092:久我山の追跡
リリから生み出された分体の一つは、誰にも見られぬまま路地裏に入ると、その体積を膨張させて人間への擬態を行っていた。
ショゴス・ロードであるリリは、その肉体の一部を使って、人間における脳に当たる器官を生成することができる。
普段、自宅にて作り出している分体達は、簡略化された脳の形成により自立行動を可能にしているのだ。
だが、今回それは必要ない。この分体は、あくまでも監視目的のために生成されたもの。
それならば、分体を遠隔操作すればよいだけであり、わざわざ意思を持たせる必要はないのだ。
「こんな、感じ……ですね」
仁の前で使っている子供のような口調ではなく、ショゴス・ロード本来の成熟した思考を呼び起こし、リリは分体の体を確認する。
見た目は、どこにでもいるような子供の姿。普段よりも若干高い年齢で形成したその体は、おおよそ小学生高学年程度の見た目になるだろうか。
一人で遊んでいてもそれほど違和感がなく、かつ他人から声をかけられづらい子供の姿。
こうすることによって、周囲からの干渉を押さえながら調査を行おうと考えていたのだ。
「では、行きますか」
黒髪黒目、服装は近くを歩いていた人間のものを真似て作り上げたもの。
それだけで完全に人間へと擬態したリリは、そのまま路地裏から出て目的地へと走り出していた。
まず最初に調べるのは、先ほど騒動が起こった駅前の広場だ。
それほど遠い位置ではないため、子供に擬態した速度であってもすぐに到着できるだろう。
(人間というものは……いえ、現代に生きる生物というものは不便ですね。一つの形に縛られなければならないなんて)
ショゴスという種族に限らず、かつて古き時代に生きていた生物たちは、複数の姿を持つものが多かった。
精神そのものを本体とし、肉体を入れ替えながら旅をするような存在もいたのだ。
それに比べて、今を生きる生物たちはどれほど不便なことか。
行き交う人々の姿を目にしながら、リリは僅かな哀れみを感じてしまう。
だが――己の肉体全てを使いこなし、使い尽くしている主人達に関しては、その範疇ではなかった。
かつての時代ですら、それを成しえたものは少なかったというのに――
(……怠惰ですね。己を鍛え上げることを放棄した者達というのは)
だが、それも仕方のないことなのかもしれない。
己の生きていた時代は遥か昔。今を生きる者達にとっては、関係のない話なのだから。
気を取り直し、リリは先ほど騒ぎが起こった場所へと到着する。
主人の友人たちに害を為そうとしていた愚か者たちの騒ぎ立てていた場所。
もしも人目がなく、あの場にリリしかいなかったならば、リリは間違いなくあの男達を闇に葬っていたことだろう。
仁は己にとって身近な人間を何よりも大切にする人物だ。故に、彼の傍にある人間は、全てリリにとっての守護対象。
彼らに仇成そうとした人間など、この世に存在する価値はないと、リリは本気でそう考えていた――尤も、仁の立場が危うくなることは見過ごせないため、完全に人目を排除できる場合に限るが。
「さて、と……」
先ほど久我山と詩織が立っていた場所に近づき、リリは隠蔽した術式を発動させる。
魔力の痕跡を追う探索術式。現代においては、劣化した術式が『過去視』として伝わっているが、リリの扱うそれは遥かに高度な術式だった。
過去にこの場で用いられた魔力を辿り、そしてその記録や性質について精査する。
ほんの1,2時間前程度に使われた魔力など、リリにとっては辿ることも容易いものだった。
(ふむ……やはり、あの場で魔力を使っていたのは、あの男と、そして久我山少年だけですか)
読み取った魔力の痕跡は、予想通り久我山の発したものだった。
他に魔力の痕跡はなく、あの数術機に対して干渉した可能性があるのは久我山ただ一人だけということになる。
そして、リリはその魔力の性質を感じ取り、僅かに口元を歪めていた。
長い年月で培った人間の擬態、感情と表情を直結させ――口元に、笑みを浮かべて見せたのだ。
「完全無属性の魔力……これは珍しいですね」
久我山の持っていた魔力――それは、一切属性を持たない特殊な魔力だった。
