055:結界の外へ
施術を受けた日の翌日、私は早速、リリと共に結界の外へと足を運んでいた。
これまでの五年間の修行で、母上と共に結界の外へと出てきたことは幾度かある。
母上が見守る中で弱めの禁獣と戦ったことはあるし、狩りの手伝いをしたこともあった。
まあ、普段食べていた肉が禁獣のものだったという点は少々驚きであったが――ともあれ、こうして母上無しに結界の外に出るのは、これが初めてだ。
「多少は慣れた場所ではあるが……流石に、一人で出るのは緊張するな」
『ご主人様、私も一緒』
「おっと……そうだったな。済まない、リリ」
魂に刻まれている使い魔契約の術式を介した念話に、私は苦笑しながらそう返す。
現在、リリは胴着の下で肌着となって、防具の代わりのような状態となっていた。
傍目から見るだけでは、黒いタンクトップ程度にしか見えないだろう。
よく見ると妙に光沢があるのだが、それでもこれがショゴスであるなどとは誰も考えないはずだ。
この形態のリリは、私を名前ではなくご主人様と呼ぶ。まあ、この状態ならば人目につくこともないし、その点については妥協していた。
『気をつけて、ご主人様。強い禁獣が多い』
「身に染み付いて理解しているさ。お前の体積を増やす為に頑張ったからな」
『うん……感謝してます』
五年前に出会ったとき、酷く消耗し、見た目通りの体積しか残っていなかったリリ。
しかしこの五年間で、母上や私は、狩りで仕留めた獲物の残った部位などを与え、リリの力の回復に努めていたのだ。
中々に悪食であるリリは、例え禁獣だろうが何だろうが、ものともせずにその粘液の体で飲み込んでしまう。
五年間で食らい続けて来た獲物の数は数知れず。そしてそれらを取り込むことによって、リリの体積は既にかなりの量まで回復してきているのである。
無論、体積が増えることによって重さも増えているのだが、どうやら母上から教わった重量制御の魔法を体内で刻印術式にしているらしく、普段は見た目通りの重さしか有していない。
時々重さを増やしてもらえば、それだけでトレーニングになるため、中々便利ではある。
また、リリは己の体内に、特殊な空間魔法を展開しているらしい。
有り体に言えば、いわゆる四次元空間と言うやつだろう。リリの体内には、無限に広がる特殊な空間が形成されているのだ。
リリはそこに、これまで倒してきた禁獣の素材などを溜め込んでいるらしい。己の体に変換するのは禁獣の肉だけなのだから、その他の角やら爪やら甲殻やらはそのまま保管しているのだ。
尤も、今のところそれらの素材の使いどころは特にないのだが。
ちなみに、この空間魔法の術式は、私たちも一応教えてもらってはいる。いるのだが――私はおろか、母上や先生にすら理解できないほどの高度な術式だった。
リリの生まれた時代は、果たしてどれほど高度な魔法に溢れていた時代だったのか……今では想像することしかできないだろう。
「さて……それじゃあ、行くとするか。今日も頼むぞ、リリ」
『任せてね、ご主人様』
周囲への警戒を怠らぬまま、私は山の中へと歩き出す。
結界の外と言えど、同じ山の中だ。正直なところ、概観があまり変わった様子はない。
それもこれも、あまり禁獣が積極的に動いていないためだろう。
《鎮守の聖域》は確かに禁獣たちが大人しく、襲われるようなことは滅多にない。
これまで母上と共に結界の外に出かけてきた中でも、禁獣の方から襲ってきたことはそれほどなかった。
この禁域において危険度の高い――即ち一級の禁獣は、基本的に寝て過ごしてばかりいるのだ。
特に動かずとも生命維持に必要な分の栄養を取ることができるらしく、その巨大な魔力も強靭な肉体も宝の持ち腐れになっているようだ。
だが、そういった能力を持たない、二級以下の禁獣となると話は別だ。
一級の禁獣から襲われるわけではないため、二級の禁獣も存在はしている。だが、彼らは存在しているだけで生命維持をできるわけではなく、何かしらの獲物を喰らって生きる必要があるのだ。
