1.それはライオンのように(1)
『君に薔薇を送ろう』
古い友人は、電話の向こうでそう言った。
私たちに居心地のよいこの国を離れ、異国の、しかもはるか遠くの東の国に移り住んだ少し変わりものの友人だ。
「薔薇なら自分の庭で育てているよ」
そう返すと、息を零すような、静かな笑い声が受話器から聞こえる。
『君の庭には無い。けれど、君が最も欲する薔薇だ。君の望みを叶える、とっておきの薔薇だよ』
私の望みを知る彼は、何を用意したというのだろう。
いらないよ、と返せればよかった。だけど、私は望んだ。
私の願いを叶えてくれる、薔薇を。
『どうか、君に祝福があらんことを』
冗談めいた台詞は、いつも仰々しい彼にしてはひっそりと、祈るような声音で囁かれた。
電話の向こうから、届くはずのない薔薇の香りがしたような気がした。
***
March comes in like a lion.
三月はライオンのようにやってくる――。
そんな古い諺が、イギリスにはあるそうだ。雨や霰や雪が吹き荒れる、三月の荒々しい天候を現したものらしい。
ロンドンから西へ約二百キロメートル、コッツウォルズ地方に移動する間、外はまさにそんな天気だった。
――私、敷島咲がはるばる日本からイギリスに降り立ったのは今朝のこと。ロンドンで所用を済ませ、パディントン駅で電車に乗ってモートン・イン・マーシュ駅へ。そこからはバス移動で、田舎道を三十分ほど揺られている。
数人しか乗っていないバスの車窓を、雪混じりの雨が時折激しく叩く。着いたのは、ブライアーヒルという小さな町だった。
降りたのは私一人だけだ。チッピング・カムデンやバイブリー、ストゥ・オン・ザ・ウォルドなどの有名な観光地でないせいもあるが、今が観光に向かないオフシーズンで悪天候のせいもあるだろう。
バスを降りた途端に強い風が吹きつけてくる。幸いにも雨は止んでいたが、空気の冷たさに首を竦めた。
三月も半ばを過ぎれば、日本は春めいてくるが、日本よりも緯度が高いイギリスは、まだ冬将軍が居座っているように気温が低い。予想した以上に寒く感じるのは、どんよりとした重たげな空の色や、時折吹く強風のせいか。
メルトンのダッフルコートを襟元まで留め、ウールの帽子を深く被る。貰い物のカシミヤのマフラーをぐるぐると首に巻いて頬まで引き上げれば、風の冷たさも少しは防げた。
大きなバッグパックを抱え直して、スマホの地図アプリを開く。
行き先の住所は、バスの中で打ち込んであった。ナビ機能で目的地までの道のりを示してくれるはずだが、現在地を示す光点がちかちかと点滅するばかりだ。もう一度同じ住所で検索をかけたが、やはり道のりを教えてくれない。
電波が悪いか、あるいは故障かとも思ったが、ふと、日本を発つ前に受けたアドバイスを思い出す。
『通信用の電子機器はあまり当てにしない方がいいよ。私達とはどうも相性が悪いみたいでね。向こうは日本よりも私達みたいなものが多いから、影響を受けやすいんだ』
最新の電子機器を購入しては修理と買い替えを行っていた、知人の悔しそうな顔を思い出す。
……仕方がない。自分の目で確認して探すしかない。
バス停を後にして、私はスマホの地図にある通りや番地を確認しながら進んだ。
町の住人に会えたら道を聞けばいいと思っていたが、悪天候のせいもあってか誰ともすれ違わなかった。
歩き始めて二十分くらい経っているが、目当ての通りが見つからない。アスファルトで舗装された道から石畳の道へ、砂利や土の細い横道に入っては引き返す、を繰り返している。
スマホで現在地を確認しようとするが、気づけば光点すら消えていた。こうなっては、画面の地図も正しいのかどうか怪しい。時間を見ると、十五時半を過ぎていた。訪問する時間は十六時頃と連絡を入れてあるが、間に合うだろうか。
溜息を吐きながら、少し汗ばんできた首元のマフラーを緩める。
再度歩き出せば、開けた場所に出た。町の外れまで来たようだ。こんもりとした木の切れ目の向こうには、なだらかな丘が続いている。
いつの間にか、重い雲を割って晴れ間が見えていた。ガイドブックには、イギリスは一年を通じて曇り空と雨が多く、天候が変わりやすいとあったがその通りだ。
