093:少年の事情
しばらく進むと、久我山は詩織と別れ、一人で行動を開始していた。
子供の姿のまま彼を追いかけるリリは、脳裏に記録していた情報と照らし合わせ、ふと首を傾げていた。
この方向は、久我山の自宅がある方面ではない。
詩織と別れて帰宅するものだと考えていたのだが、どうやら他に目的地がある様子だった。
(ふむ。ただの遊び目的の外出であれば、あまり情報は得られませんが……)
しかし、今は少しでも情報を集めたい場面だ。
もとより、今すぐに帰還しなければならない理由もない。
主人である仁の元には本体がいるし、意識は同調させているため報告に戻る必要も無い。
調査の後は、街に潜ませている分体のうちの一つとして隠しておくことも可能なのだ。
いつの間にか太古の生命体に侵略されている街であったが、生憎とそれを知るものは本人以外にはおらず、この街は人知れずリリの牙城と化していた。
(とりあえず、追いかけるとしましょう)
思考もそこそこに、リリは自らの存在を隠蔽しながら久我山の姿を追いかける。
彼は、近場にあったスーパーでフルーツをいくつか買った後、街の中心部からは離れる方向へと移動を開始していた。
人の姿少しずつだが少なくなり、閑静な住宅街の様相を呈し始めている。
この場では子供の姿は逆に目立ちすぎると、リリは二十代前半程度の姿へと変身しつつ、久我山の追跡を続行していた。
その脳裏に、この街の地図を描きながら。
(こちらの方に目的地が? こちらの方にあるのは、確か――)
胸中で呟きつつ、リリは視線を上げる。
その先にあるのは、大きな白い建物だ。
かつての仁が世話になっていたのとは異なる、けれど負けず劣らずの大きな施設。
「病院……」
リリは足の踏み入れたことのない場所だ。
そもそも、仁は怪我を負うこと自体が少なく、例え負ったとしても自力で修復することが可能だ。
そして、もしもそれが追いつかぬほどのダメージであるならば、素直に綾乃のところに出向いたほうが早い。
そのため、場所自体は把握しつつも、施設の把握は行っていなかったのだが――
(……どうやら、運が良かったようですね)
リリは、胸中で仁への感謝の祈りを捧げながらほくそ笑む。
病院など、何らかの事情がなければ足を踏み入れぬ場所だ。
そして、ここ最近、久我山が調べていたのはいずれも医術系の学術書。
彼の悩みの原因が、この病院にあることは想像に難くはなかった。
(さて、話が主ですら対処しきれぬと言った貴方の事情、探らせて貰うとしましょうか)
病院内は人が多く、人にまぎれることは難しくない。
だが、ある一定の区域内まで入ってしまうと、途端に人の数が減ってしまう。
わざわざ見舞いの品と思われるものまで購入した久我山が、受付だけで話を済ませるとは到底思えなかった。
しかしそうなると、隠密行動の難易度は大いに上昇するだろう。
(……仕方ないですね)
魔法を使って姿を消すことも可能だが、こういった施設内で魔法を使うことはそれ相応のリスクが存在する。
リリは己の力ならば隠蔽しきることも不可能ではないと認識していたが、それでもここは勝負に出るような場面ではない。
素直に人目につかぬようにした方が楽だろう。
ならば、と――リリは、特に気配を消すようなこともせず、久我山の背中に接近していた。
行き交う人々で込み合う受付のホール。ここでならば、待っていたとしても違和感は全くない。
そのホールの中で、リリは久我山を追い抜き様、その背中に己の一部を付着させていた。
(感覚同調――成功。これで、後は彼が案内してくれることでしょう)
服のしわの影に埋もれて見えなくなる程度の、小さな黒い粘液の塊。
それが確かに周囲の情報を集め始めていることを確認したリリは、多く立ち並ぶベンチの内の一つに腰掛けて目を閉じる。
