050:黒き粘塊
「先生、先生! どちらにいらっしゃいますか?」
「あら、仁君? 随分と早かったですね」
拾った少女を背負い、屋敷へと戻る。
先生には湖の周囲の探索に言ってくると伝えていたため、もっとゆっくり戻ってくると思われていたのだろう。
意外そうな声音で、屋敷の裏手から声が響いてくる。
どうやら、今は畑弄りをしている最中であったようだ。
位置を把握し、屋敷をぐるりと迂回すれば、一人で世話をするとなればギリギリの範囲まで広がった畑と、その中で野菜を収穫していた先生の姿が目に入った。
籠に入った野菜を縁側に置いた先生は、そこでようやく私の姿を認め――その目を、大きく見開く。
「仁君? 背中のそれは、一体どうしたのですか?」
「探索の最中に発見しました。酷く弱っていて、助けを求めていた様子です」
「……とりあえず、預かります。屋敷の中へ入ってください」
足早に近づいてきた先生は、私の背中から黒い少女を取り上げ、屋敷の中へと入っていく。
若干慌てているようなその様子に面食らいながらも、私は先生の後を追っていた。
空いている部屋の一つに布団を敷き、その上に少女を横たえた先生は、何らかの魔法を発動した手で少女の体を触診していく。
そしてその最中に、先生は視線を外さぬまま、私へと向けて質問を発していた。
「仁君。この子は、結界の外にいたのでしょう?」
「はい、その通りです……やはり、禁獣ですか?」
「そこまで分かっていたのなら、どうして連れて来てしまったの? これは、危険な生き物です」
「……はい、申し訳ありません」
理由があったとは言え、軽率な行動であっただろう。
禁獣が危険な生物であると言うことは、あの雷の亜精霊で間接的ながらも知ることはできた。
だが――あの時、右腕から伝わってきた感覚。私は、それを無視することはできなかったのだ。
「貴方は聡明な子です、仁君。そんな貴方が、何の理由も無しにこんなことをするとは考えていません……何があったのですか?」
「買いかぶりすぎです……ですが確かに、理由はあります。彼女を発見した時、《王権》が……精霊魔法が勝手に反応したのです」
あの時に感じ取った、《王権》の一部であろう力。
それは、現在の私に使える四つの権能には該当しない力であった。
残る四つの内のどれか――今の私には、その詳細は全くと言っていいほど把握できない。
だがあの時、僅かに感じ取れたのは――
「あれは恐らく、この禁獣の感情……彼女は、私に助けを求めていました。心の底から、縋るように。一切の敵意も害意も無く、本当に溺れる者が藁をも掴もうとするかのような感情でした」
「……成程。確かに、随分と弱っている様子です。ですけど、求められたその『助け』が、貴方を餌として喰らうことだったかもしれないのですから、きちんと反省はして下さい」
「っ……はい、済みませんでした」
先生の言葉に対して、反論できる余地は無い。
その指摘に対して、私は深く頭を下げて反省していた。
やはり、私の認識はまだまだ甘かったということなのだろう。
だが先生は、私が謝罪した様子を見ると、相好を崩して苦笑する。
「ええ、次からは気をつけてくださいね。さて、お説教はこのぐらいにして……仁君も、この子が一体何なのか、気になっているのでしょう?」
「それは……ええ、はい」
「でしょうね。人間の姿に擬態できる禁獣はそれほど少なくはありませんが……ここまで完璧となると、かなり限られます。しかもこの体は……間違いなく、『ショゴス』でしょうね」
「ショゴス?」
聞き慣れない名だ。そもそも、元より私はほとんど禁獣のことなど知らないのではあるが。
私の疑問の言葉に対し、先生は少女の診察を続けながら声を上げる。
それは、ショゴスと呼ばれる禁獣の、詳細ともいえる情報だった。
「場所によっては黒粘塊、タイラントスライムなどと様々な呼ばれ方をしますが……正式な名はショゴス。不定形の肉体を持ち、肉体のすべてが特殊な万能細胞で形成された粘性生命体。今はこうして少女の姿をとっていますが、本質は黒い粘液の塊です」
「これが……? どう見ても、普通の人間にしか見えませんが」
「見た目はそうですね。ですが、これは殆ど外見だけです。内臓が全て形成されていない……マネキンのようなものですね」
