053:ショゴスとの契約
「ふぅ……とりあえず、これでいいでしょう」
筆ペンでびっしりと書き込まれた和紙を手に、先生が満足げな笑みを浮かべている。
重箱の隅を突くような項目が並んでいるのだが、先生としてはここまでやらねばならないと考えているようだ。
正直なところ、ここまでやる必要は無いのではないか、と考えていたが――当の本人であるショゴスも満足げな様子で頷いている。
どうやら、この条件は納得できるものであったようだ。
果たして、かつての彼女はどんな条件で使役されていたと言うのだろうか。
「さて、すっかり午後になってしまいましたが。今日の午後の演習は、使い魔との契約の実践にしましょうか。いいですかね、朱莉ちゃん?」
「はい、大丈夫ですよ。その子との契約も、早めにやっておくに越したことは無いでしょうから」
「母上がよろしいのなら……けど、契約とは実際には何をするんですか?」
結構簡単に契約を交わせるとは聞いたことがあるが、具体的に何をするのかは知らない。
実践というからには、恐らくただ契約書を交わすだけというわけではないのだろう。
何かしら、手順を踏む必要があるはずだ。
イメージを働かせる私の言葉に対し、先生は軽く笑みを浮かべながら立ち上がる。
「それは、やりながら説明するとしましょう。付いて来てください」
どうやら、今すぐにできることらしい。先生と母上に続き、私は屋敷の外へと足を踏み出す。眩しい日差しが降り注ぐ中、先生が向かったのは、私と母上が普段訓練をしている広場だった。
母上によって踏み固められ、雑草も生えなくなっている平らな地面。その周囲をぐるりと見渡し、先生は頷く。
どうやら、ここで契約とやらを行うようだ。
「さて、使い魔との契約ですが……現代で一般的に行われているものは、かなり簡略化された術式によるものです」
「昔はもっと複雑だったのですか?」
「そうですね。昔は今よりももっと神秘が身近な時代でしたから、それだけ契約も複雑化させる必要があったんですよ。禁獣との契約も、昔はそれほど珍しいものでもありませんでしたから」
つまるところ、危険な生物との契約には、複雑化させた契約術式が必要だったと言うことなのだろう。
これまでの経緯を考えれば、ある程度は想像できる。その複雑化とは即ち、先ほど取り決めていた契約の条件を指しているのだろう。
条件を細かく取り決めようとするほど、契約の術式は複雑化する。だが、普通の動物相手に行うような現代の使い魔契約は、そこまで複雑な条件を必要としていないのだ。
結果として、現代では術式が単純化しているのだろう。
「さて、古い契約の術式ですが……これは主に、展開式か刻印式で行います。詠唱するには複雑すぎますから」
「ここに術式を描くんですか?」
「ええ、その通りです。ああ、後で消しますから、気にしなくても大丈夫ですよ」
魔力を空間に展開し、魔法陣を描くことで複雑な術式を構築する展開式。
物理的に魔法陣を描き、直接術式を刻み込む刻印式。
これらは、あらかじめ準備を行うことで、複雑な術式を発動しやすくするための術式構築法だ。
使い魔の契約とは、どうやら魔法を介して行うものらしい。
「実際に組んでもらいましょう、と言いたいところですが……これを教え始めたらそれだけで一ヶ月ぐらい掛かりそうですから、今回は私が描きます。見ていてくださいね?」
「ええと、いいんですか?」
「流石にそこまで時間はかけていられないからねぇ。特訓計画が狂っちゃうもの」
母上の言葉に、私は曖昧に頷く。
少々場当たり的に訓練をしていたような気もするのだが、一応計画はあったのか。
少々楽をしすぎているような気がしないでもないが、私としても特訓が滞るのは避けたいところだ。素直に様子を観察するとしよう。
広場の中央に立った先生は、その魔力を励起させ、周囲へと広げていく。
オーラとなって立ち上っているのは、先生の瞳と同じ黄金色の魔力。
