048:青天の霹靂
いつもと変わらぬ朝食の席。だが、どうにも気になってしまう出来事が、ここ数日続いていた。
若干上の空で外を眺めれば――それとほぼ同時に発せられる輝く閃光と、乾いた轟音。
先日発生した青天の霹靂は、日をまたいだ今でも続いていたのだ。
「まだ続いているわね、あれ。何をしているんだか」
「母上、アレは本当に禁獣なんですか? あんなに幾度も幾度も雷を発生させるなんて……かなりの魔力を必要とすると思うのですが」
雷と言うものが持つエネルギーは凄まじい。
魔法で再現するにも、かなり大量の魔力を必要としてしまうだろう。
だが、ここ数日繰り返されている雷は、全く衰える気配を見せていない。
あのような攻撃を連発できる存在など、あまり想像したくもないのだが。
そんな私の問いに対し、母上は軽く肩を竦めて答えた。
「確かに、禁域では異常気象なんてことはよくあるわ。雲ひとつないのに雷が発生することだって、別にないわけじゃない。一級の禁域となれば、そういったものも日常茶飯事ね」
「禁獄なんかは、常に天変地異が発生しているようなものですから、あの程度ならそれほど珍しくはありませんが……この《鎮守の聖域》に関しては例外です。ここは常に穏やかで、住みよい環境が整った領域。あのような異常気象は起きませんよ」
「……つまり、本当に禁獣なんですね」
雷を幾度も発生させるような禁獣だ。この一級の禁域の中でも問題なく活動できるほどの力を有した存在だろう。
問題は、そんな禁獣が、果たして何をしているのかと言うことだ。
一度雷を落とした程度であれば、何かしら身を護るために攻撃を行ったとも考えられるが、こうも続いているとなると話は別だ。
果たして、あの禁獣は何をしようとしているのか。
気にはなるが――それ以上に、この騒音と火事への心配で集中しきれないと言うのも問題だ。
正直、勘弁して欲しいところである。
「全く……これじゃあ修行の邪魔ね。先生、私がちょっと片付けてきます」
「あら、大丈夫ですか、朱莉ちゃん。山での狩りは久しぶりでしょう?」
「ふふ、問題ありませんよ。それじゃあ、ちょっと行って来ますね。仁ちゃん、先生と勉強を頑張るのよ?」
「あ、はい。お気をつけて」
そう告げると、母上は自分の食器を片付けて、まるで散歩に行くかのような歩調で外へと出かけていった。
まるで気負った様子もなく、どうやら本当に散歩気分の様子であったが……母上にとっては、雷を起こすような禁獣も、その程度の相手ということなのか。
母上が去っていった廊下へと視線を向けたままだった私は、ふと掛けられた先生の言葉に我に返る。
「気になっているようですし、少し説明をしておきましょうか、仁君」
「え……は、はい。お願いします」
急須から緑茶を注いだ先生は、それを私へと差し出しながら説明を始める。
今回、母上が追っていった相手が、一体何なのかと言うことを。
「今回、あの雷を発生させていたのは、俗に『亜精霊』と呼ばれる禁獣です」
「亜精霊?」
先生の言葉に首を傾げ、私はちらりと千狐の方へと視線を向ける。
だが、千狐は私の視線に対し、軽く肩を竦めて首を横に振っていた。
どうやら、千狐も知らない言葉であったらしい。
精霊に関連した禁獣のようであるが、一体どのような存在なのか。
そんな私の疑問を察したのだろう、先生は軽く笑みを零しつつ声を上げる。
「亜精霊と名前がついていますが、精霊とは全く別の存在です。精霊と言うのは、大まかに言えばある種の力が意思を持った存在です。仁君の精霊で言うなら、その《掌握》という力そのものが意思を持っているようなものですね」
「それは、まあ。何となく分かります」
私も精霊契約者だ。使い手としてまだまだ未熟であるとは言え、自らが契約している存在についてはある程度分かる。
普段私が使っている、《掌握》という術式。これが、千狐の存在とイコールで結ばれていることは感覚的に察していた。
