041:湖畔の少女
母上の背中から見えた、湖畔の屋敷。
その前に到着し、ようやく母上の背中から下ろされた私は、少しふらつきながらも周囲の景色を観察していた。
一級の禁域である《鎮守の聖域》。だが、その肩書きとは裏腹に、とても静かで落ち着いた場所だ。
とてもではないが、ここが危険地帯であるとは感じられない、避暑地の別荘といった風情の屋敷。
――玄関の戸が開いたのは、私がそんなことを考えていたのと同時だった。
「少し慌ててきたみたいですね、朱莉ちゃん。そこまで急がなくてもよかったのに」
「いいえ、そうもいきませんよ。『先生』を待たせるなんて、そんなこと出来ませんから」
現れた人物から発せられた言葉に、母上はそう答える。
だが、私はその二人の言葉に、思わず耳を疑わずにはいられなかった。
何故なら、その屋敷から姿を現したのが、まだ少女といっても過言ではない人物だったからだ。
年の頃は恐らく十四程度――まだ中学生程度の少女だ。
割烹着を纏い、どこか生活観のある姿をした彼女は、長くボリュームのある髪をポニーテールにし、頭の両側に紅い珠のついた髪留めをつけている。
瞳の色は琥珀色――否、金色だろうか。どこか燐光を纏い輝いているようにも見える彼女の瞳は、母上の姿を捉えて嬉しそうに細められていた。
どこからどう見ても年若い少女にしか見えないが、母上が自然に敬語を遣って話す相手だ。恐らく只者ではないのだろう。
それに、どうにも気になるものもある。
「ぐー師匠も、お久しぶりです」
「うふふ、朱莉ちゃんが来ると聞いて、ぐーちゃんも楽しみにしていましたから」
「……し、師匠?」
母上が師匠と呼んだ相手――それは、先生と呼ばれた少女の抱える、一塊もある黒い毛玉だった。
見た目は、どこかデフォルメされた、丸みの帯びた三角形にウサギの耳が生えたような姿だ。
体毛が黒い上に、体が少し膨れているため分かりづらいが、眠そうに瞳を半眼にしているように見える。
顔のパーツは少々中央に寄り気味にも見えるが、それは恐らく肥満気味であるからだろう。
口は横に大きく広がっているようだが、体毛に隠れているためあまり見えない。
総じて、謎の生き物としか形容の出来ない存在であった。
どちらも、見た目からではとても母上の師であるとは思えない。
一体彼女達は何者なのか――そんな疑問を抱いて見上げていた私に、挨拶を終えた彼女は視線を合わせてきた。
煌く金色の瞳を柔和に緩め、彼女は笑顔のままに声を上げる。
「はじめまして、仁君。私は霞之宮綾乃。昔、ここで朱莉ちゃんの指導をしていた者です。こっちはぐーちゃんと言います。よろしくね?」
「は、はい、はじめまして。火之崎……じゃなかった、灯藤仁です。よろしくお願いします」
対応は実に常識的だが、その姿だけがどうにもアンバランスだ。
見た目以上に落ち着いた――年嵩の者に見られる知性を感じさせる雰囲気。
このような場所に住んでいることも含めて、非常に謎の多い人物だと言えるだろう。
まあ、母上がこれほど信頼しているのだから、悪い人物というわけではないだろうが。
「さあ、朱莉ちゃん、仁君も、どうぞ上がって。そろそろ日も暮れそうだから」
「はい、またお邪魔しますね、先生」
彼女、綾乃と名乗った人物に招き入れられ、母上と私は屋敷の中に足を踏み入れる。
中は外から見たのとあまり印象の変わらぬ、大きな日本家屋の様相だ。
しかし、火之崎の屋敷と比べても、少々間取りが広く感じる。
彼女一人――と一匹で澄むにはあまりにも広すぎる、そんな場所だ。
「……ここには、霞之宮さんの他にも誰か住んでいるのですか?」
「綾乃でいいですよ、仁君。この屋敷ですが、住んでいるのは私とぐーちゃんだけですよ。だから、朱莉ちゃん共々、どこの部屋を使ってくれても大丈夫ですから」
こんな山奥のしかも一級の禁域に、たった一人で……果たして、それは暮らしていけるものなのか。
先ほど飛んできた時は、屋敷の裏手に畑のようなものも見えたから、自給自足の生活をしているとは思われるのだが――やはり、謎の多い人物だ。
霞之宮――いや、綾乃さんは、母上と私を引き連れて、一つの部屋へと案内する。