先生の言葉に、改めてその少女――ショゴスを観察してみるが、やはり普通の人間のようにしか見えない。
これが黒い粘液の塊だなどと言われても、先生の言葉でなければ信じることはできなかっただろう。
「ショゴスは元々、古き時代に……それこそ、人類という種が生まれるよりも遥か昔に、地球を支配していた生物が創り上げた種族。現在では遥か南、南極の山脈に生息していると言われていますが……」
「それがどうしてこんな所に?」
「力を持った禁獣ならばショゴスを召喚することはありますが、こんな所に単独でいるのはおかしいですね……しかも、酷く弱っている様子ですし」
その辺りは先生にも分からないようだ。
まあ、人類よりも遥か昔から存在していた生物だというのであれば、それも無理からぬことだろう。
半ば信じがたいが、人知の及ぶ領域には無いのかもしれない。
「ショゴスは元々、古き種族が奴隷とするために創り上げられた生物です。基本的に自意識は存在せず、命令を受けていない限りは、扱いさえ間違えなければそれほど怖い生き物というわけではないのですが……貴方は少し特殊なようですね。起きているのでしょう?」
呼びかける先生の言葉に――ショゴスは、すぐさまその目蓋を開き、瞳をこちらへと向けてきていた。
表情も、それどころか目以外の一切を動かさずに行われた動作に、どこか薄ら寒いものを感じる。
確かに外見は人間そのものだが、どこか生物らしからぬ無機質さを感じる。
これが、ショゴスという生き物なのか。
「私の言葉は理解できていますか?」
「……てけり・り」
ショゴスは先生の言葉に対し、一応口を開いて返答する。
だが、その言葉の意味は理解不能なものだ。鳴き声か何かだろうか。
しかし――何故だろうか。その言葉の中に含まれている感情を、伝えようとしている意思を、まるでテレパシーのように感じ取ることができた。
そして、それはどうやら先生も同じだったらしい。《王権》が発動した気配もなかったし、このショゴスはテレパシーのような能力を持っているのか。
「やはり……しかし、驚きましたね」
「何がですか?」
体を起こすショゴスの様子から目を放さぬようにしながら、私は先生に問いかける。
じっと黒い、けれどどこか虹のような光沢のある瞳で私たちを観察しているショゴス。
見た目はどこからどう見ても人間だ。だが、動きの節々から、妙な違和感が感じられる。
やはり、外見だけを人間に似せているせいだろうか。間接の動きが、若干人間とは異なるのだ。
拭いきれぬ違和感に眉根を寄せていたところ、先生は軽く肩を竦めて声を上げた。
「外見が、幼い頃の朱莉ちゃんそっくりです。いえ、私が出会った時は仁君よりも年上でしたが……朱莉ちゃんをそのまま幼子にしたような姿ですね」
「そうなのですか? 確かに、どこか見覚えのある姿だとは思いましたが」
「てけり・り」
「……ふむ」
ショゴスの言うところによれば、どうやら母上の姿を模倣しているのは事実であるらしい。
だが、体積が足りず、子供の姿にならざるをえなかったのだそうだ。
しかし、その一言で意識を伝えられるというのも中々便利なものだな。
そんな私の感心を他所に、先生は軽くショゴスの頭に手を当てて、その体を調べ続けている。
「……やはり、高度な自意識を有している。この子は、ただのショゴスではありません」
「え? ……そういえば、先ほどは自意識を持たないと」
「ええ。本来のショゴスであればそうです。奴隷として使役することを目的として創り上げられたが為、必要とする機能以外は持たされなかった。意識というものを――人間で言えば脳に該当する器官を持たなかったのです。ですが、ショゴスは万能細胞の塊。それによって、長き時間をかけ、脳の形成に成功した者が出現しました。それがショゴス・ロード……高度な知能を有する、ショゴスの上位種です」
先生の言葉に驚きつつ、私は再びショゴスのほうへと視線を向ける。
感情を映さぬ黒洞のような瞳でこちらを見つめ続けているショゴス。
先ほど、あの結界に縋り付いていた時のような感情は感じられない。
だが、少なくとも敵意のようなものも感じないことは事実であった。