この力は己そのものであり、そして私に与えられた才能の一つであると、かつて千狐もそう説明していたが……彼女の場合は、少々特殊だろう。
――《王権》は、決して彼女の力ではないのだから。
「対する亜精霊は、力そのものではなく、現象が意思を持った存在。言ってしまえば、生きた魔術式のような存在ですね」
「ええと……千狐の場合は、『あらゆる事象を掌握する』という『力そのもの』が意思を持っていて、さっきの亜精霊は『雷を発生させる』という『魔術式』が意思を持っているような感じですか?」
「そうですね。厳密にはもっと色々と細かい定義がありますが、おおよそその認識だけでも十分でしょう」
確かに近いが、本質的には異なる。だからこそ、亜精霊と呼ばれているのだろう。
精霊はあくまでも力そのもの、即ちエネルギーの塊だ。
それを制御する何者かがいなくては、上手く力を発揮することができない。
だが、亜精霊は生きた魔術式。魔術式は、魔力を通すだけで力を発揮するが故に、ああして雷を発生させることができるのだろう。
「見ての通りですが、今回は雷の亜精霊ですね。これは、結構な力を持った存在です」
「そうなんですか?」
「雷とは、古来よりそれそのものが神と同一視されることもある、強大な力です。雷とは神の権能、それを自在に操る雷の亜精霊もまた、場所によっては神聖視されるような存在であったりもします」
「……そんなものと戦って大丈夫なんですか?」
「別に、日本ではそれほど神聖視されているというわけでもありませんから。護国の大精霊たる八尾がいる限り、他の精霊信仰など有って無いようなものですから」
いや、確かにそれも若干気になってはいたのだが、私が聞きたかったのは、そんな強大な力を持った敵を相手に母上は大丈夫なのかと言うことなのだが。
その思いが故に微妙な表情をしていただろうか。私の表情を見た先生は、僅かに苦笑しつつ声を上げる。
「心配する必要はありませんよ。確かに、雷の亜精霊はかなりの力を有してはいますが、それでも一級禁域の枠を出ない程度の力です。禁獄の禁獣ですら圧倒できる朱莉ちゃんなら、さして問題にはなりません」
「な、成程……分かりました」
「まあ、言ってしまえば自由に動き回れる雷を発生させるだけの魔術式ですから。朱莉ちゃんなら問題ありませんよ。だから、帰って来るまでしっかり勉強していましょうね」
「……はい」
子供に言い聞かせるような口調の先生に、私は小さく首肯する。
色々と思うことはあるが、どの道今の私に出来ることは何もない。
言われたとおり、大人しく勉強しながら待つとしよう。
* * * * *
鬱蒼と生い茂る木々の合間を、黒い髪をなびかせながら駆け抜ける。
10メートル先も見えないような深い山林の中、しかし朱莉の駆けるスピードは、一切衰えることはなかった。
かつて、幼き日々を過ごしたこの山林。危険な生物が跋扈する一級の禁域。
それほどの危険地帯であったとしても、朱莉にとってここは庭のようなものだ。
「【体躯よ】【羽の如く】」
小さく紡がれる圧縮詠唱。それは、己の体の重量を変化させる魔法だ。
軽くすることも重くすることも可能であり、朱莉はこの魔法を、接近戦闘の手段として用いていた。
重量とは、そのまま破壊力に直結する要素である。
朱莉の場合、やろうと思えば己の肉体の重量を十数グラムから数百トンまで操作することが可能だ。
今は己の肉体に対して軽量化を施し、身軽な体で跳躍する。
「確か……そう、あの辺りね」
木の幹を蹴り、枝に乗り、木々を跳躍しながら駆け抜ける。
軽量化を施したからこその芸当であり、普段の重量ではとても枝が耐えられなかっただろう。
だが、重量を数百グラム程度まで減らしている朱莉ならば、何ら問題はない。
枝を蹴り、まるで山肌を閉ざす緑の上を駆けるかのように進む朱莉は、目標地点付近の上空に、眩く輝く物体を発見していた。
感じる魔力に視線を細め、朱莉は己が魔力を高め――その刹那、朱莉へと向けて一筋の光が放たれていた。