魔力の色は人それぞれだが、かなり属性に左右される部分が大きい。先生の場合は、治癒魔法に特化した魔力と言うことなのだろうか。
先生が展開した魔力は、そのまま大きく、円を描くように広がり始める。
どうやら魔法陣を描いているようだが、太陽の光の下では紋様は分かりづらい。やけに空白のスペースが大きいのは気になるが――そう考えた瞬間、先生が頭上に展開していた魔法陣は、ゆっくりと降下して先生の足元まで移動していた。
そして次の瞬間――魔法陣が、強く発光する。
「っ、これは……!?」
その香料に思わず目を覆い、一瞬の後に再び先生の姿を視界に納める。
そして、そこに広がっていた光景に、私は思わず目を剥いていた。
先生の足元に、先ほどの魔法陣が黒く紋様となって描かれていたのだ。
「これが、使い魔契約の基底術式。正確に言うと、この中央部分だけですけどね」
中央に立っていた先生は、少しだけ移動して足元にあった術式を示す。
いくつかの円と紋様が組み合わされた図形。決して複雑なものではないが、手で描こうとすれば時間がかかるだろう。
じっと観察すれば、それが術式であることは容易に理解できる。これが、どうやら使い魔契約の核となる部分のようだ。
だが、それを囲む円はやたらと広く、空白部分が多い。これほどのスペースは、一体何のために確保しているのか。
まあ、ある程度は予想ができるのだが。
「これに、先ほど決めた条件を書き加えていきます」
そう告げて、先生は先ほどと同じように、魔力で魔法陣を描いていく。
本来、空間に投射しただけの魔法陣ならば展開式に相当する構築法になるのだろう。
だが、先生はそれを地面に焼き付けることによって、強引に刻印式へと変換してしまっている。
展開式は、その魔力の持ち主にしか扱えない術式になるが、刻印式は魔力さえ流せば誰でも扱える代物になる。
無論、魔力を流し込む口がどこであるかを把握しなければならないため、術式を読めない人間には使いようが無いだろうが。
先生は、続けて魔力を展開していく。
先ほどの小さな魔法陣の周囲を埋めるように、ドーナツ状の術式をいくつも生み出しながら地面に刻んでいったのだ。
先生が言うように、これが先ほどの条件なのだろう。
契約における制約を、術式の中に組み込んでいっているのだ。こうすることで、制約に強制力を持たせているのだろう。
そして多数の条件を刻み終わり――
「さあ、これで準備は完了です。どうぞ仁君、そしてショゴスも」
「……はい」
先生の言葉に私とショゴスは頷き、前へと出る。
地面に刻み込まれた魔法陣は、私たちが踏んだ程度では消えることも無く、黒い紋様を保ち続けていた。
私とショゴスは先生に促されるままその中央へと足を運び、そして向かい合うように立つ。
「これから、仁君には契約を交わして貰います。今、足元には丸いマークがありますね?」
「はい、この黒く塗り潰されているマークですよね?」
「そうです。そこが、この魔法陣の魔力注入口となっています。これから、仁君は己の魔力を流し込み、この魔法陣を起動するんです」
言われ、私は足元の黒い紋様を見つめる。
見た目はただの黒い円だ。だが、《掌握》を通して確認すれば、確かにここがこの術式の基点となっていることが理解できる。
ここに魔力を注ぎ込めば、この魔法陣の全てが起動することとなるだろう。
「仁君は、魔法陣を起動すると共に、そのショゴスに名を与えてください。そうすることで、この契約は成立します」
「名前、ですか」
「はい。名前は大切ですよ。それに、仁君は彼女の名前については元々考えていたんでしょう?」
「……先生、余り見透かすのは止めてください」
驚いたように私を見つめるショゴスの視線から、私は思わず目を逸らす。
実際のところ、彼女の名前については考えていたのだ。
何しろ、私たちは今のところ、彼女のことを種族名でしか呼んでいない。
これから私の使い魔となるのであれば、やはり固有の名前は必要になるだろう。