俗に『無色』とも呼ばれる魔力であり、いかなる属性にも特化していない特殊な性質を持つ。
属性魔法をほぼ使わない仁も、確かに属性への親和性は低いのだが、それでも皆無というわけではない。
だが久我山の場合、全ての魔力が一切の属性を帯びていないのだ。
故にこそ、この魔力はいかなる属性にも染めることが可能であり、久我山は全ての属性魔法を均等に使い分けることが出来る。
そして同時に――
「あらゆる魔力との親和性を帯び、拒絶されることのない性質……魔法消去の条件の一つ」
久我山の魔力は、あらゆる魔力に触れても拒絶されることがない。
故に、魔法消去に繋がる性質の一つであるとも言えるのだ。
他者の術式に触れて干渉し、術式を崩壊させる――魔法消去の一つとして、そういった方法も存在しているのである。
無論、それだけで魔法消去を扱えるわけではない。これに加えて、希少な魔力特性を有している必要があるのだ。
流石のリリも、魔力の残滓に触れただけで魔力特性を特定することは出来ない。
というより、実際の魔法行使でも見ない限りは不可能なのだ。だが、少なくとも久我山が魔法消去を使える可能性が高まったとはいえるだろう。
(とは言え、まだ確定とはいえない。状況証拠から見るにかなり高い可能性ではありますが……まあどちらにしろ、どのような方法による魔法消去かはまだ分かりませんしね)
探索術式を切り上げ、魔力痕跡を記録した追跡術式を発動させる。
久我山雪斗と羽々音詩織は、まだこの近辺に存在しているはずだ。
まずはその様子を観察し、可能ならば久我山の魔力特性を調べる。
そして、彼の抱えている事情に関しても――
(もしも本当に魔法消去を有しているのであれば、絶対に逃がしはしません)
仁はあまり干渉し過ぎないようにと言っていたが、灯藤家にとって人員の確保は必須だ。
もしも久我山が魔法消去を有しているのであれば、これを逃す手はない。
必ずや確保し、灯藤家に所属させなければならないだろう。
少なくとも、誰か他の勢力に確保されるわけには行かない。
「そのためにも、調査を成功させなくては」
小さく呟き、リリは再び探索術式を発動させる。
ただし、今度は過去の魔力を探るものではなく、特定の魔力のパターンに対して周辺索敵を行い、その魔力の持ち主の居場所を探るためのものだ。
似たような術式は現在でも存在しているが、リリのそれは精度も高く、さらに隠密性も高い。
まるでソナーのように広がった隠蔽済みのリリの魔法は、周囲数kmに渡って拡大し――その魔力の持ち主を見つけ出す。
(……いましたね)
あまり遠くへは移動していなかったことに気を良くしつつ、リリは反応の方向へと向かって歩き出す。
反応があった場所は、このエリアにある喫茶店だった。
その正確な位置を確認したリリは、少し早足で目的地へと移動を開始する。
見た目が子供であるため、歩幅がどうしても小さいのだ。
リリは久我山が再び移動しないようにと少し急いで喫茶店へと向かい、そのテラス席で、向き合って座る少年少女の姿を発見していた。
(おや……羽々音詩織も一緒でしたか)
大通りにある最近できたばかりの喫茶店、そのテラス席にて久我山の前に座っていたのは、先ほどの騒動に巻き込まれていた羽々音詩織であった。
どうやら、あの騒ぎのあと、二人は一緒にこの喫茶店に入っていたようだ。
彼女の母親の姿を思い出し、相変わらず似ても似つかぬ雰囲気だと胸中で呟いたリリは、一度路地裏に身を隠していた。
周囲に人目がないことを確認し、リリはその場から強く跳躍する。
まるで壁をバウンドするように何度も蹴り跳び、あっという間に建物の屋上へと到達したリリは、眼下の喫茶店の様子を確認しながら己の手を地面についていた。
その瞬間、肌色に擬態していたリリの手は黒く染まり、その一部が溶けるように形を変えて流れ出す。
それが向かう先は、無論眼下にあるテラスだ。
「――だから、別にいいってば」
「ダメだよ、私だってお礼したいんだから」
感覚器官を伸ばし、触手状にした体の先端から音を拾う。
狙った場所は正解だったらしく、その先からは確かに二人の声が聞こえてきていた。