どうやら居間になっているらしいその空間には、巨大な木を切り出して作られたと思われる見事なテーブルが置かれており、綾乃さんは私たちにその席を指し示していた。
「どうぞ、今お茶を用意しますから」
「あ、先生? そこまでして頂かなくても……」
「もう用意しちゃってますから、遠慮しないでいいのよ、朱莉ちゃん。お夕飯の用意も始めてますから、食事がてらにお話しましょう」
そう告げて、綾乃さんは部屋を出て行く。
どうやら、隣にある台所に向かったようだ。
最近ではとても見れないような、古い竈が並ぶ台所を扉の隙間から認め、改めて彼女がここで生活をしていることを実感する。
けれど余計に疑問は尽きず、私はようやく、隣の母上に質問を投げかけていた。
「母上、ええと……彼女が、母上の『先生』なのですよね?」
「ええ、そうよ。ふふふ、やっぱりビックリしたでしょう」
「そりゃあ驚きますよ。母上の師というぐらいですから、老齢とはいわないまでも、もっとお年を召した人物だと……」
そこまで口に出して、私は改めて現状の矛盾を認識する。
母上の外見は確かに若いが、それでも既に三児の母。
姉上はもう十歳であるため、母上がここで修行を行っていたのは、どれだけ近くても十年以上前であるということになる。
しかしその時、あの霞之宮綾乃は一体何歳だったと言うのだろうか。
外見は十四歳程度。どれほど若く見えたとしても、二十歳を超えることはありえない。
どう計算したところで母上よりも年下にしかならず、私は混乱する思考に眉根を寄せていた。
しかし母上は、そんな私の様子を期待していたかのように笑いながら、楽しげに声を上げる。
「仁ちゃん。先生はね、この世で最も優れた治癒魔法の使い手なのよ。十秘蹟第九位、《神癒の使徒》。それが霞之宮綾乃」
「十秘蹟……! この世で九番目に優れた魔法使い、ですか」
この世で最も優れた十人の魔法使いに与えられる称号。
世界単位の称号であるにもかかわらず、三人が日本にいるという点にも少々驚いたが、母上の師足りうる実力の持ち主であることは納得する。
彼女は恐らく、一級の禁域の中でも容易く暮らしていけるだけの技術と実力を有しているのだろう。
だが、まだ私の疑問が解消されたわけではない。私は続きの言葉を待ち、母上の顔を見上げる。
「そしてね、先生は人間の限界を超越した――」
「ただ、寿命を取り払ってしまっただけの魔法使いですよ。朱莉ちゃん、恥ずかしいので、あまり大げさな説明はちょっと……」
「先生ったら、私は今のところ一般的事実しか言ってませんよ? 先生が十秘蹟であることも、最も優れた治癒魔法使いであることも事実じゃないですか」
「前者はともかく、後者は実際に競ったわけではありませんから……」
「治癒魔法の技術で十秘蹟に選ばれているのは先生だけなんですから、競うまでも無いと思いますけど」
お盆に茶を載せてやってきた綾乃さんは、母上の言葉に困ったような笑みを浮かべる。
だが私には、その穏やかな表情に和んでいるような余裕はなかった。
今のやり取りが事実だというのならば、まさか――
「不老不死、ですか……?」
「そう思われていることは否定しませんが、不老であっても不死ではありませんよ。外的要因で死ぬことが無い限り、私は永遠に生き続ける……朱莉ちゃんと初めて会った時も、私はこの姿でしたよ」
俄かには信じがたい言葉に、私は絶句する。
永遠の時を生きる不老の存在。それは、古くから多くの人間が夢見る秘法だ。
誰もが求めて止まず、そして何者も到達できなかったはずの、その方法。
魔法の存在するこの世界ならばと、私も多少調べたことはあるが……結論から言えば『実質的に不可能』なものだ。
神経機能、免疫機能の低下や細胞死。老化に繋がるプロセスを悉く潰すことができれば、理論的には可能となる。
だが、それはおよそ人間には不可能な魔法であるといってもいい。
人間を構成する全ての細胞に、個別に魔法を割り振るなど、不可能であるとしか言いようが無いのだから。
しかし、今目の前には、その魔法を体現した人間が存在している。
