049:黒の少女
母上が出撃した翌日――アレほど鳴り響いていた雷は、嘘のように収まっていた。
昨日は夜遅くまで雷鳴が鳴り響いていたおかげで少々眠いが、あの騒音がなくなっただけでもかなり快適だ。
だが、朝食の席に座った母上は、どこか不満そうな表情をしている。
手を洗い席についた私は、すぐさま昨日の結果について問いかけていた。
「母上、昨日の禁獣の件はどうなったのですか?」
「私たちが睨んだ通り、厳霊――雷の亜精霊であることに間違いはなかったわ」
「成程。さすがですね、母上。強い力を持つ亜精霊でも一蹴してしまうとは」
「うぐ」
私は純粋に賞賛していたのだが、どうにも母上の反応が芳しくない。
私の言葉に対して僅かに顔を引きつらせる母上の様子に思わず首を傾げ――そこに、お盆に朝食を載せた先生が苦笑交じりの表情で告げていた。
「朱莉ちゃん、結局仕留め切れなかったのでしょう」
「……はい、仰る通りです、先生」
「え、は、母上が仕留め損なったのですか!?」
信じがたい言葉に、私は思わず大声でそう問いかける。
私の言葉に対し、母上は僅かに言いづらそうに言葉を詰まらせた後、嘆息しつつ声を上げていた。
「……亜精霊は、物体と霊体の両面の性質を持っているのだけど、昨日の個体はかなり霊体に傾いているタイプだったのよ。昨日の私の装備だと、霊体に有効なダメージを与えられなくて……かなり魔力は削ぎ落としたけれど、ここから追い出すことしか出来なかったわ」
「魔法の世界において、相性差はかなりの影響を及ぼすと言う好例ですね。仁君も、気をつけてください」
「いや、もう少し物体寄りならば私でも仕留められていましたけど……あそこまで霊体寄りでしかも雷の速度で逃げに徹せられると……」
「……むしろそれでよく追い詰められましたね」
物理的な攻撃の効果が薄く、しかも雷の速度で逃げ回る敵。
雷の速度と言うと、空から降ってくる雷の場合は、確か秒速200km程度だっただろうか。
そんな速度で逃げに徹するような相手をどうやって追い詰めたのか、私にはイメージすることも出来ない。
母上は恥じ入っている様子であるが、普通に考えて倒せるような相手ではないだろう。
「まあ、アレだけ力は削ぎ落としたから、しばらくは何も出来ないでしょうし……ここに近づいてくることもないでしょう。けど、一応報告はしないといけないから……先生、今日は私、麓の拠点に報告に行ってきます」
「はい、分かりました。午後の練習には間に合いますか?」
「ん……ちょっと、難しいかもしれませんね。仕事が溜まっている可能性もありますから。まあ、仁ちゃんなら自習も出来るわよね?」
「はい。今なら、練習することもたくさんありますから」
《装身》の練習に、格闘術の型の練習。
やるべきことはいくらでもあるが、常に母上の視線がなければ出来ないと言うわけでもない。
一日二日指導がなかったとしても、手持ち無沙汰になることはないだろう。
こちらばかりにかまけて、母上の仕事が積み重なるのも問題だ。
これを期に、しっかりと仕事を片付けてきて貰いたい所である。
まあ、そんなことを直接言ってしまっては、母上が拗ねてしまうかもしれないので、口には出さないが。
「それじゃあ、悪いけど仁ちゃんは自習ね。先生、お願いしますね」
「はい。と言っても、仁君はとても手の掛からない子ですけど」
「そうなんですよねぇ。もっと色々と我侭を言ってくれてもいいんですけど」
まあ、親としては手の掛かる子供のほうが可愛いという考え方も理解できなくはない。
が、こちらをチラチラと見ながら言うのは止めて頂きたいところだ。
今更親に甘えろと言われても、流石に気恥ずかしさしかないのだから。
無言で味噌汁を啜りながら内心でそう呟き、私はちらりと視線を外へと向ける。
やれることはいくつかあるが、何も考えずにただ練習と言うわけにもいかないだろう。
簡単にできることでは意味がない。難しいことに挑戦し、それを続けること。
度重なる挑戦こそが、成長に繋がるのだから。
差し当たっては――
「……動きながら強化する練習でもするか」
午後の予定を更に詳細に練りながら、私はそう呟いていた。
* * * * *
母上が報告に山を降り、午後の訓練に入る。
