(4)
……闇? 曇りとはいえ、まだ昼間なのに。
不思議に思った途端、霞が消えて辺りが急に暗くなった。
先ほどまで見えていたはずの緑の丘は、今や薄闇に覆われて影となり、ひっそりと静まり返っている。暮れた空には星が出て、ひゅうっと冷たい夜気が肌を撫でる。
ジャックの銀髪とアーティの水色の目が、闇に冴えて光っていた。
「どうして……」
呆気にとられる私の身体に、ブランケットが強く巻きつけられた。そうされて、自分の体がすっかり冷え切っていることに気づく。背中に悪寒が走り、指先もかじかんで震えていた。
震える私をベンチに座らせて、ジャックは持っていたランタンの明かりをつける。オレンジ色の揺らめく火が辺りをほんのりと照らした。
「今は夜の七時過ぎです」
「……え?」
家を出たのは昼食の後で、それから一時間くらいしか経っていないはずだ
「散歩に出てまだ一時間くらいしか……それに、アーティがいなくなって……」
「いなくなったのはあなたの方です。アーティが知らせてくれました」
ジャックの話に寄れば、アーティが丘から少し離れて戻った時には、私の姿が無かったらしい。
アーティの姿が消えたのではなく、私の方がこの場所からいなくなっていた。正確には、人間の世界とあちらの世界の『挟間』に迷い込んでいた。
「リュカリウスの仕業です。彼は空間を扱うことに長けています。なにせ、扉の『番人』の一人ですから」
イギリスには、異人街以外にも、エルフや妖精、ドワーフなどの一族が暮らすコミュニティが多くある。人間の世界とは隔離された場所にあり、コミュニティに入るにはそれぞれの族長の許可が必要だ。
その入口はイギリスのあちらこちらに点在し、ごく稀に迷い込む人間もいる。そうならないように、入口――『扉』を管理するのが『番人』だ。
番人は、人間世界とあちらの世界の入口の間に、どこでもない場所、いわゆる『挟間』を作り出し、人間が迷い込めばすぐに感知できるようにしている。そして、あちらの世界に人間が入る前に元の世界に帰すのが、彼らの役割だ。
番人であるルカは、その空間に私を迷い込ませたのだ。
私がいなくなったことに気づいたアーティは、すぐにジャックを呼んだ。
「アーティは私の眷属です。離れていても意思の疎通ができるんですよ」
アーティは普通の犬ではなく、吸血鬼であるジャックの眷属だった。
眷属は、吸血鬼が己の血と力を分け与えた使い魔であり、忠実なしもべ。
アーティが人間の言葉を理解できるのも、黒い大きな影のような異形の姿になったのも、ジャックに与えられた力の一部であった。
アーティは駆け付けたジャックと共に、私のかすかな匂いをたどって入口を見つけ、挟間に入った。
挟間では時間が流れていないため、時間の感覚が無くなる。異人よりも身体的に弱い人間は、挟間に長時間いることで体調を崩したり、精神に負担が掛かったりするそうだ。
私が感じている寒気はそのせいだと言う。
「申し訳ありません。あなたを危険な目に遭わせてしまって」
地面に落ちたままの私のスマホを拾いながら、ジャックが謝ってきた。私は慌てて首を横に振る。
「ジャックが謝ることではありません。気付かなかった私のせいです」
「いいえ。あなたを一人で行かせてしまった、私の早計です」
「そんな、違います。だって私が……」
言いかけた時、足に温かいものが触れた。アーティだ。
ぐいぐいと何度か身体を押し付けてきたかと思えば、ベンチに飛び乗って私の膝の上に乗ってくる。水色の目が心配そうに見上げてきた。
「アーティも反省していました。頼むと言われていたのに、守れなかったと」
「……」
アーティのせいでも、ジャックのせいでもない。
考え事で気を散らしていた。周囲の変化にすぐに気付くことができず、ジャックへの連絡が遅くなった。未熟な自分のせいだ。
それに――
ルカに目を付けられたのは、おそらくは私本人に問題があるせいだ。
彼は私の素性に気づいているようだった。きっとただの人間であれば、挟間に閉じ込められることも無かったに違いない。
