042:先生
綾乃さんからの歓待を受け、到着日の夜は更ける。
結局、母上は以前使っていたものと同じ部屋を使い、私もそこで寝泊りすることとなった。
母上曰く、本家ではできないから、ということらしいが――流石に少々気恥ずかしい。
確かに、これまで入院してきて、しかも宗家の姓を剥奪された私では、こういったことも出来なかっただろうが。
まあ、しばしの間は付き合うとしよう。流石にそのうち慣れるだろうしな。
「……む」
そんな慣れない、新しい環境だったからだろうか。私はふと、夜中に目を覚ましていた。
この場所は当然電気など通っておらず、夜になれば真っ暗だ。
だが、空気が澄んでいるからだろうか。月明かりは、眩しいほどに辺りを照らしている。
何も見えない闇夜と言うわけではないようだ。
就寝時間も早く、まだ日付も変わった頃、といったところだろう。
早寝早起きが習慣付けられそうな環境であるが、修行には持って来いなのかもしれない。
「ん……仁ちゃん?」
「母上……ちょっと、トイレに行ってきます」
「そう、一人で大丈夫?」
「場所は覚えていますから」
気配に敏感な母上は、私が目を覚ましたことを即座に察知していたようだ。
そんな母上に対し、私はそう告げて部屋を出る。
実際のところ、尿意を催しているというわけではないのだが、一応念のためだ。
廊下を進み、縁側へ――そういえばあのトイレは水洗式になっていたが、果たしてどこに流れているのかなどと考えながら、私は現れた夜空の光景に目を奪われていた。
「これは……」
光源一つない山奥だからだろう。天上から降り注ぐ光は、一切遮られること無く私の目に飛び込んでくる。
天空を埋め尽くす満天の星空、そして眩く輝く月――都会では見ることのできない、美しい夜空がそこにはあった。
これを見れただけでも、ここにきた甲斐があった。ついそう思ってしまうほどの光景に、しばし佇む。
――小さな笑い声が届いたのは、そんな時だった。
「朱莉ちゃんとそっくりですね、仁君。あの子も、ここに初めて来た時にはそうしていましたよ」
「っ、綾乃さん?」
声の方へと振り返れば、そこには燐光を帯びた瞳を向けて微笑む綾乃さんの姿があった。
襦袢姿の彼女は、縁側に腰掛けて隣にぐー師匠を転がし、口元を手で押さえながら優雅に笑っている。
美しい月夜に映える彼女の姿は、隣に謎生物さえなければ思わず見蕩れてしまうほどのものであった。
酒などを用意している様子も無く、どうやら晩酌と言うわけでもないようだが、果たして何をしていたのか。
そんな私の疑問を他所に、綾乃さんは淡い笑みのまま私を手招きしていた。
「仁君、少しお話をしませんか?」
「話ですか? まあ、大丈夫ですが」
綾乃さんに手招きされるまま、私は彼女の隣に腰掛ける。
目に入るのは、湖に反射して輝く夜空の光景だ。
空と水面、二つの月が照らす中、綾乃さんは私に対してぽつぽつと言葉を並べ始める。
「少し、昔のことを思い出していました」
「昔、と言うと……母上がここで修行していた時のことですか?」
彼女の言う『昔』は、あまりにも時間が長すぎる。
だが、恐らくは私の言葉に誤りは無いだろう。
今このタイミングで思い返すとすれば、それはかつての母上のことしかないと思ったからだ。
そしてどうやら、そんな私の予想は当たっていたらしい。
綾乃さんは懐かしむように、目を細めて夜空を見上げながら声を上げる。
「ええ。本当に、昨日のことのように思い出せる。ここ数百年で、最も充実した日々だったと思います」
「そう、ですか」
数百年という時間の単位に驚けばいいのか、はたまた母上が間接的に褒められていることを喜べばいいのか、何とも微妙な心境で、私は彼女の言葉を待つ。
私としても興味はあったのだ。かつての母上が、どうやってここに辿り着いて、どのような修行を行っていたのか。
そして、そんな母上を教え導いた、この霞之宮綾乃という人物の人となりも。
