065:卒業試験
第4章 七彩の学友
静かに整息して緊張を吐き出し、私は凪いだ感情で目の前の相手と対峙する。
数メートル先、そこに私と全く同じ構えで立っているのは、他でもない母上だった。
母上もまた、特に感情を感じさせない表情でこちらを見つめ、いつも通りの隙のない姿勢で構えている。
それを前に、私はリリに対して静かに命じていた。
「リリ、行くぞ」
『了解、ご主人様』
その声と共に、服の下で待機していたリリが、私の全身を包み込むように広がる。
私の全身を包んだリリの表面に浮かび上がるのは、生物的なフォルムの装甲だ。
それは、私たちがこれまで倒し、そしてリリが食らってきた禁獣の甲殻などで形成された鎧。
非常に軽く、しかし金属よりも遥かに強力なその素材は、リリの魔法と加工によって更なる強靭さを獲得している。
全身に装甲を纏い、顔面にはマスクをつけた上から半透明のバイザーが装着される。
これこそが、私とリリがこの五年間で開発した戦闘形態。その名も――
「『黒百合』……完成したのね、仁ちゃん」
「ええ。これが私の、切り札の一つです」
禁獣との戦闘で幾度となく使ってきたが、母上にこれを披露するのは初めてだ。
むしろ隠してきたと言っても過言ではない。この日の――この卒業試験の、切り札の一つとするために。
体勢は一切崩すことなく黒百合を装着し、私は口を噤む。
目の前にいるのは、この十年間、私が教えを請い続けてきた人物。
母上の戦い方は、その間ずっと目にし続けてきた。そして、だからこそ分かる。今の私では、この人には絶対に勝てないと。
例え《王権》を使ったとしても、私は母上の本気すら引き出すことはできない。目指すべき頂は、未だ遠くにある。
しかし、それでも――
『――ただ一撃でいい。届かせるぞ』
『うんっ!』
『言われるまでもない、あるじよ』
ついに会話が可能になった二人の従者の言葉を聞きながら、私は《放身》を発動していた。
母上は《纏魔》を使わない。それどころか、《放身》すら使わないだろう。
私が全力で《放身》を使ったところで、ようやく母上の《装身》を上回れる程度の力しかないのだ。
そしてその上回った力も、隔絶した技量の差によって覆される。積み重ねた年月の違いと、生まれつき有していた才覚の違い。母上以上の密度で努力したとしても、今の私では覆しようのない差なのだ。
けれど――可能性は、ゼロではない。少なくとも、その領域までは己を押し上げた。
「リリ、喰らえ」
『てけり・り!』
《放身》によって噴出する、励起された灼銅の魔力。
その全てを、身に纏うリリが食らってゆく。そしてそれと同時、『黒百合』の表面には魔力と同色の複雑な紋様が浮かび上がっていた。
それを目にして、母上は僅かに目を見開く。
「刻印――!」
「ふッ!」
そして私は、その一瞬の動揺と同時に踏み込んでいた。
体勢を低く、母上の視線の下に潜り込むようにして拳を放つ。
踏み込みの足で地面を踏み砕いて揺らし、僅かに母上の体勢を崩すようにしながら放った拳は、しかし半身になった母上に躱される。
だが、その程度は想定の範疇だ。元より、簡単に攻撃が命中するとは考えていない。
「はああッ!」
躱した母上へと向けて右の肘を放つ。が、それはあっさりと母上の左手に受け止められ、そして押し返されていた。
僅かに体勢が後ろへと反れ――私は、その勢いに逆らわずに後方へと跳躍する。
この場に留まろうと体を戻そうとすれば、前に出ようとする力をカウンターとして利用したワンインチパンチを叩き込まれるだけだろう。
あの威力は、幾重にも張り巡らせた防御策を一撃で打ち砕かれて余りあるものだ。ここは勢いに逆らわず、後退する方がいい。
「――はッ!」
「【体躯よ】【羽の如く】」
が、母上もそう甘くはない。私が勢いに逆らわないと見るや、雷のごとく鋭い蹴りを私に叩き込んできていた。
反射的に私は両手をクロスしてガードし、その一撃を受け止め――そのまま、大きく後ろへと後退する。
元々後ろへと跳躍していた勢いに加え、腕をクッションのように引き寄せながら蹴りの威力を減衰させたのだ。
後方へと着地した私へ、母上は追撃は行わずに感心したように声を上げる。
「《退躯》もしっかりと使えるようになったようね」