……ジャックにもアーティにも話していない、私の事情。
言えば、きっと嫌われる。恐れられる。それが、怖いのだ。
何か言わなければと口を開きかけて、結局何も言えずに閉じる。俯いた私を、体調が悪くなったと思ったのか、ジャックが肩を優しく撫でてきた。
「家に帰りましょう。体を温めて、今日は早く休んでください」
ジャックはそう言って、私の身体を軽々と抱き上げた。驚いたが、ジャックは細い腕一本でしっかりと抱えている。吸血鬼である彼の、人間には無い膂力を今更ながら実感した。
火を消したランタンをリュックにしまったジャックが、声を掛けてくる。
「少し揺れますから、肩か首に掴まっていて下さい。舌を噛まないように気を付けて」
躊躇いつつもジャックの肩を掴むと、「行きますよ」の合図と共に強い風が頬に当たった。
「っ……」
景色が凄いスピードで流れていく。まるでジェットコースターだ。夜の丘を駆けるジャックの後ろを、長いしっぽを翻らせてアーティが追ってくる。
いつもは整えてあるジャックの銀髪が、風に乱れてなびく。月明りを反射して光るそれを綺麗だと思いながら、私は目を瞑った。
***
翌朝、早く起きてキッチンに向かうと、いつものようにジャックが朝食を準備していた。
「おはようございます、ジャック」
「サキ、おはようございます。体調はどうですか?」
尋ねてくるジャックに「大丈夫です」と返し、キッチンに入る。
ジャックは、薄く切ったタマネギやニンジン、ジャガイモを鍋で煮込みつつ、別に茹でたジャガイモの皮を剥いている。今日は野菜のポタージュスープとポテトスコーンを作るそうだ。
「手伝います。……何をすればいいですか?」
「では、ジャガイモを潰してくれますか?」
ジャガイモのマッシュに、クリーム状に練ったバターや砂糖、小麦粉、ベーキングパウダーを加えてさらに混ぜ合わせる。これがポテトスコーンの生地になり、型で抜いたものをフライパンで両面焼き、熱々を食べるという。
「今日はジャガイモを多くして、バターと砂糖を控えめにしました。焼きたてはほくほくして、おいしいですよ」
ジャックは粗熱をとった野菜スープをミキサーにかけながら、楽しそうに言う。隣で手伝いながら、私は彼の方を向いた。
「あ……あの、午前中の散歩、私も一緒に行ってもいいですか? あなたと、アーティと、一緒に」
散歩に行きたいと自分から言い出すのは初めてで、緊張する。断られたらどうしようと怯む自分がいる。
「絶対にあなたとアーティの側を離れないようにします。……その、見回りの効率は悪くなるかもしれないけれど、仕事を覚えたいです。危険なことも、それを防ぐ方法も、教えて下さい。……アーティと二人で見回りに行けるように、なりたいです。お願いします」
つっかえながらも言い切って見上げると、ジャックも同じように見つめ返してくる。眼鏡の向こうの青い目が柔らかく細められ、口元の皺が深くなった。
微笑んだジャックは「もちろん、いいですよ」と頷く。そして、目線を私の背後へと投げ掛けた。
「アーティはどうだい?」
振り返ると、壁の端から顔を覗かせたアーティがいる。
アーティはさっと隠れて逃げてしまった。嫌がられたのかと思って落ち込むが、すぐに軽い足音が戻ってくる。
赤いリードを咥えたアーティが、早く行こうと言わんばかりに足元に寄ってきた。水色の目を見つめても逸らされることは無い。しっぽは垂れることなく、楽しげに揺れている。
ぐいぐいと身体を押し付けてきて急かすアーティを、ジャックが宥めた。
「散歩はまだだよ、アーティ。朝食をしっかり食べて、お茶を飲んで一息して。それから一緒に行きましょうか、サキ」
「……はい」
じわりと胸が温かくなる。自分が近づいた分、相手も近づいてくれた。
まだまだ小さな一歩だが、それでも前に進めたことにほっとして、ポテトスコーンの生地を練る手に力が入る。直後、ジャックに「あまり生地を練り過ぎないようにね」と注意された。