やろうと思えば彼を追って潜入することも可能だろうが、この場でそこまでのリスクを冒す必要はない。
後は小さな分体から送られてくる情報を聞き逃さぬよう、集中して待つだけだ。
(さて……果たして、どのような事情があるのでしょうね)
胸中でそう呟き――リリは、小さく笑みを浮かべていた。
* * * * *
都築総合病院――その十二階にある個室のエリア。
エレベータから降りた久我山は、迷うことなくその廊下へと歩を進めていた。
向かう場所は決まっている。迷うことなど有り得はしない。
既に、この場所には何度も足を運んでいるのだから。
「あら、久我山君。また優奈さんのお見舞い?」
「あ、はい。いつもお世話になってます」
「いえいえ、こちらこそ。優奈さんを元気付けてあげてね」
既に顔見知りとなった看護師と会釈をしつつ、久我山は病院の廊下を進む。
目指す場所は、角にある日当たりのいい個室。
その前まで辿り着き――久我山は、小さく息を吐いた後、その扉をノックしていた。
「やあ、優奈ちゃん。起きてるかい?」
『雪斗君? ちょ、ちょっと待って!』
中から聞こえた声に、久我山は僅かに嘆息しつつ入室の許可を待つ。
生憎と、ここで強引に入ろうなどと言う考えは、久我山には浮かんではいなかった。
手持ち無沙汰ではあるが、いつものことであるため特に不満を抱くこともなく、久我山は待機を続ける。
やがて、部屋の中から声が掛かったのは、おおよそ一分後のことであった。
『どうぞ、雪斗君』
「じゃあ、お邪魔します」
部屋の中からの声に応え、久我山は扉を開けて入室する。
その部屋の中にいたのは、ベッドの上で上体を起こしている一人の少女の姿だった。
小柄で線の細い印象を受ける彼女。パジャマに身を包んでいる彼女は、とてもではないが発育がいいとは言えないだろう。
あまり健康的であるとは言いがたい姿の彼女に、しかしそれについては言及することはなく、久我山は笑顔で声を上げた。
「やあ、今日は調子が良さそうだね、優奈ちゃん」
「うん、おかげさまで。それは?」
「お見舞いだよ。ま、看護師さんにでも渡して、適当に出してもらって」
持参したフルーツを机の上に置き、久我山はベッドの脇にあった椅子に腰掛ける。
彼女の名は雲井優奈。久我山にとっては、幼馴染とでも称すべき相手だ。
幼い頃からの友人同士であり――久我山にとって、過去の後悔を抱える相手でもある。
病院で過ごし続けているがために痩せ細っている彼女の体躯。その姿を目にして、久我山は思わず拳を握り締めていた。
「最近、調子はどうだい? 安定してるかな?」
「うん、大人しくしていればね。もうちょっと悪くなかったら、運動も出来たんだけど……」
「っ……うん、でも、部屋の中だけでも体を動かせるなら上々だよ」
「そうだね。あんまり寝てばっかりだと、そのうち歩けなくなっちゃいそうだから」
溜息を吐く優奈に対し、久我山は薄く笑みを浮かべる。
まるで、その下の表情を隠そうとするかのように。
けれど、対する少女はそれに気づくことはなく、嬉しそうな笑顔を浮かべたまま問いかけていた。
「ねえ、学校について教えて。最近はどんなことがあったの?」
「うん? ああ、そうだね……前に、凄く強い魔法使いの女の子の話はしたかな。最近、その彼女の双子の弟と友達になってね」
「へぇ、双子。双子って見たことないなぁ……やっぱりそっくりなの?」
「いや、そうでもないよ。性格はちょっと似てるところもあるけど、二人は二卵性双生児だからね」
脳裏に浮かぶ二人の友人の姿を思い浮かべ、久我山は軽く肩を竦める。
同じ両親から生まれている以上、ある程度容姿が似ている部分はあるが、それでも見間違えるほど似ているということはない。
元より、一卵性双生児の場合は殆どの場合で同じ性別となるのだ。
男女で分かれているならば、二卵性双生児なのが当たり前だといえるだろう。
