099:迷い路の先
私の発した声が、病室に響き渡る。
その瞬間、まるで水を打ったかのように、部屋の中は静寂に包まれていた。
廊下を歩く人々の足音や、建物の外を吹く風の音のみが耳に入る部屋の中、私はゆっくりと、雲井優奈の父親へと近づいていく。
一方で私の視線に晒されたその男は、顔色を青く染めながら、口をパクパクと開閉させていた。
私が放っているのは本物の敵意だ。殺意とまでは行かないが、それでも一般人には十分すぎる恐怖となるだろう。
しかし、それを抑えるつもりも無く、私は再び口を開く。
「無責任だと? これほどその言葉が似合う人間は、貴方の他にはいないと思うのだがな」
「な、にを……」
「久我山に責任を押し付け、十年もの間縛り付けた。これを無責任と呼ばずに何と言う。恥を知れ」
私としては珍しいことではあるが、口からはすらすらと罵倒の言葉が流れ出ていた。
前世でも似たようなことは行っていたが、どちらかと言うと口よりも手を動かすタイプだったから、こういった行動の経験はあまり無い。
だが、迷うことは無いだろう。告げるべきことははっきりしているのだから。
「っ……か、彼が原因で優奈が怪我をしたことは事実だ! 責任の押しつけなど――」
「それが押し付けだと言っている。十年前だ、久我山はまだ子供だった。僅か五歳の子供に、貴方は責任を求めたとでも言うつもりか」
「そ、それは……」
「第一、子供の責任は親の責任だ。監督が行き届いていなかったのは、紛れも無く貴方と久我山の両親の責任になるだろう。それを、子供に押し付けただと? ふざけるのも大概にしろ」
雲井優奈は、幼い頃に魔法を暴発させたために入院することになったという。
だが、そんなことは本来ありえない。小さな子供が魔法を使おうとすれば、周囲にいる大人が必ず止めるはずだからだ。
魔法はそれだけ危険な力であり、厳しく管理されなければならないものなのだから。
驚くべきは、その年齢の頃から魔法を扱えたであろう久我山なのだろうが――何にせよ、目を離していい理由になどなりはしない。
「……僕は、当時は祖父母のところで世話になっていたからね。二人とも結構年だったし、流石に保護者同伴で外で遊びまわることはできなかったよ」
「ならば貴方がたが面倒を見るのは当然のことのはずだが、何か弁明はあるのか?」
「っ……」
どうやら、ようやく自分の行いがいかなるものだったのかを理解できたようだ。
尤も、遅すぎるとしか言えないだろう。彼らは既に、十年もの長きに渡って、久我山の人生を束縛してしまったのだ。
幼き日の、自責に駆られた少年に、その責任を求める声を否定することは出来なかったはず。
結果として、彼は今日この日まで、ずっと己を縛り続けることになってしまったのだ。
「そもそもの話、貴方がたは久我山に感謝こそすれ、責める口など持たないはずだ。そこの担当医」
「は、はいっ!?」
「雲井優奈に関するカルテを読んだのならば、分かるだろう。彼女は、十年前に事故を起こさねば、死んでいた可能性が高いと」
「な……そ、それは、どういうことだ!?」
目を剥く父親の言葉に、担当医は気圧されたかのように一歩下がる。
だが、この場で言葉を濁すことはできないと判断したのだろう、彼は一度嘆息してから続けていた。
「……優奈さんの体を走る魔力回路は、非常に特殊な形をしています。これは生まれつきのようですが、彼女の魔力回路は非常に混線した、絡まった状態になっているんです。この混線状態は魔法の発動を阻害し、体内の魔力回路へ深刻なダメージを与えてしまう」
「そ、それでは……優奈は、魔法を使えないというのか!?」