「私が出会ったとき、朱莉ちゃんはまだ子供でした。十に届くか届かないかと言う程度の、本当に小さな子……例え襲われることの少ないこの禁域とは言え、ここまで辿り着いたことには驚きました」
かなり傷だらけでしたけれども、と付け加えて綾乃さんは笑う。
対する私はといえば、その年齢の頃から既に異様なほどの実力を有していた母上に驚かされていたのだが。
自分から攻撃することが無ければ、この禁域の禁獣からは襲われないとのことだったが、それでも子供が足を踏み入れてどうにかなるような場所ではない。
この人がいなければ、十中八九、母上は今ここにはいないだろう。
「随分と強さに貪欲で、無茶をする子で……放っておけなくて、私が面倒を見ることにしたんです。それまでは人と関わることを極力避けていましたが、見捨てなくて正解だったと思っていますよ」
「それは……私も感謝したいです。綾乃さんが母上を育ててくださったからこそ、今私がここにいるのですから」
「私も、放っておけませんでしたから。指導もして、生活のいろはも教えて……私は子を成すことはできないけれど、母親の気分と言うものを味わえましたよ」
愉快そうに、けれどどこか寂しそうに、綾乃さんは笑う。
不老の身である以上、やはり普通の人間とはどこか機能的に異なる部分が出てしまうのだろう。
だとすれば、綾乃さんが母上に向けている親愛は、どこか母性にも近い感情によるものということか。
母上は土御門の傍流の出だが、縁を切っている以上、私の母方の祖父母はいないと考えてもいいだろう。
だがある意味では、この綾乃さんこそが私の祖母であると言えるのかもしれない。
「あんなに小さかった子が成長して、子供まで作って顔を見せに来てくれた。けれど……やはり、時間の流れと言うものを感じてしまいますね」
「……綾乃さんは、母上と出会う前も、その後も、ずっとここで暮らしていたんですか?」
「ええ、その通りです。私はずっと、ここで暮らしていました。私の持つ不老の秘法は、私以外には扱えないものですが……それでも、求めようとするものは大勢いますから」
やはり、綾乃さんの技術を、或いは彼女自身を狙おうとする者は大勢いるのだろう。
広く知れ渡れば混乱することは目に見えている。それほどまでに、不老や不死は人間にとって魅力のあるものなのだから。
だからこそ、綾乃さんは人目に触れずに生活するほか無い。
それが、彼女にとっても、そして周囲の人々にとっても幸せなことなのだから。
――けれど、それでもどこか、寂しさは拭いきれないのだろう。
「退屈な日々ですが……それでも、時間はあっという間に過ぎてしまいますね。朱莉ちゃんが出て行ったことなんて、つい先日のことのように感じるのに」
「……火之崎が保護する形ならば、母上と一緒に暮らせるのではないですか?」
自分で言っておいてなんではあるが、不可能だろう。
結局のところ、綾乃さんと他の全ての者は、時間の流れが異なっているのだから。
例え人々の間で生活していたとしても、いつかは置いていかれてしまう。
そして、そのような悩みを抱えているにもかかわらず、彼女は今でもこうして異なる時間の中で生きているのだ。
不老であっても不死ではない。恐らく、自殺することは不可能ではない筈。
誰かと一緒の時間を生きて、そこで命を断とうとしないのは、何かしらの理由があるのだろう。
「そんな生活を夢見たこともありますが、火之崎が三人も十秘蹟を抱えてしまったら、国全体の問題になりますから。私は、ここで暮らしているだけで十分ですよ」
「……そう、ですか」
積み重ねてきた年月が違う。そして、その間に積もり続けた葛藤も。
綾乃さんは恐らく、自分なりの答えを見つけているのだろう。
私程度が口を出したところで、恐らく考えが変わることはあるまい。
きっと――母上だって、そう提案したのだろうから。