もしかしたら元々名前があるのかもしれないと思い、名乗るのを待っていたのだが――かつて彼女を支配していた者たちは、恐らく名前を与えるようなことはしなかったのだろう。
話に聞く限りでは、とてもではないが個人として扱っていたようには思えない。
「……わかりました。他に、何か注意する点はありますか?」
「いいえ。この術式は組むことが難しいのであって、発動自体はそれほど難しくありませんからね。早速、始めますか?」
「はい。そちらも、準備は大丈夫か?」
「……はい。大丈夫、です」
私とショゴスの返答に頷いた先生は、私たちから離れて魔法陣の外へと出る。
その姿を確認した私は、改めてショゴスのほうへと向き直っていた。
相変わらず感情の見えない、茫洋とした瞳。けれど、どこか期待するような色も見えるような気がした。
私は一度深呼吸を行い――そして、告げる。
「では、始めるぞ」
「よろしく……おねがい、します」
「ああ、任せておいてくれ」
《掌握》によって、どうやって魔力を注ぎ込めばいいかは把握できている。
私はこの魔法陣の全容を把握しながら、己の足元へと手を付き、そこにある黒い円へと己の魔力を注ぎこんでいた。
瞬間――この黒い魔法陣が、熱を帯びたように輝き始める。
その色は燃える銅のような――千狐の毛並みのような、眩い閃光だ。
そして輝く魔法陣は、そこから溢れ出した光を、陣の反対側にいるショゴスへと向けて集中させていく。
「ん、ぅん……!」
「成程、こうする訳か……」
魔法陣が伝えてくる。己と彼女を縛る契約が、次にどうすればいいかを告げてきている。
やることは単純だ。先ほど、先生に言われたことをすればいい。
己の魔力を込めて、ショゴスへと新たな名前を与えるのだ。
「ショゴス。私の使い魔になってくれるお前に、新たな名前を授ける」
「はい……はいっ」
待ち望むかのように、ショゴスは僅かに声を弾ませる。
その様子に少し苦笑しつつ、私は先日彼女とであった時のことを思い返していた。
木々のざわめきの中から、微かに聞こえた助けを呼ぶ声。
私と彼女を繋いだ最初の瞬間のことを、私は確かに覚えている。
だからこそ――私は、この名を与えようと心に決めていたのだ。
「――リリ。安直な名前かもしれないが、私はこの名前を与えたいと思っている」
先生から、それはショゴスの鳴き声の一部だと聞かされてはいる。
その一つの言葉だけで、様々な意思を伝えられることは先刻承知だ。
そんな鳴き声の一部を抜き取っただけの名前など、安直過ぎるのかもしれないが――
「この名前を、受け取ってくれるか?」
「っ……はい。私はこれから、リリ、です。ずっと、ずっと、この名前、大切にします」
ショゴスは――否、リリはどこか感極まったかのように頷き、そして魔法陣の輝きも高まる。
契約は成立。これにより、契約の魔法は私とリリを縛り、その効力を発揮する。
私とリリを中心に渦を巻いていた輝きは、やがてゆっくりと収まり――それが消えると同時に、私とリリの間には、確かな繋がりが生まれていた。
術式が成功したことを確認し、私は安堵の吐息を吐き出して、ゆっくりとその場に立ち上がる。
いつの間にか、足元の魔法陣は消えてなくなっていた。
「改めて……これからよろしく頼む、リリ」
「はい……」
そう告げた私の言葉に、リリはどこか芝居がかったような仕草で恭しく跪く。
これまでの、どこか違和感のあるような動きとも違う、確かな感情の込められた仕草。
それと共に、リリは確かに、喜色を滲ませながら声を上げていた。
「……これから、よろしくお願いします、ご主人様」
――私の使い魔。新たに得た、私の家族。
これこそが、この地での修行において新たな仲間が加わった瞬間であり、そして私にとって護るべき家族が増えた瞬間でもあった。
これより、私たちは三人と二匹での生活を新たに始め、それぞれの課題へと打ち込んでいくこととなる。
そして――変わり映えのない修行の日々の中で、五年という歳月が過ぎていったのだった。