灰色の雲間の青い空に、どこまでも続く緑色の丘。雲の影が落ちる青々しい芝生に、ぽつぽつと見える白い小さな点。羊だろうか。
羊を飼うための囲いをコッドといい、そのコッドがたくさんある丘陵地なので『コッツウォルズ』というのだと、ガイドブックには書いてあった。
雨と草と土の匂いがする風。横浜では目にすることのできない、広大な光景。
「……」
今さらながら、知らぬ土地へ来たのだと妙に実感した。ずっと眺めていられそうな長閑な景色だったが、我に返って視線を家の並ぶ方へと戻す。
自分は観光をしに来たわけではない。
それに、これからしばらくはこの景色をいやでも見続けることになるのだから。
気を取り直して引き返すと、すぐに目当ての通りの名前が書かれた標識を見つけることができた。町の外れの古い通り、オールド・チャーチストリート。
矢印に沿って進むと、緩くカーブを描く土と砂利の道に出る。
町の中心に比べて緑の量が多く、家の数は少ない。石垣と生垣に縁どられた通りを歩きながら、番地を確認する。
二十四番、と頭に浮かべた数字はほどなく見つけることができた。胸の高さの石垣に沿って歩き、セージグリーン色に塗られた木製の門扉の前で立ち止まる。
黄色い水仙や可憐なカウスリップが咲く前庭の向こうには、二階建ての古い家があった。
ハチミツ色の石の壁に、くすんだチャコール色の石瓦の屋根。焦げ茶色の窓枠。セージグリーンの玄関扉には、白いクラシックな字体で「24」と書かれている。
まだ時間には少し早かったが、私は声を掛ける。
「ミスター・オールドマン、いらっしゃいますか?」
しばらく待ったが、返事はない。少し迷った後、鍵のかかっていない門扉を押し開けて前庭を横切った。石畳のアプローチを辿って、玄関前で止まる。
玄関扉に付けられた、アンティークらしき黒い鉄のノッカーに手を伸ばしたとき、がさりと葉擦れの音がした。
音の方を見ると、家の横から一人の男性が姿を現す。
はじめに、銀色の髪が目についた。後ろに軽く撫でつけた髪が、木漏れ日を反射してきらりと輝く。
すらりとした身体つきで、カーキ色のエプロンを付け、ワイシャツに重ねた茶色のセーターの袖を肘まで捲っている。皮の手袋も黒い長靴も濡れた土で汚れていた。庭仕事をしていたのだろうか。男性が一歩踏み出すと、土と緑の匂いが一層濃くなった気がした。
白い肌に刻まれた皺は多く、六十代くらいに見える。日本人から見ると西洋人は彫りが深くて綺麗な顔立ちをしているが、彼はその中でも整っているように思えた。若い頃はさぞかし女性にもてただろう。
私に気づいたらしく、男性がこちらに向かってくる。
目の前に来た彼は、私よりも頭一つ分は背が高い。見上げると、細いフレームの眼鏡の奥の目がよく見えた。
綺麗な青色だ。海の色でも、空の色でもない。澄みながらも青く深く覗き込めない、湖のような色をしていた。
凪いだ青色がわずかに揺らいで、私を見つめる。
「……Blue rose……」
男性の口から零れた言葉に、私は内心で首を傾げた。
ブルーローズ――青い薔薇。
『不可能』や『あり得ない』という言葉が頭に浮かぶ。あるいは、別の花の名前を聞き間違えたのかもしれないが。彼の声は小さく掠れて、聞き取りにくかった。
やがて、彼は夢から醒めたように何度か瞬きした。穏やかな笑みを浮かべ、尋ねてくる。
「もしかして、あなたが研修生の方ですか?」
ゆったりとした低い声に、私は頷く。
「はい。異人管理局から来た、研修生のサキ・シキシマです」
「ああ、やはりそうですか。話は伺っています」
「あの……あなたが、ミスター・オールドマンでしょうか?」
「ええ。ジャック・オールドマンといいます。ジャックと呼んでください」
綺麗な発音のイギリス英語と共に差し出される右手から、汚れた手袋は外されていた。長い指は細く節くれており、手の甲には筋が浮く。年齢を重ねた手だ。
握手には慣れていない私は、少し躊躇いつつも彼の手を握る。
しっかりと握り返されたジャックの大きな手は、意外にも温かくて、少し驚いた。自分の手がひどく冷えていたせいもあるのだろう。
でも、『異人』の手は、もっと冷たいものだと思っていた。