059:禁獣の巣
しばしの間地面の下を掘り進み、ある程度の距離を進んだところで脱出する。
時折リリが外の状況を調べていたおかげか、ほぼ狙い通りの場所に出ることができた。
切り立った崖に、大きく広がった穴。ここは、かつて母上と共に修行していた時に発見した洞窟だ。
と言っても、母上も知っていた場所らしく、ここには決して入ってはいけないと言われていた場所でもある。
『ご主人様。ここは、絶対に入っちゃいけないって言われてた場所じゃ……』
「確かに、その通りだ。だが、さすがに緊急事態だからな……利用できるものは利用しなくては」
『うぅ……』
自分が原因で追われているためか、あまり強くはいえないのだろう。苦々しい声と共に、リリは押し黙ってしまっていた。
そんな彼女の様子に苦笑しつつ、私は改めて眼前の洞窟へと視線を向ける。
ここは、一級の禁獣が住処としている場所――それも、この禁域では珍しく、『獲物を喰らう』一級禁獣が住み着いている場所だ。
当然ながらその力は絶大であり、しかもこの洞窟の中と言う相手のホームグラウンドでは、例え《王権》を使ったとしても私には勝ち目がないだろう。
そんな場所へ足を踏み入れることは、自殺行為以外の何物でもない。
だが――
「私ならば何とかなる。私と千狐ならな」
『まあ、確かにそうじゃろうがの……お主も大概博打打ちじゃの』
「ハイリスクハイリターンなら、勝負をする価値もあるというものだ」
千狐の言葉に肩を竦め、私は足を進める。
確かに、私ではここのの禁獣には勝てない。だが、別にこの禁獣に戦いを挑むわけではないのだ。
戦いを避け、この洞窟を通り抜ける。禁獣が通り抜けられるようになっているこの洞窟は、反対側にも入り口が存在しているのだ。
ある程度痺れも取れて魔力を扱えるようになっては来たが、それでも万全とは言いがたい。この洞窟を通り抜けて時間稼ぎを行い、万全の状態に調えた上で戦闘に入るべきだ。
「あの厳霊がここの禁獣に倒されるならよし、もし倒しきれないにしても、多少は力を消耗して貰えればいい――最悪、時間さえ稼げればな」
『まあ、その程度ならば何とかなるじゃろうて。じゃがあるじよ、油断するでないぞ。ここの禁獣は――』
「……ああ、分かっているとも。《掌握》」
千狐の言葉に頷きながら、私は《掌握》を発動させる。
対象とするのは、己の周囲の空間に対してだ。こうすることで、己の周囲に存在しているあらゆる物体の状態を把握することができる。
そうして私の感覚は拡張され――そこに引っかかったのは、この洞窟の中に張り巡らされている、無数の糸だった。
この洞窟の中に生息しているのは、蜘蛛の姿をした禁獣だ。母上はアトラク=ナクアの幼生と言っていたが、その姿は幼生とは名ばかりの、5メートルを超える巨大な蜘蛛の姿をしている。
そんな禁獣の糸が張り巡らされた洞窟の中。私は少しでも空気を揺らさぬよう、口を噤みながらゆっくりと進み始める。
『しかし、おっかない場所じゃのぅ』
『一級の禁獣の巣だぞ? そんなのは当たり前だ』
千狐の呟きにそう答えつつも、無駄に体を揺らすような動作はせず、周囲の状況把握に集中する。
相手は蜘蛛の禁獣。こうして罠を張り、捕らえた獲物を喰らう禁獣だ。
逆に言えば、糸に捕まっていないものは決して襲わない。一級の禁獣とは思えぬほどの慎重さだが、この場においてはそれが役に立ってくれるだろう。
暗い洞窟の中ではほぼ不可視といっていい蜘蛛の糸も、《掌握》を使っている私には丸見えだ。
元の図体が大きいためか、数多くの糸が張り巡らされていると言っても、その密度は決して高いわけではない。
私程度の体格ならば、隙間を縫うことも難しくはないのだ。だが――それでも、触れたら危険な糸が周囲に張り巡らされている状況は、強い緊張感となって私にのしかかる。