どうやら、詩織が久我山に対して礼をしたいと言っているようであったが――
「いやいやいや、女の子に奢らせるとか、男としちゃカッコ悪いんだってば。いくらお礼だからって、流石にそれはね……割り勘にしよう、割り勘に」
「えー……でも、助けてもらったのに何もしないなんて、悪いよそんなの」
(……何とも不毛な押し問答ですね)
聞こえてきた会話に、リリは胸中でそう呟く。
禁獣であり、そもそも性別というものが存在しないリリには、性差による人間の心の機微というものは理解しがたい概念だ。
基本的に合理主義であるリリは、別に奢られても問題はないのでは、と胸中で呟きつつも、情報の収集を継続する。
「むしろ、僕が奢りたいぐらいなんだけどね……僕のほうこそ、君にはまだお礼をしてなかったし」
「お礼? 私、何かお礼言われるようなことしたっけ?」
「したじゃないか。君は、灯藤君をたきつけてくれただろう? 灯藤君からも、感謝するように言われてたよ?」
「ぅえっ!? と、灯藤君、教えちゃったの!? いや、私も口止めはしなかったけど……」
「まあ、そういうわけで……僕も君にお礼が言いたかったんだ。ありがとう、詩織ちゃん」
そういえばそうだった、とリリは久我山の言葉に対して小さく頷いていた。
仁の言葉をきちんと受け止め、感謝の言葉を口にした久我山に対し、リリは一段階評価を上げる。
当然のこととばかりに恩恵を享受するだけの人間は、仁の周りには相応しくないと考えていたのだ。
満足げに頷いているリリの存在など露ほども知らず、テラスにいる詩織は、照れた表情を隠すように視線を逸らしながら頬を掻いていた。
「あはは……ほら、何だか最近、ちょっと悩んでるみたいだったから。私じゃ力不足かもしれないけど、灯藤君なら何とかできるかも、って思って」
「ははっ、まあ、それでこそ詩織ちゃんかな。確かに、少し気は楽になったよ」
詩織は四大に助けを求めることの意味を知らなかったのだろう、とリリは納得する。
そして同時に、若干の疑念も抱いていた。
母親が特級魔導士、しかも『八咫烏』に所属している日本でも有数の魔法使いであるにもかかわらず、何故その娘はあれほど箱入りに育てられているのか。
魔法使いの世界に対する認識が幼すぎると、リリはそう感じていた。
――まるで、意図的に情報を封鎖されていたかのように。
(……まあ、今はそれはいいでしょう。別に、何か問題があったというわけではないですし)
軽く肩を竦め、リリは盗聴を続行する。
今注意すべきことは、久我山に関することだけだ。
果たして、今の久我山は、仁から差し伸べられた手についてどう考えているのか――リリは、それを確かめるべく傾注する。
「それじゃあ、解決しそうなの?」
「……いや、そうでもないかな。恐らく、灯藤君でもどうしようもない。これは、そういう問題だから」
その言葉に、リリは思わず眉根を寄せていた。
例え分家の末席とは言え、仁は四大の一族の分家当主。
そこらにいる学生などより、遥かに出来ることは多いはずだ。
それなのに、仁でも手の出しようがないと久我山は言う。
そうであるならば、尚更自分にはどうしようもないはずだというのに。
(自分でどうにかできる、とでも言うつもりですか? いいでしょう、その問題とやらを見極めてあげます)
自らの主を侮られたと感じ、リリは表情に出さないながらも憤る。
高々学生が思い上がっていい存在ではないのだということを、示してやろうと言わんばかりに。
「……大丈夫なの、久我山君? 灯藤君でもダメって……」
「ああ。まあ、何とかするさ。まだ大丈夫、平気だよ。こうして、君たちに気遣って貰える訳だからね」
そう告げて久我山は笑う。
その頭上で、一匹の使い魔が執念を燃やしているとは知らずに。
「まあ、そういうわけで、僕が今日君を助けたのは、この間助けて貰ったことのお礼ということで……今日のところは割り勘でね?」
「うーん、そう言うなら……」
「気が済まないって言うなら、お金の絡まないことにしてよ。友達付き合いってのは、その方が気楽でしょ?」
久我山たちは、伝票を持って席を立つ。
その後をつけ、リリは再び移動を開始していた。




