(3)
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一方。支部長室に残ったジャックはスミスと向かい合っていた。スミスは目を細めて、ジャックを見やる。
「久しぶりだな。以前、君の家にお邪魔した時以来だから――」
「一年と三か月ぶりですね」
さらりとジャックが答えると、スミスは苦笑した。
「いくら君が出向を免除されていても、もう少し短いスパンで顔を出してもらいたいものだ。ここは君の古巣なのだから」
「いつの話をしているんですか。もうここは、私の場所ではない」
ジャックの口調がぞんざいになる。静かな湖畔のような緑色の目に浮かぶのは、かすかな苛立ちだった。
ジャックの冷たい目線に、しかし、ロンドン支部長として数々の異人と渡り合ってきたスミスが怯むことは無い。むしろ、どこか楽しそうに口の端を上げた。
「何を言う。本来なら、ここは君が受け継ぐ場所だったろう。なあ……『アルバート・ブラッドフィールド男爵』」
「……」
ブラッドフィールド。
その家名は、欧州で最も有力な吸血鬼貴族のものだ。吸血鬼の真祖一族であり、異人管理局の先駆けとなった組織を作った、アンセルム・ブラッドフィールドを輩出した家でもある。
ジャックの目がすっと細められた。彼の周りの空気の温度が一気に下がり、そこだけ異様な気配が漂う。
背筋が震え、息が詰まるような威圧感に、さすがにスミスも内心で冷や汗をかいた。
彼の前に膝をついて、屈してしまいたい。彼の支配下にありたい――。
そう思いたくなる圧倒的な覇気は、間違いなく真祖一族のものであり、そして、かのアンセルムが唯一認めていた孫だけある。もっとも、傍系だったために彼が家を継ぐことは無かったが。
スミスは強靭な胆力で堪えると、にっと笑ってみせた。
「そう怒るな。気が短くなったか?」
「ならば、二度とその名を口にしないでもらいたい。とうの昔に捨てた名です」
ジャックは言い、大きく溜息を吐いた。
「……だからここに来たくないんですよ。あなたの相手は疲れる」
「そう言うな。五十年来の付き合いなんだぞ? そろそろ慣れてもらわないとな。……だいたい、毎度毎度理由をつけて、なかなか顔を見せに来ないんだ。少しは意趣返しさせてくれたっていいだろう」
おどけた軽い口調で返すと、ジャックはふっと苦笑した。部屋の重かった空気が消え去る。スミスは膝に肘をつき、指を組んで口を開く。
「今回来たのは、あの子のためか?」
「サラマンダーの件もありましたからね。あれはサキの過失ではなく、リュカリウスの思惑に気づかなかった私の責任です」
「そうやって新人を甘やかすのはよくないぞ。……とはいえ、エルフが相手では無理ないな。ルカは番人としては優秀だが、一族きっての放蕩息子でシドも手を焼いているくらいだ。面倒なやつに目をつけられたな、サキは」
そこでいったん言葉を切り、スミスは組んだ指に力を込めた。
「それも仕方ないことか。彼女は異人にとっては危険、だからな」
「……エイブ」
「サキのことはこちらにも報告されている。……実は彼女が十五の歳に、何度かスカウトをした。すげなく断られてしまったがね」
「……」
「なのに今さら、イギリスに送り込んでくるとは。しかも君の家に滞在させてまで。さて、ブラッドレイ公爵は何を企んでいるのか……」
ちらりと、スミスはジャックの様子を見る。ジャックの顔色に変化はない。ただ穏やかな笑みを浮かべ、目を伏せた。
「彼女の稀有な力は、彼女の将来を縛るものではない。選ぶ道の一つにすぎません。彼女が願い、望む道を進めるように、私は導くだけです。ジョーとそう約束しました」
「……ふむ」
ジャックに話す気が無いと分かると、スミスは組んだ指を解き、ソファの背もたれに寄り掛かった。
「君が受け入れているなら、今は何も言わん。だが、くれぐれも注意してくれ。何しろ、彼女は――」
