039:別れと新たな始まり
「それじゃあ朱莉、火之崎でのことは任せるよ」
「ええ、久音様。お互い、有益な話し合いができてよかったです」
終わり良ければ、とでも言うべきか。帰り際の門前にて、母上と水城久音はそのような言葉を交わしあっていた。
此度の会談では、火之崎と水城の将来に大きく影響するような内容が話し合われた。
今後、両家の状況は大きく変貌していくことだろう。
未だ、互いに対する各位はあるが、世代交代が進むにつれ、そもそも敵対の原因そのものを知らない人間も増えてきている。
漠然と敵であると認識している者もいるだろうが、己の感情を伴わぬ敵意は、決して覆せないものではない。
仮想敵国か、対岸の火事か――何にせよ、意識を変えていくことは不可能ではないはずだ。
「ああ、それと久音様……私はしばし、公務には携われなくなると思います」
「うん? お前さん、何をするつもりだい?」
「無論、仁の育成の専念です。久音様の仰るとおり、この子を大成させるには、私が付きっ切りで面倒を見るのが一番だという結論に達しましたから」
「そりゃまた……公務までほっぽり出してやるとはね」
「まあ、書類を処理する程度なら修行の合間にもできるでしょうけれども……」
交わされる会話に、私は視線を上げて母上を見上げる。
どうやら、母上は私を鍛える決意を決めてくれたらしい。
だが、まさか仕事を放り出してまでやってくれるとは思っても見なかった。
さすがに、火之崎の運営に問題が出るのであれば、そこまで迷惑をかける訳にも行かないと思うのだが……流石に、その辺の匙加減は母上も弁えているだろう。
「まあ、そういうことですから……しばし、私ともこの子とも、連絡を取ることは難しくなると思います」
「えっ……そうなの、ですか?」
「ごめんね、初音ちゃん。でも、必要なことだから」
腰を屈めて初音に声をかける母上は、本当に申し訳なさそうな様子で柳眉を歪めていた。
母上としても、私と初音を長く離れ離れにしてしまうことは本意ではないようだ。
が――それでも妥協するつもりは無いらしい。
恐らく、私の意見であったとしても、修行を取りやめることは無いだろう。
決意の固い母上に対し、水城久音はどこか呆れたような表情で声を上げた。
「まあ、こと修行に関してお前さんが妥協知らずなのは知っているけどね……せめて文通ぐらいはさせてやりな。ずっと篭りっきりでいるって訳でもないんだろう?」
「それは、確かにそうですね。文通というのも、中々ロマンがあって可愛らしいですし」
「ひひひっ、こういう古風なのもいいだろう?」
……まあ、私が言うのもどうかとは思うが、中々に古い感性の持ち主達だ。
こんな子供に携帯電話を持たせるのもどうかというのは確かだが、別に電話で話をするぐらいでも問題はないだろうに。
それとも、何か電話での会話に問題でもあるのだろうか。
一応火之崎と水城の間であるし、話をする内容には気をつけないといけないのかもしれない。
「ええ、文通については了解しました。お互いに頑張っていることを報告しあって、一緒に成長するのよ?」
「はい、分かりました。初音も、それでいいか?」
「う、うん……まだ、字はあんまりかけないけど」
「何事も勉強だ。初音ならすぐに上達するさ」
「そうかな? でも、うん、がんばる」
決意を込めて頷く初音に、私も笑顔で応える。
この子ならば、きっとすぐに上達することだろう。
文字であろうと、魔法であろうと、目的意識を持って練習する者の上達は速い。
手紙から初音の成長を眺めるのも、楽しみの一つとなるだろう。
尤も、私もうかうかとはしていられない。初音とも、そして凛とも、共に成長すると決めたのだ。
決して負けぬように、修行を重ねなければならないだろう。
「私も頑張るよ。初音に負けないように……あんなことを言わせておいて、私が成長できなかったら笑い者だ」
「だいじょうぶだよ。仁ならぜったい、強くなるから」