「はい、そういうことになります。もしも、魔力が成長した今の状態で魔法を行使すれば、今度こそ命は無いでしょう。幸い、日常生活を送る分には問題ありません。体の維持に必要な魔力はきちんと供給されているので、魔法さえ使わなければ健康体でいられるでしょう」
そう、彼女の肉体は、元々魔法を使うことに適していないのだ。
魔法を使おうとすれば、体内で魔力が暴発する。これは確定事項だ。魔力回路そのものが混線している以上、そこに負荷をかける魔法行使そのものが致命的であると言わざるを得ない。
詰まるところ、彼女はいずれ、どのような形であれ、確実に魔法を暴発させていたのだ。
「本来、一般的な人間であれば、魔法行使の練習を始めるのは十歳程度からだ。そして、もしもその段階まで魔力が育っていたならば、彼女は確実に死亡していたはず。彼女が命を繋いだのは、久我山が5歳と言う幼い時分に魔法を使用させたおかげだ。幸運だっただろう? 自分の手で、娘を殺すようなことが無かったのだから」
「ッ……だ、が」
「事実として、久我山は二度に渡り彼女の命を救った。その上で、再度問おう――久我山の、何が、無責任だと?」
強く、言葉に力を込めて私は問う。
これだけ言っても理解できないのならば、これ以上の会話は無駄だろう。
そう判断しながらじっと見つめる。対する彼は、俯きながら拳を震わせて――しばしの後に、その肩を落としていた。
「……いえ、彼に責任は……何も、ありません」
「そうか。ならば、話はここまでだ」
それだけ告げて、私は久我山へと視線を向ける。
まだ言うべきことがあるか、と言外に問いかければ、彼はその首を横に振っていた。
どうやら、久我山はこれにて決着とするつもりのようだ。
当事者である久我山がそう決めたのならば、最早私にも挟む口は無い。
久我山は、己の意思で雲井一家との決別を決意し、その意思を私の目の前で示して見せたのだ。
これ以上、彼らと関わる必要は無いだろう。
そう判断して踵を返した、その時――少女の声が、病室にか細く響いていた。
「ま、待って……待って、雪斗君」
「……何だい、優奈ちゃん」
病室を出ようとする足を止め、しかし振り返ることなく、久我山はそう問いかける。
拒絶の意思を現したその姿に、雲井優奈は一瞬気圧されたように言葉を止めた。
だが、それでも意を決したかのように、彼女はおずおずと口を開く。
「ねえ……嫌、だったの? 私に、会いに来てくれるのも……ずっと、義務のつもりでやってたの……?」
「……今更、それを聞くかい?」
震える彼女の声は、懇願するような響きを持っていた。
どうやら、彼女は純粋に久我山のことを慕っていたらしい。
だが、対する久我山の声は、凍りついたかのように硬い響きを持っていた。
「僕は、君のお願いはずっと聞いてきた。いつお見舞いに来てほしいとか、これを買ってきてほしいとか……全部、可能な限り断ることは無かった。それがどれだけ負担だったか、分かるかい?」
「そ、それは……でも、嫌なら断ってくれれば……!」
「僕にそんな選択肢は許されていなかった。僕は、君を助けるためだけに生きなければならなかった。僕に自分のものなんて何も無かったんだよ。趣味に使うお金だって、自由に遊ぶ時間だって――何も、無かったんだ」
そう告げて、久我山は振り返る。
その瞳には、私ですら息を飲むほどの、感情のない虚無が広がっていた。
それはまるで、彼の十年間を表しているかのような、空虚な色。
底知れぬ彼の瞳に見据えられ、雲井優奈は二の句を告げられずに沈黙していた。
そして――久我山は、一言だけ彼女へと告げる。
「君はまた、僕の全てを奪うのかい?」
「っ、あ、ああ……!」
零れ落ちる慟哭に、しかし久我山の瞳が揺れることは無い。
そして久我山は、それ以上質問が無いのならと言わんばかりの様子で、そのまま踵を返していた。
