058:絶体絶命
状況は、絶望的であるとすら言えるだろう。
目の前にいるのは雷の亜精霊、厳霊。その力は一級の禁獣に恥じぬものであり、相性の差があったとは言え、母上が仕留め損なった相手である。
対し、こちらは先ほどの一撃により、殆ど魔法が使えない状態だ。《王権》を使えるならばともかく、この状況では逃げることすら難しい。
しかも、相手は外の禁獣。この禁域の一級禁獣のように、こちらを攻撃してこないという訳ではない。
断言しよう。現状では、私に勝利の目など何一つ無い。
『手間をかけさせてくれたものだ、奉仕種族め……あの人間がいない時を、どれほど待ち続けたことか』
「……母上がいないタイミングを狙ったのか」
苦々しく呟くが、厳霊は私の言葉には反応を見せない。
どうやら、私を歯牙にかける必要もない存在であると認識しているようだ。
厳霊の目が行っているのは私の胴体――つまり、私が身に纏っているリリである。
この禁獣は、私の存在があろうとなかろうと、大差ないと考えているのだろう。まあ、これほどの禁獣が相手では、それも否定は出来ないだろうが――私は、まだ諦めてはいない。
『今度こそ、貴様を喰らい、その力を我が物としてくれる』
厳霊が、腕を持ち上げる。
《掌握》すらも使えないが、高まる魔力の量は肌で感じ取ることが出来た。
だが――動作の『起こり』さえ見えているならば、対処は不可能ではない。
「――ふッ!」
雷光が閃くその瞬間、私は横へと向けて跳躍する。
発生してから回避することは不可能だ。雷の飛ぶ速度は、例え《装身》を使っていたとしても、私の練度では対応しきれるものではない。
だが、動作の始まりが見えているのであれば、発生する前に回避してしまえばいいだけの話だ。
いわば、先の先を読む技法。母上が私に教え込んでいるのは、そういった『不意を突く為の技術』なのだ。
私が一瞬前までいた場所を貫く雷光。だが、私はその場から5メートルほど離れた場所に着地し、警戒の体勢を続ける。
厳霊は、そこでようやく、私に対して視線を向けていた。
『下等生物が……貴様は、我の邪魔をしようというつもりか』
「お前が狙っているショゴスは、私の使い魔なのでな。生憎と、お前には渡せんよ」
『使い魔だと? 貴様のような雑魚が、その奉仕種族を従えているとでも?』
「その通りだ。一級の禁獣と言う割には、視野が狭いな。その程度のことにすら気づけないとは」
『ご主人様っ!? そんな、挑発なんかしちゃ……!』
リリが泡を食ったように叫ぶが、生憎と聞いている余裕はない。
厳霊は再び腕を動かし、私へと向ける。一度発射のタイミングは見たのだ、ならば、後は先ほどと同じことである。
雷が放たれる、その本の一瞬前に地を蹴り、その攻撃圏を離脱する。幸い、厳霊の攻撃は直線にしか飛ばないもののようだ。
だが、このまま攻撃を回避しているばかりでも埒が明かない。現状の手札で厳霊を倒しきれない以上、この場から何とかして離脱しなければならないわけだが――相手は、雷の亜精霊。その速度は雷そのもの。走って逃げても追いつかれるのが関の山だ。
『図に乗るなよ、下等生物が。貴様如き、我の前では塵にも満たぬ存在だ』
「その塵以下の生物とやらを、先ほどから仕留め損なっているのは、一体どこの上等な生物なのかな?」
必要なのは、この場から逃れる算段だ。
この雷の亜精霊は、私のことを完全に侮っている。だが、こちらに意識を向けられていない状況では、罠に嵌めることも難しい。
だから、まずは挑発する。意識さえされていれば、出し抜く方法はいくらでもあるのだ。
そして――その方法も、既に準備は完了している。
『……リリ。合図と共に、私の体表に防御魔法を展開。奴には気づかれぬようにだ』
『で、でも……』
『作戦があるんだ、頼む』
『……うん、ご主人様』
私の言葉に素直に頷いてくれたリリに、小さく笑みを浮かべる。
その笑みが、厳霊には挑発に見えたのだろうか。先ほどまで冷淡な視線を向けてきていた厳霊が、その表情の中に怒りと苛立ちを交えて叫ぶ。
『図に乗るなと――言った筈だ!』
厳霊が腕を掲げる。発生するのは、先ほどよりも強い雷の輝き。
それに対し、私は回避行動を取って――けれど、意図して先ほどよりもタイミングを遅らせて回避する。
そしてそれと同時に、私はリリに対して指示を飛ばしていた。
『リリ、今だ!』
『――!』
発生するリリの防御魔法。眩い雷の閃光に隠すように展開されたそれは私の体表を覆いつくし――そして、避け損ねた雷が直撃していた。
リリが展開した防御魔法とは言え、厳霊の力を完全に防ぎきれるわけではない。
僅かな熱と、体を硬直させる痺れ、そして衝撃――それらを受け止め、私は後方へと大きく弾き飛ばされる。
――木々の合間を縫った向こう側にある、崖の下へと。
『……お主、無茶をするのぅ』
「こうでもしなければ、中々逃げられないからな……リリ、私の体を覆って着地の衝撃を吸収」
『う、うん』
私の言葉に、リリは困惑した様子ながらも了承する。流石に、このような方法で逃げるとは考えていなかったのだろう。
だが、まだ完全に逃げられたというわけではない。そもそも、基礎的な速度が圧倒的に違うのだ。追いかけられれば、あっという間に捕まってしまうことは目に見えている。
だからこそ、まずは姿を隠さなければならない。どのような行動に出るにしても、体勢を整える時間が必要だ。
「リリ、体を一部切り離して、ドーム状に展開。着地地点を隠すんだ。その後、私を内部に入れたまま穴を掘って地面の下に潜れ」