「まだまだ、ですよ。『黒百合』でなければ、威力を殺しきれなかった」
《退躯》は、先ほど私が行った、後方へと移動しながら相手の攻撃を減衰させる技術のことだ。
相手の攻撃の勢いに逆らわず、その衝撃を全て逃がす技術。それなりに訓練は積んできたが、いまだに生身で母上の攻撃を受け流しきることはできない。
だが――体重減少の魔法と『黒百合』、刻まれた刻印術式、そして切り札を組み合わせれば、ダメージをほぼゼロに押さえ込むことは可能だった。
私が一切痛痒を覚えていない様子を見て、母上は楽しそうに笑う。その中に、確かな戦いへの高揚を交えながら。
「さあ、今度はこっちから行くわよ」
宣言し――母上は、駆ける。
目に追えない速さではない。だが、音もなく滑るように移動してくるその姿は、どこか現実感のないものにも思えた。
振り下ろされる手刀。本来ならば黒い魔力に包まれているであろうその一撃を横に回避すれば、追うように襲い掛かってくるのは横殴りの拳だった。
その一撃は右腕でガードするが、母上は腕を触れさせたまま強く踏み込む。
震脚と、それと共に叩きつけられる体当たり。衝撃を受けて後方へとたたらを踏めば、そこには槍のように鋭い左の掌打が迫っていた。
「ッ……!」
相手にペースを掴まれた途端にこれだ。恐れを抱いていれば、押し込まれる!
私は母上の一撃を両手で受け止め、その一瞬で手首を掴み取って半身を滑り込ませる。
右腕で母上の腕を引きながら、放つのは左の肘。カウンター気味に叩き込まれた一撃は、しかし母上の右手によって受け止められていた。
このまま止まれば膝が飛んでくる。私は左足を母上の脚の間に滑り込ませ、肘と腕を持ち上げるように母上の体を投げ飛ばしていた。
しかし、地面に付くよりも先に私の手を振り払った母上は、そのまま地面に手をついて、倒立の体勢のまま腕だけで全ての体重を支えつつ足を旋回、私へと蹴りを放っていた。
「無茶苦茶、な!」
投げるために振るっていた腕ではガードが間に合わない。
私は体勢を低く沈ませて母上の蹴りをやりすごす。その間に母上は腕の力だけで体を跳ね上げ、体勢を整えていた。
まさか、腕だけで完全に体を安定させられるとは思わなかった。相変わらず、どんな鍛え方をしているのか分からない人だ。
『無茶苦茶じゃのう……さすがはご母堂じゃて』
『褒めてても勝てない。これは卒業試験なんだから、勝たないと』
『ああ、そうだな。母上は不可能な課題など出さない。絶対に、やり遂げてみせるさ』
内心で苦笑しつつ、私はリリの言葉に同意する。
リリが言うように、これはこの山での修行における卒業試験だった。
ルールは単純。私が《王権》以外のあらゆる手段を用いて、母上に一撃与えればいいという内容だ。
母上は《纏魔》も《放身》も使わない。《装身》と一部の魔法のみで戦い――そしてそれでも、私を軽々と翻弄していた。
やはり強い。それも、途方もなくだ。けれど――勝機は、決して皆無ではない。
「はあああッ!」
速く、鋭く、けれど丁寧に。雑に攻めれば一瞬で覆される。
格闘の技術に関しては、全て母上から叩き込まれたものなのだ。どのような動きであれ、母上には通用しない。ただあっさりと対応されるだけだ。
一瞬でも母上の意表を突くには、母上の知らない手札が必要なのだ。
踏み込んだ私に、鉄槌の如き拳が打ち下ろされる。
直撃すれば、成す術無く地面に叩き伏せられるであろう、体重の乗った一撃。
それを受け流しながら横へと移動すれば、まるで反対側から挟み撃ちにするかのように蹴り足が伸びてくる。
反射的に肘で迎撃すれば、互いにその威力に弾かれて回転し、振るった手刀が金属音のような音を奏でて噛み合う。
そして、同時に腕を絡めるように弾き、拳の一撃――そう見せかけて、私は母上の拳の前に出るように踏み込んでいた。
「な……!?」
母上は僅かに目を見開く。だが、鍛え上げたその技は、動揺に反して体を動かしていく。
既に回避不能な位置。防御魔法の詠唱も間に合わない。そのような場所に踏み込んでくるなど、想像することもなかったのだろう。
そのような状況でさえ淀みなく攻撃してくる母上に戦慄しながら、私は口元に笑みを浮かべていた。
「《不破要塞》」