***
諸々の手続きはあっという間に終わってしまった。
シドに連れられて報告書を提出した後、そのまま奥の部屋に連れて行かれ、サラマンダーを保護する手続きを行った。
保護をする際、精霊には魔石を装着させる義務が生じる。居場所が分かるだけでなく、魔石は万が一精霊が暴走した際の抑えにもなる。
特殊な金属でできた魔石の首輪を嵌められる時、サラマンダーは暴れた。私が宥めて、ようやく落ち着いたものだ。
きゅうきゅうと哀れに鳴きながら私の指にしがみ付くサラマンダーに、シドは『なんて甘えたですか。それでも精霊ですか』と呆れていた。
もっとも、文句を言いながらも、シドは直々に保護の説明をしてくれた。厳しいことを言いながらも、本来はいい人……もとい、いいエルフなのだろう。
ひと通りの説明を終え、去ろうとする彼を私は呼び止めた。
『シドさん、先ほどはすみませんでした。保護の説明をして頂き、ありがとうございます』
礼を言うと、シドは軽く目を瞠った後、ふっと苦笑した。その顔からはどこか冷たさが抜けていたように思える。気のせいかもしれないが。
手続きが終われば、あとはブライアーヒルに帰るだけだが、肝心のジャックがまだ来ない。
ジャックが戻ってくるまで、私はホールに置かれたベンチに座って待つことにした。
膝に乗せた鳥籠の中では、疲れたのか、サラマンダーが身体を丸めて眠っている。鳥籠はサラマンダーの熱でほんのりと温かくなり、冷えた空気の中で心地よい。
二度目の支部出向、そして支部長との対面。続く緊張疲れで、眠気が襲ってくる。
うとうとしかけた時、扉が開く音がして、はっとそちらを見やる。
ジャックではなく、この支部で働いているであろう若者の集団がぞろぞろと出てきていた。向かいの回廊を通り過ぎる彼らに気づかれぬよう、私は顔を伏せる。
彼らが通り過ぎ、ほっと胸を撫で下ろした時だ。
「――ケイ‼」
がばっと、ベンチの後ろから誰かが抱き着いてきた。
大きく長い腕。赤い髪が、視界の端に映る。私は息を呑んで固まった。
「っ……」
「はははっ、驚いた? そろそろ任務に行こうぜ、ケイ……あれ?」
明るい笑い声をあげて顔を覗き込んできたのは、若い青年だ。
黒い詰襟の服に身を包み、癖のある赤毛に琥珀色の瞳を持つ青年は、大きな目をきょとんと丸くしている。
「え? ケイ……じゃ、ない? ていうか……女の子ぉ⁉」
青年は慌てて、私の肩に回していた腕を解いた。
「うわーっ、ごめん! 本当にごめん‼ 間違えた!」
「あ、その……はい……」
「女の子に無断で抱き着くなんて、紳士失格だ! うう、俺はなんてことを……!」
わあわあと慌てふためいていたかと思えば、がくりと膝を付いて落ち込む。忙しない青年の姿に、私は落ち着きを取り戻した。
「もう、もうっ、俺の馬鹿……! 嫌な思いさせてごめんなさい!」
「あ、ええと……驚いたけれど、大丈夫です。気にしないで下さい」
しばらく宥めていれば、青年はようやく立ち直る。やがて照れ臭そうに笑って、再度頭を下げた。
「本当にごめんなさい。ええと、俺はニコロ。ニコロ・ヴァレンティーノです。よろしく!」
にこっと人懐っこい笑みを浮かべ、ニコロが手を差し出してくる。人懐っこい笑みと、どこかアーティに似た無邪気さに、警戒も解れる。
「あ……私はサキ・シキシマです」
恐る恐る手を出すと、がしっと握られ、ぶんぶんと振られた。
「サキ、よろしく!」
「よろしくお願いします」
一度頭を下げて顔を上げると、ニコロは握手した手をそのままに、じいっとこちらを見つめてくる。
「あの、何か……?」
「いや、その、俺の友達によく似てるなあって思って。あ、ええと、顔もだけど、なんかこう、雰囲気って言うか……」
言いかけたニコロの背後から、声が掛かった。
「――何をしている、ニコロ。早く行くぞ」