この禁域において、禁獣の側から襲ってくるような存在があるとすれば、そういった禁獣のみになるだろう。
「……一級の禁獣がもっと積極的に動き回る性質だったら、二級以下の禁獣は駆逐されていたのだろうがな」
森の中を歩き回りながら、私はそう一人ごちる。
二級以下の禁獣は、生命維持のために獲物を取っていかなければならない。
けれど、例えほぼ活動していないと言っても、一級の禁獣に手を出してしまえばあっという間に叩き潰されるのがオチだ。
必然的に、生存競争の相手は己と同じ二級以下の禁獣となってくる。
『しかし、一級が相手ではないとは言え、二級もかなり強い禁獣なのじゃがな。それを十歳に宛がうとは、中々に厳しい方針じゃの』
「今更だろう。母上が弱らせていたとは言え、一級の禁獣と殴り合ったこともあるのだから」
あれは流石に厳しかった。死ぬわけにもいかないからと《王権》を使ったが、そうでもなければ相手にすることは出来なかっただろう。
それに比べれば、二級の禁獣はまだまだどうとでもなる相手だ。
戦い比べてみれば、その力の差は歴然なのだから。
――とはいえ、相手は禁獣。人間を遥かに超える力を持った存在だ。決して油断は出来ないだろう。
そう胸中で呟き、私は意識を集中させる。この森の中は禁獣たちの領域だ。地の利は相手にあると考えた方がいい。だからこそ、いかなる動きも察知し、そして先制させないようにしなければならないのだ。
《装身》によって、私の感覚機能は強化されている。視覚、聴覚、嗅覚――そして、得た情報から総合的に判断することで導かれている第六感。
――それらの感覚が、この森の中で動き回るものの気配を確かに感じ取っていた。
「っ……!」
それを察知した瞬間、私は太めの樹を駆け上り、しっかりとした枝の上に立って周囲の警戒へと入っていた。
重要なのは不意を討たれないようにすることだ。格上が相手の場合、戦いの主導権は、最低でも五分五分の状態から始めなければならない。
相手に主導権を握られた状態では、とてもではないが逆転は難しいだろう。
無論、いつでもそう上手く行くわけではないのが戦いと言うものなのだが、不利な状況は可能な限り避けなければならないことに変わりはない。
枝の上で、私は静かに息を潜める。
魔力に関しては、《装身》を使っているだけ現状ならば気づかれることはないだろう。
流石に、母上のように完璧に気配を消せるわけではないし、そもそも匂いを辿られればそれまでであるため、相手に気づかれないと言うわけではないのだが。
だが、少なくとも先手は取れる。
私は可能な限り気配を殺して待ち構え――そして眼下に、捉えた気配の主が姿を現した。
「ググルルォ……!」
――やたらと長く繊維が細い茶色の体毛、そしてその上からでも分かるほどの発達した筋肉。
毛で覆われているために分かりづらいが、その立ち振る舞いは紛れもなく猛獣のそれだ。
狼とも虎とも取れぬ出で立ちではあるが、少なくともあれが普通の獣であるということは有り得ないだろう。
何故なら、立った姿がまず母上の身長と同じぐらいの高さがあるからだ。巨大な相手はそれだけ脅威のある存在だ、注意せねばならないだろう。
そして、何よりも目を引くのが、足が六本あるという点だろう。黒く巨大な鉤爪の付いた足が、確かに六本。通常の動物では有り得ぬ姿だ。
『……リリ、あの禁獣を知っているか?』
『ううん、知らない。似ている姿の禁獣は知っているけど、それはもっと寒い雪山に生息していて、体も二周りぐらい大きいし、特殊な魔法を使ってくる』
『成程……退化した亜種、といったところか』
こちらに襲い掛かってきたということは、あれは二級の禁獣だろう。
だとすれば、その本来の禁獣は恐らく一級……退化したとはいえ、それだけの力を持った相手に油断はできない。
下手をすれば、死ぬのはこちらになるだろう。
『リリ、頼む』
『うん、これをどうぞ』
胸に手を当てて囁けば、私の手の中に小さな感触が生まれる。
リリが己の体内から取り出したそれは、何の変哲も無いただの小石だ。