「それで、貴方は何故こんな場所にいたのですか?」
「てけり・り。てけり・り」
僅かに、訴えかけるような声音。
伝わって来た意思、というよりもイメージだろうか――それによれば、彼女は長きに渡り眠りについており、最近目を覚ましたばかりであったということらしい。
しかし目を覚ました直後、彼女はあの雷の亜精霊、厳霊に襲われてしまったのだ。
母上の姿を真似ているのも、あの時に厳霊を追い払った母上の姿を借りていれば、襲われなくなるかもしれないからと考えたためらしい。
尤も、全くと言っていいほど体積が足りていなかったようであるが。
「ふむ……まあ、経緯はわかりました。それで、ショゴス・ロード。貴方はこれからどうするつもりですか?」
「……てけり・り」
「いつあの厳霊が戻ってくるかも分からないから、せめてこの結界の中にいさせて欲しい、か……先生、どうしましょう?」
「ええ……正直なところ、あまり許可したくはありません。命令を受けて敵対していないにしろ、主のいないショゴスは危険な存在です」
ショゴスの懇願に対し、しかし先生は難色を示す。
長きに渡り眠りについていたのであれば、主がいないことは間違いないだろう。
果たして、主人を持たないショゴスはどのように危険だというのだろうか。
「例えば、ですが。今でこそ彼女は体積が足りず、これほど小さな姿しか持っていません。しかし、獲物を捕らえればどんどん己の体積を増して、やろうと思えばこの山全てを己の体で飲み込むことも可能になります。ただのショゴスならばともかく、ショゴス・ロードとなれば一級禁域の禁獣を超えるほどの力を持っていますからね」
「……つまり、己の意思で動かれるのが問題だと?」
「意思が無ければ無いで厄介なんですが……ともあれ、主人からの制御を受けていないショゴスはただの危険生物です」
つまり、このショゴスを暴れさせない主人が必要だということか。
改めてショゴスの姿を観察して、私は黙考する。
このショゴスを助けた身としては、正直なところ放り出すことは気が引ける。
母上の姿を模倣しているだけあって、処分することの抵抗感も非常に大きい。
――結論を言ってしまえば、私はこのショゴスの願いを聞き入れたいと思っていたのだ。
「先生。誰かがこのショゴスの主人になる訳には行かないんですか?」
「それは……私は無理ですね。ぐーちゃんがいるので、契約は不可能です。朱莉ちゃんも、使い魔を受け入れる余裕はないでしょう」
「残るは私、ということですか」
「ですが、お勧めはできません。ショゴスはかつて、己の主人を裏切り、反乱を起こした種族。意思無きショゴスならまだしも、人間以上の知能を持つショゴス・ロードは危険な相手です」
主人、ということはこのショゴスを使い魔とすることになるらしい。
だが、確か使い魔の契約は、かなり簡単に破棄することが可能だったはずだ。
知能を持つショゴス・ロードならば、ふとした瞬間に契約を破棄し、叛逆してくることも考えられるということか。
確かに、それは少々難しい――そう思った、瞬間だった。
「――私、は、裏切り、ません」
「っ……!? この短い間に、私たちの言葉から言語を習得したのですか?」
「はい、です。私は、あなたがた、を、裏切り、ません」
「……何故、そう言い切れるのですか?」
唐突に、私たちと同じ言語を話し始めたショゴス・ロード。
その姿にはさすがの先生も驚いたのか、目を見開いて彼女のことを見つめている。
己が裏切ることは無いと主張しているが――果たして、どういうことなのか。
「私は、昔、道具、でした。契約の条件、は、存在、しなかった」
「……意思無きショゴスを相手にしていたが故に、ただの隷属の契約を交わさせて、それを条件で縛ることをしなかった。だから、意思を持った瞬間に、契約を破棄出来るようになってしまった」
「必要、なら、たくさん、条件で、縛って、ください。私は――」
そこまで告げて、ショゴスは私を見上げる。
僅かな虹の光沢を持つ髪と瞳、その両方を揺らしながら。
――その輝きの中に、確かな意思の光と熱を宿して。
「――じん、さま。私は、貴方に、使役されたい」
ただ一言、そう告げていたのだった。