『……リリ。一応、私の体を覆うようにしておいて欲しい』
『糸に触ったら、一部を切り離して逃げる?』
『そういうことだ。やはり保険は欲しいからな』
私の力では、捕まってしまえば抜け出すことは出来ない。
慎重に動くつもりではあるのだが、やはり保険は欲しいところだ。
集中を途切れさせぬようにしながら糸を掻い潜り、慎重に洞窟を進んでいく。
だが、あまりゆっくりと進みすぎて、厳霊に追いつかれてしまうことも問題なのだ。
逸る気を抑えながら、少しでも足を止めぬように先へと進んでいく。
そのまましばし進み――私の感覚が、広大な空洞の存在を関知していた。
「……ッ!」
『あれは……流石に、危険じゃな』
脳裏に、千狐の硬い声が響く。そして私もまた、その存在を感知していた。
頭上に高く広がる空間。その空洞内に、幾重にも巣を張っている巨大な蜘蛛の禁獣。
体長は5メートル以上。例え虫を苦手としていなかったとしても、その様相はおぞましいとしか言えないだろう。
暗い洞窟の中に溶け込むかのような、黒檀色の体。その中で、煌々と輝く深紅の八眼。
そして、それほどの巨体を持ちながらも、一切の音を立てていないことが何よりも不気味であった。
『……あの蜘蛛の子。あの方がいるならば、この地にこれがいてもおかしくない、かな』
『リリ、どうかしたのか?』
『ううん、何でもない、です。ご主人様、アレは刺激しちゃダメ。噛まれたら一巻の終わり』
『毒でもあるのか?』
『私でも影響を受ける毒。毒が回りきる前に分離すれば何とかなるけれども、ご主人様じゃそうもいかないから』
どうやら、リリはあの蜘蛛の禁獣をよく知っているらしい。
となると、あれも遥か昔の時代から存在していたということなのだろうか。
まあ何にしろ、平地で正面から挑んでも勝てるかどうかわからないほどの相手なのだ。この相手のホームグラウンドでは、そもそも勝負にすらならないだろう。逃げるが勝ちだ。
『さっさと進もう。生きた心地がしない』
『全くじゃの』
私がこの場にいることには気づいているだろうが、あの禁獣は全くと言っていいほど動く気配を見せない。
罠にかかるのを待っているのだろう。その点に関しては非常に助かるが、あの紅い瞳で睥睨されては、流石に平静ではいられない。
生物としての格が違う――その事実をまざまざと見せ付けられているような気分だ。
こういった怪物を相手にできる母上の背中は、五年間修行を繰り返してなお、未だに見えていない。
私にもそれだけの力があれば……まあ、そうであれば、厳霊相手に逃げ出すこともなかったのかもしれないが。
『半ばは過ぎておるぞ。もう少しじゃ、あるじよ』
『ああ、気は抜かないように――』
胸中でそう呟いた、その刹那――背後で、鋭い雷の音が響き渡った。
穴に気づかれ、ここまで追いついてきたのか。瞬時に走ったその焦りによって、私は思わず、右手をびくりと震わせていた。
――瞬間、右手の袖口が、張り巡らされた蜘蛛の糸へと触れる。
「しま……ッ!」
『あるじよ、動くな!』
反射的に腕を強引に引っ張ろうとし――叫んだ千狐の声に、私は何とか動きを止めていた。
胴着の袖口は糸に張り付いてしまっている。強引に引っ張ったところで、これが外れることはないだろう。
むしろ、変に体勢を崩せば、他の部分が別の糸に触れてしまう。そうなれば、後は雁字搦めにされるだけだ。
頭上の蜘蛛は、今のほんの小さな接触すらも見逃さず、こちらへと接近してきている。
音もなく、滑るように、けれど確かにこちらの姿を捕捉しながら。
『リリ、頼む!』
『ん……!』
私の言葉を聞いたり理は、すぐさま体の一部を刃のように変形させ、張り付いた右手の袖口を切り離す。
拘束から脱し、糸から離れ――けれど、蜘蛛の禁獣は動きを止めない。