『……よくそんなことを思いつくね、ご主人様』
「生き残るのに必死だからな」
やれるだけのことはやらなければならない。
次の行動を、どのように取るにしても、だ。
とりあえず、差しあたっては厳霊の視界から逃れ、その上で距離を取らなければならない。
私の指示したとおり、リリは体の一部を切り離して大きくドーム状に展開し、周囲の景色を覆い隠す。
外から見れば、突然巨大なショゴスが現れたようにも見えるだろう。
リリには分体を介して防御魔法を発動してもらいながら、本体で私の体を包みつつ、穴を掘って地面の下へと潜り始める。
酸素が不安ではあるものの、体内に異次元空間を展開しているリリだ。そこに保管してある空気を使って呼吸すればよい話である。
「リリ、厳霊の様子はどうだ?」
『分体を攻撃してる。あんまり長くは持たないかも』
「まあ、いつまでも時間を稼げるとは期待していないさ。とりあえず距離を取りつつ、この後の方針を決めなければ」
移動はリリに任せて、距離を稼ぎながら私は黙考する。
体の痺れは、時間経過と共に少しずつではあるが治ってきている。だが、それでももうしばし時間がかかるだろう。
案としては、痺れが治まるのを待ち、《王権》を使って全速力で結界内まで離脱するのが一つ。
そしてもう一つは――
『あるじよ、やるつもりか?』
「……禍根は、ここで断っておくべきだろう。母上や先生に任せれば、確かにそれで終わるかもしれない。だが――家族を護れるチャンスなんだ、私自身の手でな」
それは、かつての私には出来なかったことだ。
私の悲願であり、私の望む姿であり――私が、やらなければならないことだ。
私は……私自身の手で、リリを護りたい。だが、当の彼女は、この状況に
『ご主人様、じん、無茶をするのはダメ……待っていれば、きっと助けが来る!』
「いや、それは難しいだろうな。先ほどから、奴の攻撃を受けているが……雷の音は一度もしなかった。分かるだろう、リリ。奴は、母上を警戒している。母上が介入する前に、勝負を決めるつもりなんだ」
奴は傲慢ではあるが、馬鹿ではない。
母上が介入した時点で、今度こそ逃げられないことは理解しているだろう。
確かに、そこまで待てば私の勝利となるかもしれないが、それまで耐えられるとは到底思えない。
それに――
「今の私では、《王権》を使っても雷の速度に耐え切れるかが微妙なところだからな。《刻守之理》はそれ以上の速度も出せるだろうが、私の体が耐えられない可能性が高い」
《刻守之理》には、恐らく速度の制限というものは存在していない。
事実上、私が耐えられるところまでがその限界であると言えるだろう。
《装身》を使えるようになり、その上限はかなり上がったと見てもいいだろうが、それでも限界はある。
実際に測ったことがあるわけではないため、どの程度までいけるのかは分からないが、希望的観測をするべきではないだろう。
「……そうだな。不意打ちで、最速の一撃を叩き込む。当たりさえすれば、それで蹴りが付く。外れたら、そのまま全速で離脱する。これでどうだ?」
『……じん。でも、それなら、私が……!』
「リリ、その先は言うな。これは契約においての命令だ」
リリは、自分が犠牲になればいいと言うのだろう。
確かに、そうすれば私は見逃されるかもしれない。奴の望みはリリを喰らい、その力を吸収することだ。その目的に、私の存在はそれほど影響しない。
だが、そんなことは認められるはずがない。下策も下策――否、策にすら入らない愚行だ。
「言っただろう、リリ。私は家族を護りたい。私にとって、お前は護るべき家族だ。お前を見捨てるぐらいなら、私は己の命を捨てたほうがマシだ」
『じん……』
「私は、絶対に諦めない。例え、お前が戦えば勝てるかもしれなかったとしても――お前を見捨てるような行為など、私は絶対に認めない」
それだけは、決して認めるわけにはいかない。
それを認めてしまえば、私がこの世界に生まれ変わった意味すらも失ってしまうのだから。
戦うか、逃げるか。選択はその二つだけだ。
「いいか、リリ。肝に銘じておけ。私の命ある限り、私は絶対に、お前のことを見捨てることは無い。お前は……私の、大切な家族なんだ」
『……じん』
「一緒に戦おう。私が心配だというのなら、お前が私を護って欲しい。お前がいてくれるならば、何も心配なんて要らないだろうからな」
『……私のご主人様は、本当に変な人だね』
どこか苦笑したような様子で、リリはそう呟く。
これまでに、何度も言われているような言葉だ。私も苦笑しつつ、肩を竦めて返していた。
「決まったなら、後は取る手段の算段だ。私たちが地下に逃れたことも遠からず気づかれるだろうし、もう少し時間を稼ぐ必要がある」
『でも、どうするの?』
「手はあるさ。リリ、自分達の現在地はある程度分かっているか?」
『うん、それはわかるよ』
「なら、このまま北の方角……以前見つけたあの洞窟まで行ってくれ」
『……じん、もしかして』
どこか、呆れたような様子の篭るリリの言葉。
それに対し、私はただ不敵な笑みを浮かべていた。
私だけであの厳霊を追い詰めることは難しい。一級の禁獣は、例え《王権》を使ったとしても勝てるかどうか分からないほどの難敵なのだ。
私だけで勝つことは難しい――ならば、他から戦力を引き寄せてしまえばいい話である。
私はリリたちに作戦を伝えつつ、目的地へと向かって移動して行ったのだった。