その宣言と共に、私の身を半透明の結界が包む。
母上の拳は、私の展開した結界へと突き刺さり――僅かな抵抗と共に、それを突破していた。
だが、母上の意識は例え一瞬であったとしても、私の作り上げた結界へと逸れている。
二重の意表。その意識の空白に潜り込むかのように、私はもう一歩踏み出して横を通り抜けるように母上の視線から外れていた。
そして、体を強く回転させながら放つ一撃――一瞬遅れて母上の視線がこちらを捉え、振るった肘が私の顔面に突きつけられる。
だが、それよりも僅かに速く――
「――私の勝ちです、母上」
――私の振るった拳は、母上の脇腹に突き刺さっていた。
大した痛痒は与えられていないだろう。岩をも砕く拳であろうと、母上の《装身》を打ち抜くほどの威力ではない。
だがそれでも、確かなクリーンヒット。この十年間で、私が初めて、母上に対して攻撃を当てた瞬間だった。
痛みを感じた様子もない母上は、自分の脇腹を見下ろして、そして大きく苦笑の混じった溜息を吐き出す。
「……ええ、貴方の勝ちよ、仁ちゃん」
その言葉に――私は思わず、体勢を崩してその場に尻餅を付いていた。
『黒百合』を解除し、リリを己の身から分離させて、大きく息を吐き出す。
漏れた吐息の中には、確かな歓喜と笑い声が混ざっていた。
「はっ、ははは……! ようやく、ここまで来れた!」
「ん、おめでとう、じん」
「おめでとうございます、仁君。お疲れ様でした」
その場に大の字に倒れた私へ、リリと先生から賞賛の言葉が送られる。
その言葉を、私は感慨深く受け取っていた。
そこそこに長く生きてきた自覚はあるが、それでもこれほどの達成感を覚えた経験は一度もない。
十年間の修行――その成果を、確かに感じ取ることができたのだ。
「十秘蹟第五位と第九位の連名で、仁君を特級魔導士として認定いたします。といっても、私たちの推挙を魔法院が受け入れるまでは正式なものではありませんが……」
「ま、私たちの言葉を無視できるような連中はいないから、安心していいわ。特に先生の言葉はね」
「やはり、影響力は強いんですね……ともあれ、ありがとうございます」
体を起こし、立ち上がって、私は深々と頭を下げる。
ここまで来れたのも、この場にいる私の師達のおかげだ。母上も、先生も、そしてリリや千狐も、私に沢山のことを教えてくれた。
一人でも欠けていれば、私はここまで辿り着くことはできなかっただろう。
「ともあれ、十年までに間に合わせることができたのは何よりです。これで、ようやく街に戻れますよ」
「あ……はい。けど、先生は――」
「安心してください。これがありますから」
そう言って先生が広げたのは、刻印術式の刻まれた敷物のようなものだった。
これは確か、先日リリが作っていた物のようだが――
「リリちゃんの持つ知識から作り上げた、転移術式の陣です。どこでも飛べるようなものではなく、対となる陣と双方向に転移できるだけですが……これで、いつでも会いに来れますよ」
「……そんな物まで作っていたとは」
「流石に、リリちゃんの知識が無ければ作れませんでしたけどね」
苦笑する先生の様子に、私は内心で安堵を零す。
私と母上がいなくなれば、先生は再びこの地で、ぐー師匠と二人きりの生活に戻ってしまう。
私程度が心配するなどおこがましいが、やはり気がかりではあったのだ。
「さて仁ちゃん、これからの予定だけど……明日にはここから出発して、火之崎の本家に戻るわ」
「結構、急ですね」
「ギリギリまで時間を使っちゃったからね。本家で宗孝さんに挨拶したら、学校への入学準備。学校近くの拠点に引っ越して、そのまま魔導士養成学校の高等部に入学ね。時期的に、あんまり余裕は無いわよ」
「……分かりました」
まあ、修行をギリギリまで引き伸ばしたのは私だ。
出発が慌しくなってしまうことへの文句は言えないだろう。
軽く肩を竦めた私に、母上は小さく笑いながら声を上げる。
「まあ、けど……今日ぐらいは、きっちりお祝いしましょう」
「ええ、そうですね。今日は、腕によりをかけて作るとしましょう」
先生の言葉に、リリが目を輝かせて顔を上げる。
比較的食いしん坊の気があるこの従者の様子に苦笑しながら、私は二人の言葉に大きく頷いていた。