今日の訓練として私が行うと決めたのは、強化を行いながら散歩をするというものだった。
今のところ、私の強化はまだまだ大雑把なものでしかなく、《装身》の完成は程遠い状態だ。
だがそれでも、《掌握》を併用した状態であれば、骨と筋肉と皮膚、それぞれ個別に魔力を通すことは可能になった。
尤も、これを《装身》と呼ぶにはあまりにも大雑把過ぎるし、それぞれを個別に見ても魔力をしっかりとむら無く通せている訳ではない。
だからこそ、先ずはこの状態を自然に維持できるようになることを目標として、歩き回りながらの強化を試みているのだ。
『大人しく、その強化の練度を上げておくのでもよかったのではないか?』
「それも一理あるんだがな。今の内に、この辺りの地理を把握しておきたかったんだ」
千狐の言葉に、私は集中を途切れさせないようにしながらもそう返答していた。
私が行動できる範囲は、この湖の周辺――結界によって隔離されたこの領域だけだ。
《鎮守の聖域》ではあまり獰猛な禁獣が存在しないとは言え、襲われない保証はどこにもない。
だからこそ、この限られた行動範囲を、きっちりと把握しておこうと思ったのだ。
この周囲を包む結界は不可視であるが、《掌握》を使えばどこにあるか程度は把握することができる。
どこまでが安全圏内なのか、そしてこの結界内には何があるのか。
十年も暮らす場所なのだ、把握しておいても損はないだろう。
「しかし……本当に、禁域とは思えない場所だな」
『あの雷の亜精霊のようなものでも出てこなければ、実感も湧かんかの?』
「そういう意味では、アレの存在も注意喚起にはなったといったところか」
千狐の言葉に対し、私はそう返して肩を竦める。
注意を怠るつもりは無かったが、この結界の外が危険地帯であると言う実感は持たせてくれた。
あの騒音は迷惑極まりなかったが、その点は感謝しておくべきなのかもしれない。
この湖の周囲だけの世界では、本当にどこかの避暑地のようにしか感じられないのだ。
危険を身近に置く必要こそ無いが、その危険性は実感しておいても損はないだろう。
『ほれ、あるじよ。右手と右足が同時に出ておるぞ』
「む……変に意識しすぎたか?」
『強化自体は維持できておる。焦る必要は無い』
「ああ、分かっているよ」
一度立ち止まり、強化の具合を確かめて、私は再び歩き出す。
強化を施しているのは右腕のみ。全身への強化など、今の私では不可能だ。
しかも、比較的構造が単純な腕だけでこれなのだから、内臓なども含めた強化となると、先が長いと言うレベルではない。
少なく見積もっても、形になるまでに一年は掛かりそうだ。
「上手く維持ができるようになって……その上で、そこから更に練度を上げる必要があるからな。知れば知るほど、母上の背中が遠くなるように感じるよ」
『実際は近づいておるのだ。あまり考えすぎることも無かろう』
「……だな」
千狐の言葉に苦笑して、私は結界の縁辺りを歩く。
《掌握》を使っているから、どこに結界があるのかは把握できている。
この結界であるが、ここに来た時と同じように、私と母上は素通りすることができる。
だからこそ、きちんと場所は把握しておかなければならないのだが。
『――――……ぃ』
――ふと、立ち止まる。
ふと響いた、本当に小さな、小さな声。
ともすれば、風に揺れた木々のざわめきかとも思ったが――
『――――……ぃ、り』
――再び響いた小さな声は、確かに私の耳に届いていた。
木々の発する音や、風の流れる音ではない。それは確かに、何らかの生き物が発した声であった。
このあたりに存在する生物は、私たちを除けば禁獣しかいないはずだ。
生物の声となれば、それは間違いなく禁獣の声であろう。
だが……聞こえた声は、酷く弱々しいものだった。
「……ふむ。千狐、今のは聞こえたか?」
『む? 何か聞こえたのか、あるじよ?』
「ああ、何か生き物の声のようだったが……」
結界を踏み越えぬよう気をつけながら、私は声が聞こえた方向へと向かう。
例え禁獣であったとしても、この結界内にいる限りは安全だ。
それは先生も保証していたし、安全圏から確かめる程度ならば問題はないだろう。
「……こっちだ。私も気をつけておくが、結界を越えそうになっていたら注意してくれ、千狐」