「――っ!」
咄嗟に回避した朱莉は、木々の上で器用に体勢を整えながら上空を見上げる。
そこにいたのは、青白い輝きを纏った半透明の人影。
白い襦袢を纏った女性の姿にも見えるが、手足の先はほぼ輪郭のみであり、腕や指には関節があるようにも見えない。
ただ、光が人型を模しただけの存在にも見える、奇妙な姿。
輝きを放つその存在は、朱莉の姿を見下ろして不愉快そうに吐き捨てる。
『何だ……黒かったから見間違えたぞ。獲物を探していると言うのに……何だ、貴様は』
「あら、人の言葉を解すとは。獣なら処理して終わりと思っていたのだけど、一応質問しておきましょう。私はこの付近に暮らしているものよ。貴方があまりにも騒々しいから文句を言いに来たの。大人しくするつもりはあるかしら?」
先ほどの攻撃を意に介した様子もなく、朱莉は相手へとそう告げる。
しかし、それに対する返答は、上空より放たれた眩い雷光だった。
文字通り、瞬く間に打ち下ろされた雷は、避ける間もなく朱莉へと直撃し、閃光と轟音を走らせる。
その様を見届け、攻撃を放った張本人は、苛立ち混じりに告げた。
『不遜だぞ、下等生物が。貴様如きが、我が行動に口出しするなど、有ってはならんことだ。我は――』
「――雷の亜精霊。古来よりある厳つ霊の名より、私たちは厳霊と呼んでいるけれど――少し大仰な名づけ方だったかしら。正直、想像以下ね」
『っ、何!?』
響いた声に、厳霊は目を剥いて眼下を見下ろす。
そこには、先ほどと変わらず、傷どころかダメージ一つ負った様子のない朱莉の姿があった。
唯一変わっているのは、彼女の周囲に漆黒の魔力が渦を巻いていること。
万物を削り取る黒い魔力。それを身に纏い、攻防一体の鎧と化す《黒蝕纏魔》。
漆黒の渦の中心で見上げる朱莉の姿に、厳霊は自覚せずとも、確かな戦慄を抱いていた。
『馬鹿な――有り得ん、消え失せろッ!』
放たれるのは先ほどの一撃を遥かに上回る出力の雷、それも同時に十以上の光が放たれる。
人間の肉体など容易く焼き尽くされ、地面ごと打ち砕かれ欠片も残らないだろう。
しかし朱莉は回避する様子もなく、眩い雷の群れは漆黒の魔力に直撃し、轟音と衝撃を周囲へと向けて走らせる。
『は――はははっ! 所詮はこの程度だ、下等な人間風情が――』
「――ああ、五月蝿い」
その刹那、厳霊の体は左右真っ二つに切り裂かれていた。
――殺到してきていた雷ごと、放たれた黒い刃によって。
「一級程度の禁獣の分際で、よくも私の息子の邪魔をしてくれたわね」
声を放ったのは、変わらず木の上に立つ朱莉。
彼女は手刀を振り切った体勢で、真っ二つになった厳霊を見据えて告げていた。
彼女がやったことは単純だ。ただ薄く延ばした魔力を、手刀に乗せて飛ばしただけ。
しかしただそれだけで、あらゆる物質を削り取る朱莉の魔力は、あらゆる魔剣にも匹敵する一撃と化す。
例え実体のない厳霊が相手であろうとも、それは同じことだ。
だが――
『ッ、が、ああああああッ!!』
「っ! まだ死んでないとは」
響いた声に目を見開き、朱莉は再び魔力を滾らせる。
上空の厳霊は二つに分かたれた体を再び繋げると元通りの姿となり、怒りに満ちた視線を朱莉へと向ける。
『おのれ、人間め……ッ!?』
「はッ!」
言葉を聞くつもりもなく、朱莉は虚空を蹴って駆け上がり、厳霊へとその拳を叩きつけていた。
だが瞬時に反応した厳霊は、その身を眩い雷光と化し、その場から一瞬で離脱する。
朱莉の拳は厳霊の胸を狙っていたが、その回避行動により僅かに逸れ、相手の腕を粉砕するに留まった。
雷光と化した厳霊の移動速度は正しく雷速。いかな朱莉とて、容易く捉えられる速度ではない。
だが厳霊の選択は、その速度を生かしての撤退であった。
瞬時に遁走してゆく厳霊に、朱莉は瞬時に魔力を滾らせ、その後を追い始める。
――その日、《鎮守の聖域》では、幾度もの雷鳴が響き渡ることとなったのだった。