久我山が何も言わぬのならば、これ以上口を挟むのは野暮と言うものだろう。
私は部屋の中にいる一同を一瞥し、そのまま初音を伴って病室を後にしていた。
「……終わったか」
「お疲れさま、仁。久我山さんは……もう、先に行ってるみたい」
「感情に決着をつけるのは難しいからな。まだ、落ち着けてはいないのだろうさ」
先を歩む久我山は、少し早足で病室から離れるように歩いている。
初音と顔を見合わせた私は、軽く肩を竦めてから彼の背中を追っていた。
久我山は何も話すことなく足早に病院を出て、そのまま外の通りへと足を進めて――そこでようやく、立ち止まっていた。
俯き、右手で顔を押さえ、肩を震わせる彼に対し、声をかけようとして――
「は、はは……ははっ、ははははははははははははっ!」
――久我山は、顔を右手で抑えたまま、身を捩るようにして天を仰ぎ、大きな笑い声を上げていた。
それはまるで、胸の内に溜まったものを全て吐き出そうとするかのように。
「終わった……ああ、終わった、終わったよ灯藤くん! 全部、ようやく……僕は、蹴りを付けたんだ!」
「……そうだな。ああ、その通りだ。お前のこれまでの努力は、決して無駄などではなかった」
「本当に、本当に……僕は……っ」
同じ体勢のまま、久我山は声を震わせる。
万感の思い、といったところだろう。無理はあるまい。それほどまでの時間、彼は努力を続けてきたのだから。
確かに、後味の良い終わり方とはいえなかっただろうが――それでも、これで久我山は解放されたのだ。
己自身を縛り続けていた、義務感と言う鎖から。
「お疲れ様だ、久我山。良く頑張った、良く我慢した……私には、それしか言えん」
「本当に、お疲れ様でした、久我山さん」
「っ、あり、がとう……」
声を震わせ、動けずにいる久我山の肩を叩きながら、私は労わりの言葉を告げる。
さて、これが前世と同じ年齢であるならば、居酒屋にでも誘って飲み明かしていたのだろうが……流石に、この年齢ではそれも無理だ。
こういう場合は酒で洗い流すのが一番なのだが――まあ、仕方ないか。
苦笑を零しつつ初音と目配せをすれば、彼女もまた微笑みながら首肯する。
どうやら、考えていたことは一緒らしい。
「正式所属の祝いだ。ウチでパーティをするとしよう」
「久我山さんも一族の仲間入りですから、楽しく陽気に騒ぎましょう」
「それこそ、これまでのことを全部忘れられるぐらいに、騒ぐとしようか」
「っ……は、はは」
私たちの言葉に、久我山は口元から笑みを零す。
色々と、複雑な感情はあるだろう。すぐにそれを飲み干すのは、やはり不可能なはずだ。
だがそれでも、今は私たちという仲間がいる。そして、自分自身で選び取った未来がある。
ならば、過去の傷は時間が癒してくれるだろう。
そして、失った時間は、今からでも埋めていくことができるだろう。
「……ありがとう、当主様。これから、よろしくお願いするよ」
「ああ、よろしく頼むぞ。さあ、帰るとしようか」
今はただ、久我山の選んだ結末を祝福しよう。
いつか、空虚だった十年間すらも笑い飛ばせるようになるために。
かつての私のような、虚ろな人間が生まれなかったことに、私は密かに安堵の吐息を零す。
後は、彼を同じ状況にせぬよう、気をつけていかねばならないな。
『随分と迂遠で面倒なことをしたものじゃが……何だかんだで、上手く回ったようじゃの』
『ああ。今回、お前はあまり出番が無かったがな』
『妾の仕事は、敵がいてこそ成り立つものじゃよ。出番が無いに越したことは無い、じゃろう?』
『……確かにな』
千狐との会話には苦笑を零し、久我山の背を押して歩き出す。
涙を拭う彼の仕草には気づかぬようにしながら、私たちは並んで、灯藤の拠点へと帰っていったのだった。