「そんな顔をしないでください、仁君。こう言っていますけど、嬉しいことだってあるんですよ」
「嬉しい、ですか。本当ですか?」
「ええ。こうして時々朱莉ちゃんが尋ねてきてくれることも、どれだけ成長したのかを確かめることも……私にとっては、とても嬉しいことですから」
私を安心させようとするかのように、綾乃さんは笑顔で私の頭を撫でる。
どうやら綾乃さんは、心の底から母上のことを気に入っているらしい。
これから十年間、一緒に暮らしていけることも、かなり喜んでいるのだろう。
だが――彼女が永遠を生きる以上、いずれは別れもやってくる。
それは、避けようの無い真実だ。綾乃さんはきっと、その先すらも見越しているのだろう。
……私では、到底口の挟めない悩みだ。
「私のことばかり話してしまいましたね。仁君は、何か聞きたいことはありますか?」
「そうですね……そういえば、母上の指導をしたのも綾乃さんなんですよね?」
「ええ、そうですよ。とても教え甲斐のある子でした」
嬉しそうに、懐かしそうに、綾乃さんは頷く。
子供の頃から一級禁域を突っ切ってここに辿り着くほどの実力を有していたのだ、それは教え甲斐があったことだろう。
しかしそうなると、あの母上の戦闘技術の下地を作ったのは綾乃さんということになる。
正直なところ、見た目からではあんな格闘技術を有しているようには見えないが――仮にも十秘蹟、想像を絶する力があるのだろう。
「では、父上と母上が出会った時のこととかはご存知ですか?」
「ああ、宗孝君ですか……ふふ、あの時はびっくりしましたよ。屋敷に戻ってきたかと思ったら、いきなり『男の人から求婚されました』なんて言われましたから」
「……父上が母上に一目惚れしたのって、本当だったんですね」
今の父上からは到底考えられない所業である。
本人も、あまり知られたがらない内容であったようだが。
だが、その辺りもよく知っているのであろう、綾乃さんはころころと笑いながら思い出話を続ける。
「朱莉ちゃんも朱莉ちゃんで、『私に勝ったら認めます』なんて言っちゃったものですから……改めて決闘を行うことになって、向こうにあった山が一つ窪地に変わりました」
「…………」
本格的に告げる言葉をなくし、私は閉口する。
まさか、山を一つ消し飛ばしたと言うのか。たった二人の魔法使いが、その決闘の余波で。
と言うより、プロポーズで決闘って、あの二人は一体何をやっているんだ。
つくづく、やること成すことが派手な夫婦だ。
「本当に、二人とも無茶をしたものですよ。私がいなかったら、二人とも大怪我じゃ済まなかったでしょうし」
「……父と母が、大変お世話になりました」
「ふふふっ。でも、そんな二人も今では三児の親です。本当に、よく成長してくれました」
微笑みながら告げるその言葉に、一切のよどみは存在しない。
綾乃さんは心の底から、母上の成長を――そして、自分を超えて行ったことを喜んでいるのだ。
その姿に、私は共感と憧憬を覚える。私では――かつての私ではできなかったことを、彼女は成し遂げているのだから。
「……綾乃さん」
「何ですか、仁君?」
「私も、綾乃さんのことを『先生』とお呼びしてもいいでしょうか?」
この人と母上と――二人を師として仰ぐことが出来るならば、これほどの幸運は無いだろう。
護るための、その力を得るために。そしていつか、護り育てた誰かが、私を超えていく姿を見届けるために。
私は心の底から、この人を師として仰ぎたいと願う。
そんな私の言葉に――綾乃さんは、どこか困ったように、けれど嬉しそうに笑っていた。
「本当に……朱莉ちゃんにそっくりですね、仁君は。教え甲斐がありそうで、先生としても嬉しい限りです」
「……! はい、ありがとうございます、先生」
その言葉に、私は『先生』に対して深く頭を下げる。
修行の始まる前日、ただの子供であった日の最後の夜は、こうして更けて行ったのだった。




