少し寄りたいところがあります。少し歩きますが、いいですか?」
「あ……はい、分かりました」
「ありがとう。それでは、行きましょう」
ジャックは私の肩にかかった鞄を「持ちますね」と、さりげなく手に取って歩き出す。その歩調はゆっくりで、背の高い彼の歩幅にも十分に追いつけた。何も聞いてこない事といい、鞄の事といい、ジャックに気遣われているのが分かる。
ジャックは管理局を出て、ベイズウォーター・ロードを東へと進んだ。ジャックの斜め後ろをついて行く。
ロンドンは都会だ。ブライアーヒルの、自然豊かでゆったりとした、ほとんど人がいない土の道をのんびり歩くのとは違う。アスファルトで舗装された道を多くの人々が行き交う様に、ふと、私は日本の横浜の雑踏を思い出した。ざわざわとした人の気配や音はそんなに好きではないはずなのに、なぜか今はほっとする。
雑踏のざわめきをBGMに、特に何を話すわけでもない無言の時間は、ジャックの家にいる時と同じような不思議な安堵があった。
ジャックが向かったのはピカデリーの周辺だった。
ピカデリー周辺は、ロンドンで一番賑やかな繁華街だ。老舗高級店が軒を連ねるアーケードや、レストランにカフェ、劇場街や中華街もあり、朝から夜まで人通りが絶えない――。ガイドブックにはそう書いてあったが、実際に来るのは初めてだった。
人の間を通り抜けながら、ジャックは古い石造りの建物にある小さなパブを指さす。
「入りましょう」
パブはパブリックハウスの略である。日本語に直訳すると〝公共の家〟。
日本では飲み屋のイメージがあるが、イギリスでは違った。ブライアーヒルに一軒だけあるパブでは老若男女が気軽に入り、お酒だけでなくお茶やお菓子、軽食を楽しむ。飲み屋というより喫茶店の雰囲気だ。
とはいえ、ロンドンのパブは、これまた雰囲気が違うようである。店の前に置かれた幾つもの小さなテーブルの周辺には、地元民か観光客かわからないが、多くの人がビールのグラス片手に賑わっている。店内のカウンターにはビールの銘柄がずらりと並び、立ち飲み客が肘をついて楽しそうに語らっていた。
こちらは完全に飲み屋という雰囲気で、私は少し焦った。
イギリスでは成人に達し、酒を飲んでも咎められない年齢ではあるが、一応は十八歳で未成年だ。私はカウンターに近づくジャックの袖を掴んだ。
「ジャック、私は、お酒は……」
「ああ、大丈夫ですよ」
ジャックは珍しく、少し悪戯っぽい笑みを見せて、カウンターにいる女性店員に声を掛ける。
「どうも。上は空いていますか?」
「ええ、空いていますよ」
店員は慣れた様子でカウンターの端の板を持ち上げた。どうぞと促され、私は戸惑いながらもカウンターの中に入る。
奥には階段があって、狭い幅の階段を上がると、なんと二階がティールームになっていた。十数人も入ればいっぱいになりそうな、小さな店内はレトロで可愛らしい内装だ。下の賑やかなパブと比べ、隠れ家のような静かな空間だった。
パブの二階がこんな風になっていたとは。
ぽかんとする私を促して、ジャックは空いている窓際の席に着いた。
「このパブは、ティータイムには二階でクリームティーを出しているんですよ。休日に予約すれば、アフタヌーンティーも楽しめます」
クリームティーはアフタヌーンティーの簡易版のようなもので、スコーンと紅茶のセットを表す。アフタヌーンティーになると、これにサンドイッチやケーキなどのスイーツが加わり、ボリューム満点だ。
また、通常、アフタヌーンティーは高級ホテルのラウンジやレストランなどで提供され、ドレスコードもあり、予約をしていないと入れない。もっとも、最近では飛び入りやカジュアルな服装でも入れる店も増えてきているようだ。
対してクリームティーは、レストランやカフェ、パブなどでも提供され、価格はアフタヌーンティーよりずっと安価で気軽に楽しめる。
「茶葉は……ルフナにしましょうか。そのままでも、ミルクを入れても美味しい。スコーンによく合いますよ」
ジャックはクリームティーを二人分注文し、追加で店の名物であるカップケーキを数個、さらにエッグ&クレソンのサンドイッチを頼んだ。
「お昼がまだでしたからね。お腹が空いているでしょう、サキ」
言われて、そういえばと気づく。朝にブライアーヒルを出て、ロンドンに着いたのが昼前。そのままロンドン支部に行って報告して今に至る。時計を見れば十三時半を回っていた。
空腹を自覚すると、きゅうと小さくお腹が鳴った。恥ずかしさに頬が熱くなる私に、ジャックは微笑む。
「ここのスコーンもケーキもおいしいですよ。楽しみですね」