『うむ、分かっておるよ。しかし、このような場所で声とはの……気をつけることじゃ』
千狐の言葉には無言で頷き、私は木々の間を歩き始める。
森の中に入ってしまうが、それでも迷うことは無いだろう。
木々の間からは、どこからでも湖を見つけることができる。
よほど奥まで入り込まぬ限り、迷ってしまうことは無いはずだ。
『――……り、り』
再び聞こえた声に、方向を修正する。
今度は、どうやら千狐にも聞こえていたようだ。
彼女は表情を引き締め、その頭の上に生えた獣の耳をぴくぴくと動かし方向を変えながら、音の発せられた方向を探っている。
どうやら、方向は間違っていないらしい。聞こえてくる声は、確かに大きくなっていた。
そして、辿り着いた結界の縁。そこには――
「――ぇ、り、り」
「これは……」
『人間……? いや、そんな筈が無いか。じゃが、これは……』
私の目に飛び込んできたのは、一人の少女の姿。
長く黒い髪に、黒い瞳。そして白い肌――肌が見えているのも当然だ。
その幼い少女は、一糸纏わぬ姿をしていたのだから。
恐らく私と同じか、僅かに幼い程度の容姿。ほんの小さな、小さな子供。
だが、それ故に有り得ない。この場所に、この山奥の禁域に、こんな子供が一人でいるはずがない。
ドーム状になっている結界は、この場においては壁のごとくそそり立っており、少女はその結界に縋り付くように張り付きながら、訴えかけるように私のことを見つめていた。
――刹那。銀の紋章が、私の右目が、黄金に燃える。
「り、り……ぅ、ぁ」
それが最後の力だったのか。彼女はそのまま、ずるずると地面に倒れて気を失う。
最後に、縋るような視線を私に向けたまま。
黒い髪が、まるで液体のように地面に広がり、彼女はそのまま微動だにしない。
全く動く気配のなくなった、その姿。それを目の当たりにして、私は困惑を隠せずにいた。
今この刹那、私の中で蠢いた気配を含めて――一体、何が起こっているのか。
私は思わず右手で右目を押さえながら、千狐へと向けて問いを発していた。
「……千狐、どう思う?」
『難しいのぅ。正直なところ、とても人間とは思えん。この場所に、ただの人間が、それもこんな幼い子供が入り込めるものか。例え禁域でなかったとしても、こんな山奥に辿り着く前に野垂れ死ぬに決まっておろう』
「だが、最後に見せたあの表情は……助けを求めているようにしか、見えなかったな」
『擬態である可能性も捨て切れんぞ? やはり危険じゃ、あるじよ』
「そうだな……だが、感じただろう、千狐」
『……ああ。我らが王の権能は、確かに感じ取っておったよ』
確かに、危険極まりない。
だが――あの時、この少女が見せた表情。そして、《王権》の内の一角を通してほんの僅かに伝わってきた、彼女の感情。
この小さな少女は、確かに『助けて』と――私に、そう伝えようとしていたのだ。
何故力の一部が勝手に発動したのかも分からない。魔力も使っていない以上、私や千狐が《王権》を発動したわけではないと言うのに。
一体何の意思だ。一体何が、千狐の力を発動させたのか。分からないが――少なくとも、私は直感的に確信している。
先ほど伝わってきた、救いを求める意思。それは紛れもなく、今そこに倒れている少女のものであったと。
「……千狐、周囲を警戒していてくれ」
『やる気か、あるじよ。妾には、とてもではないが勧められんぞ?』
「だが、今の現象には何かの意味がある。私には、そう思えてならないんだ」
近くに落ちていた木の枝を拾い、結界越しに少女を少し突いてみる。
だが、それに対する反応はない。完全に気を失っている様子だ。
外の生物は、結界を通り抜けられるものの導きが無ければ、この中に入ることはできない。
だからこそ、私は――手を伸ばし、その少女を結界の中へと引き込んだ。
私よりも小さな体躯の、本当に小さな少女。
禁獣であるならば、私などより遥かに強い生物であるはずだが――今の彼女からは、弱々しさしか感じ取ることはできない。
私は、全身に《強壮》を発動させ、彼女の体を抱え上げる。
何にしろ、先生の指示を仰がねばならないだろう。
小さく溜息を吐いて、私は元来た道を戻って行ったのだった。