一度触れたものはもう見逃しはしないと、そういうつもりなのか。舌打ちし、けれど走ることはできず、私は可能な限りの速度でその場から進み始める。
だが、ここは相手のホームグラウンドだ。まるで速度を落とさずこちらに接近してくる蜘蛛に対し、私は遅々とした歩みでしか進むことができない。
「迎撃するしかないのか……ッ!」
『だめ、ご主人様! ここじゃあの禁獣には勝てない!』
リリの言葉は紛れもない事実だ。だが、このまま背中に攻撃されるぐらいならば、一撃を当てて相手を怯ませた方がまだ可能性はある。
多少体の痺れは収まってきているが、それでもまだ万全とは言いがたい。
《王権》も使うことはできないが、何とか一撃を当てなければ。
足を止め、体勢を整え、右手を構える。ただ一撃、相手を怯ませられればそれでいい。呼吸を整えて、インパクトの瞬間を想像し――それと同時、私が入ってきた方の洞窟の先で、劈くような怒声が響いていた。
『おのれ、何だこれはッ!? 忌々しい下等生物め、このようなふざけた真似をッ!』
その瞬間――蜘蛛は動きを止め、そして私に迫っていたのが冗談だったとでも言うかのように反転する。
そしてそのまま、私のことなどまるで気にもせずに、後方へ――恐らく、厳霊が糸に触れた場所へと向かっていく。
時折輝く雷光は、恐らく触れた糸を焼き払っているのだろう。並みの魔力では不可能だが、厳霊ほどの魔力の持ち主であれば、それも不可能ではないはずだ。
……厳霊が一方的に餌になることはないだろう。そうなってくれれば楽だったが、あまり期待しすぎるのもよろしくはない。
ともあれ――
「……助かった、か。生きた心地がしなかったな、今のは」
『いやはや……ともあれ、さっさと抜けるとしよう。あまり時間の余裕はないぞ』
「ああ、そうだな……」
浮かんだ冷や汗を拭い、私は再び洞窟の中を進み始める。
今のところ、厳霊がこちらに追いついてくる気配も、戦闘が勃発した気配もない。
厳霊は私のように糸の存在を感知できないのか、次々と引っかかっては焼き払っている様子だ。
巣を作っている蜘蛛からすれば堪った話ではないだろうが、今のところ攻撃を仕掛けた様子はない。
恐らく、キルゾーンに入ってくるその瞬間を待っているのだろう。
果たしてどちらが勝つか――と言ってはみるものの、恐らく勝つのは厳霊だろう。
何故なら、あの蜘蛛に霊体攻撃の能力があるようには思えないからだ。
母上が仕留め切れなかったあの厳霊は、かなり霊体に傾いた性質を持っている。霊体に対する攻撃の術を持たなくては、全くと言っていいほどダメージを与えられないのだ。
『何とか時間は稼げそうだし、勝負には出られそうだな』
『くはは、あれほどの緊張の後でもそれだけ言えるのだ、お主のやり方を見せて貰うとしよう』
千狐がそう告げるのとほぼ同時、後方で強く雷が閃く。
どうやら、厳霊と蜘蛛が戦闘を開始したらしい。
一級の禁獣同士の戦いだ、それに興味を惹かれないといえば嘘になってしまうだろう。
だが、生憎と今は観戦しているような余裕はない。すぐにでも、この洞窟を抜けなければならないのだ。
『ぐっ……おのれ、これは貴様の巣か! 邪魔をしおって……消し炭になるがいい!』
『シャアアアアアアアッ!』
声を聞く限りでは、やはり蜘蛛の攻撃が効いている気配はない。
まあ、全く痛みがないという訳でも無さそうだが、やはり決定打にはなりえないのだろう。
厄介なことこの上ない性質だ。せめて、しばしそこで蜘蛛と戯れていて欲しいところである。
『……今のうちに、とっとと行くとしよう』
『……うむ。アレは危険すぎる。巻き込まれたら死ぬぞ』
雷と糸と毒液が飛び交う戦場からはさっさと離脱し、出口である通路へと進んでいく。
稼げる時間は果たしてどの程度のものか。頭の中で計算しつつも、私は先に見え始めた光へと向けて慎重に足を進めていったのだった。