湖の畔で拾った普通の石であるが、《装身》で強化した身で投げつければ、かなりの威力を発揮できる。
母上の場合は、手首だけで軽く投げつけたものが対物ライフルのような威力を発揮するのだ。人間相手であれば、これも十分な武器になるだろう。
だが、相手は禁獣。この程度の小細工など通用すまい。これはただの、相手の注意を逸らすための小道具に過ぎないのだ。
握った小石を、私は母上と同じように手首だけで投げつける。狙う先は、あの禁獣を通り越した茂みの向こう側。
投げ放たれた小石は、その向かった先で小さな物音を立て――その瞬間、私は禁獣へと向けて跳躍していた。
狙う先は、小石に気を取られて背中を向けた禁獣の背中だ。
「グ――ガアアッ!?」
私が飛び降りながら放った蹴りは、禁獣の背中に突き刺さり――その威力によって、禁獣は強く地面に叩きつけられる。
殺しきれなかった威力によってバウンドした禁獣は、そのまま先にある茂みの中へと飛び込んでしまっていた。
だが……狙ったほどの成果ではない。今の一撃で、私は相手の背骨を砕くつもりだったのだ。
しかし結果は、痛撃こそ与えられたものの、致命傷には程遠い威力でしかない。
蹴った感触は、確かに肉を打ったものだったが……奴の体は、通常の生物には有り得ぬほどに強靭であるらしい。
「魔力を使って肉体を強化している……魔法を扱う能力が退化した変わりに、そちらの能力が進化したのか」
呟き、私は舌打ちする。
恐らくあれは、《装身》と同じような身体強化の技法だろう。
その完成度は今のところ読み取れないが、少なくとも私の攻撃を受け止めきれる程度には強化されているらしい。
事実、弾き飛ばされて茂みの木々を薙ぎ倒した禁獣は、何事も無かったかのように起き上がり、こちらへと向けて牙を剥いていたのだから。
「グルルルルル……!」
「そう簡単にはいかないか……まあいい」
呟いて、《装身》へと回す魔力の量を増やす。
無論、プールしてある魔力が減ることになるため、ほかの魔法が使いづらくなる諸刃の剣だ。
それでも何とか《王権》を使えるだけの魔力は残しながら、私は意識を精鋭化させる。
私が本格的な戦闘大勢に入ったことに気づいたのだろう、相手もまた、姿勢を低く、いつでも飛びかかれるように構える。
そして――動き始めたのは、ほぼ同時だった。
「ふッ!」
「ガアアアアッ!」
短い距離を刹那の間に詰め、そして激突する。
禁獣が繰り出してくるのは、その六本の足の内の四本を使った攻撃だ。
まるで丸太のように太い足。黒く鋭い鉤爪の付いた足から放たれる攻撃は、周りにある木々を物ともせずに薙ぎ倒しながら私へと迫る。
対し、私は相手の攻撃を、とにかく注意深く観察していた。
横薙ぎに振るわれた腕に対し、私は更に加速して懐へと飛び込む。だがそこで攻撃を加えることはせず、跳躍して禁獣の顔を蹴り、相手の背後へと回っていた。
私が一瞬前までいた場所へは、前足が鉄槌のごとく振り下ろされ、冗談のように深いクレーターを作り上げる。
いくら《装身》で強化していようと、あの直撃を受ければひとたまりも無いだろう。
その様子を観察しつつ、私は一旦距離を取る。先ほど相手と同時に動いたのは、完全に相手のペースを作らせないようにする為だ。
相手の手の内を晒させ、それでいてこちらが優位に立てる状況を作り上げる。中々に難しいが、格上相手には常に意識せねばならないことだ。
(まあ――この五年間、私より弱い相手と戦ったことなど一度もないのだがな)
改めて己の教育方針に苦笑しながら、私はひたすら相手を観察する。
振り向き様に放たれた横薙ぎの一撃は距離をとって回避し、薙ぎ倒された木々を障害物としながら駆け回る。
腕の数のおかげで、相手の手数は多い。その膂力から放たれる一撃は、恐らく一撃必殺と言えるレベルの威力があるだろう。
母上ならばともかく、私では何の用意も無しに受け止められるものではない。
ならば――
「ヒットアンドアウェイの戦法だ。リリ、周囲警戒は任せるぞ」
『了解だよ、ご主人様』
――私はそう方針を定め、攻勢へと転じていた。