「それで、その彼がまた随分と大人びた人でね。正直、あんまり同い年という感じがしないんだ」
「あれ、確か女の子の方って、凄く小柄なんだよね。弟さんのほうはそうじゃないの?」
「僕より少し身長高いぐらいだから、小柄じゃないかな。体もがっしりしてるし」
「鍛えてるの?」
「ああ、そうみたいだね。何と言っても、強い魔法使いの家系だから」
何しろあの火之崎である。あれ以上に鍛えている人間は日本でも存在するかどうか分からないレベルだろう。
尤も、己の友人が四大の一族であるということは、優奈にも伝えてはいなかったのだが。
四大の一族の立場はそれだけ複雑なのだ。下手に吹聴すれば、己自身に危険が及ぶ可能性も否定は出来ない。
それが日本最強の火之崎となれば言わずもがなだろう。
己の友人達の姿を思い浮かべながら、久我山は胸中で嘆息する。
来るなら叩き潰せばいいと考えている彼らと違って、自分はごく普通の一般人なのだから、と。
「そっか……いいなぁ、私も行きたい。雪斗君ばっかりずるいよ」
「ははは、ごめんごめん。いつか体が治ったら、優奈ちゃんだって行けるようになるよ」
「そうかなぁ……ずっとここにいるから、あんまり実感が湧かない」
視線を伏せながら呟く優奈に、久我山は苦笑する。
その胸の内に、苦汁を舐めるような感覚を隠しながら。
優奈は、ほんの幼い頃に事故に巻き込まれ、その身に決して小さくはない障害を追うことになった。
それ以来、彼女はずっと、この病院の中で暮らしているのだ。
だからこそ、彼女が外を羨む気持ちは十二分に理解することが出来る。
羨望の混じったその言葉を、久我山は決して否定することはなかった。
「それなら、僕も頑張らないとね。必ず君を、この病院から出してあげるさ」
「うん……雪斗君ならきっとできるって、信じてるよ」
「ああ、信じていて。きっと、僕が何とかしてみせる」
その言葉は――まるで、己に言い聞かせているかのような言葉だった。
既に理解しているのだ。彼女が何故、このように入院し続けなければならなかったのか。
一体どうすれば、彼女の体を治すことができるのか。
図書館の、それも貴重書の類を閲覧できるようになり、それがどれほど困難であるかは日を追うごとに理解が深まってきているのだ。
――己の力では不可能だ、と。
(僕の力じゃ、遠く及ばない。世界中の魔法使いだって、できる者がいるのかどうかも定かじゃない。あるとすれば、最高位の治癒術師ぐらい――)
だが、そんな存在に渡りをつけることは不可能だ。
少なくとも、自分の力だけでは、名前を知ることすら不可能だろう。
仮に知ることができたとしても、接触などできるはずもない。
あるとすれば、それはこの国でも有数の実力と権力を持つような一部の人間だけだろう。
(……灯藤君)
火之崎の宗家の出であり、既に分家当主の座を有する少年。
異質としか言いようのない雰囲気の彼は、己に対して手を差し伸べてくれている。
彼ならば、現状を打破する力があるのだろうか――そこまで考え、久我山は軽く首を振っていた。
分家当主と言っても、彼はまだ十五歳の少年なのだ。
流石に、そこまで上位の権限を有しているということはありえないだろう。
「……まあ、何とかするしかないか」
「雪斗君?」
「いや、何でもないよ。じゃあ、今日はそろそろお暇しようかな」
「え? もう帰っちゃうの?」
「成績を保つためには、色々と頑張らないといけないからね」
その言葉に、久我山は胸中で自嘲する。
下らない言い訳だ、と。結局のところ――自分は、この場から逃げ出したいだけなのだから。
「それじゃあね、優奈ちゃん」
「うん、また来週ね、雪斗君」
――当然のように告げられたその言葉に、久我山は振り向かぬまま手を振ってその場を後にしていた。