機械演算という技術が生まれた今ですら不可能とされる不老の秘法を、昔から実現し続けている存在が。
「私は少し、治癒の魔法が得意だったというだけですよ。ここまでの力を得られたのは偶然です」
「そこから更に修行をして力を高めたのは先生なのですから、謙遜することは無いと思いますけど」
「力自体を卑下はしていませんよ。ただ、己の力を過信したくないだけです」
緑茶を配膳して、綾乃さんは曖昧に笑う。
そんな彼女の言葉には、共感できる部分が多かった。
私自身、千狐という未に余る力を有しているのだから。
そんな私の内心など知る由も無いであろう彼女は、緑茶で軽く唇を湿らせて、懐かしむように言葉を紡ぐ。
「私がこの力を得たのは、とても昔の話です。具体的な年数は分かりませんが、気が遠くなるほどの四季をこの地で見送ってきました」
「ずっとここで暮らしていて、偶然母上に会ったのですか?」
「ええ、とても無茶をする子でしたから。ねぇ、朱莉ちゃん」
「あははは……お恥ずかしい限りです」
どうやら、母上はこの人に対して頭が上がらないらしい。
父上にも、祖父に対してもそういった態度を出さなかったが故に、少々新鮮ではある。
だが、そうなると、彼女の言う不老とやらは事実であると考えたほうが良さそうだ。
とても信じられるものではないが、確かに《掌握》を使ってみれば、彼女が凄まじく高度な術式を無数に張り巡らせていることが分かる。
細かな術式が、それこそ数え切れないほどに。一体どうやってこれほどの術式を制御しているのか、皆目見当も付かなかった。
「さて、仁君」
「は、はい!」
更に目を凝らそうとしたところで声をかけられ、私は思わず《掌握》を霧散させる。
気づかれたわけでは無さそうだが、少しばつが悪く、軽く頭を振って綾乃さんに向き直っていた。
彼女は、相変わらず柔和な笑みを浮かべたまま、持ってきたお茶菓子を膝に置いた謎生物に与えつつ声を上げる。
「私がどのような存在か分かったところで、今後のお話です。仁君はこれから十年間、ここを拠点として修行を行ってもらいます」
「はい……ですが、あの、大丈夫でしょうか。十秘蹟の母上や綾乃さんならともかく、私が一級禁域で生きていけるとは……」
「少なくとも、この家……この湖の周囲ならば大丈夫ですよ。私が結界を張っていますから、禁獣は入り込みません。そもそも、この辺りはぐーちゃんの縄張りですから。近寄ってくることもほとんどありませんよ」
「……綾乃さんも謎ですが、そいつも謎ですね」
されるがままにお菓子を与えられている毛玉に、私は複雑な視線を向ける。
母上が師匠と呼ぶほどだ。綾乃さん同様、この生き物も見た目通りの存在ではあるまい。
ぐーたらと綾乃さんから食べ物を与えられているだけにしか見えないが、恐らく強い力を持った生き物なのだろう。
「まあとにかく、ある程度実力をつけるまではこの周辺での訓練ですね。主な予定としては、午前中に義務教育範囲の勉強も含めた座学、午後からが実践練習になります」
「ええと、義務教育の内容は誰が?」
「私が教えますよ。ここで暮らしていると暇ですから、手慰みに教員資格なども取ったことがありますし」
普通は、手慰みで取れるものではないと思うのだが……まあ、時間はいくらでもあるということなのだろう。
まあ、ともあれ、勉学に関しては問題ないということなのだろう。
算数やら国語などはともかく、社会系科目となると前世の知識ともかなりの齟齬が発生する。
十年後となれば高校生、流石にそこからは学校に通う必要があるだろうし、義務教育はしっかりと行わなくては。
「先ほども言いましたが、私は治癒魔法に関してはそれなりに自信があります。安心してくださいね」
「ははは……よ、よろしくお願いします」
それはつまり、どれだけ壊しても治せると言っているようなものではないだろうか。
だが、厳しい訓練であることは初めから覚悟の上ではある。
不安は感じつつも、私は決意と共に綾乃さんの言葉に頷いていた。
※裏話
全シリーズに登場する霞之宮一族。
綾乃は一作目のキャラいづなのプロトタイプであり、作者の初めてのTRPGキャラでした。