「そうよ、仁ちゃん。貴方なら絶対に強くなれる。私が約束するわ」
笑顔で放たれる初音の言葉と、私の頭を撫でながら告げられる母上の言葉。
その二つに勇気付けられ、私は決意を新たにする。
元々諦めるつもりなど無かったが――妥協など一切しないことを、ここに決意する。
「ああ……初音、約束しよう。次に会うときまでに、お互い必ず強くなっていることを」
「うん! わたし、仁といっしょにいられるように、がんばるからね!」
「勿論だ。私も、お前の隣に立つに相応しい実力を身につけると約束する。そして……四大に名を連ねるに相応しい実力を身につけたら、必ずお前を迎えに行くよ」
「っ……うん!」
嬉しそうに、本当に嬉しそうに初音は表情を綻ばせる。
その様子を見つめ、私は確かに満足していた。
あの襲撃事件の時のような、唐突な別れとは違う。
私も初音も、再会するその日のために、今を歩いていくことができるだろう。
車の準備が終わり、私たちの背後で、乗ってきたリムジンの扉が開く。
これ以上長引かせることはできない。だからこそ私は、あの時口にできなかった言葉を告げていた。
「それじゃあ、初音……また会おう!」
「うん! またね、仁!」
車に乗り込み、窓から外を眺める。
最後に見た初音の姿は――先ほどと変わらぬ、決意を秘めた笑顔だった。
* * * * *
水城から帰還して、母上が真っ先に向かった場所は、父上の執務室だった。
私もまだ一度も入ったことが無かったこの部屋は、どこか書生が過ごすような様相を漂わせている。
あまり私物らしいものは無く、徹底的に執務をこなすことのみに注力したかのような部屋だ。
その中央、窓際に置かれた机に着き、父上は母上からの報告に耳を傾けていた。
「成程。水城はおおよそ、こちらの提案に乗ってきたか」
「ええ。仁ちゃんも久音様に気に入られたようだし、新たな分家の設立はほぼ確定といっても間違いないでしょう」
「まあ、元から交わされていた議題ではあったがな……しかし、『灯藤』とは、また思い切った名をつけたものだ」
「こちらに最大限配慮した名前だものね。断ることは難しいわ」
水城久音の提案した、『灯藤』という新たな姓。
これは、火之崎の形式に則っていることからも分かるが、火之崎に対して最大限の配慮をした上での名づけとなっている。
これを断れば水城の面子を潰すことにもなりかねないし、せっかく修復しようとしている関係が再悪化することは間違いないだろう。
「名付け親を主張されるのも厄介だが……仕方あるまい。元より、完全に干渉を防げるとも思っていなかったからな。この程度ならば許容範囲だ」
「その許容範囲を正確に見極めてくるところが、久音様の怖いところだけれども」
「違いない」
母上の言葉に、父上は軽く肩を竦めてそう返す。
以前の言葉通り、二度と戦いたくない相手――父上も、久音相手には少々苦手意識があるようだった。
火之崎が先手を打っていたにもかかわらず、状況はほぼ五分。
水城久音がその気になれば、更に踏み込んでくることも可能だったのかもしれない。
今回は偏に、互いが互いの領分を侵さぬよう遠慮していたいことが起因であると言える。
やはり、彼女は恐るべき相手であったということか。
「世間への発表にはまだ早い……しばしの間、仁と彼女、初音だったか。彼女の錬成に注力すべきだろうな」
「ああ、その点だけど……宗孝さん。仁の育成は、私に任せてもらいたいの」
「それは俺も考えていた。適正の問題だが、仁の場合はお前との相性が最もいいだろう。他の者に任せるより、お前の方が安心できるしな」
「そう? それじゃあ、十年ほど修行をつけてくるわね」
「……ちょっと待て」
それまで報告書に目を走らせていた父上が、その母上の言葉に顔を上げる。
恐らく、父上は私と同じ心境だろう。私と父上は、僅かに表情を引きつらせながら母上へと視線を集めていた。
今の発言、ただ十年間、私の修行をつけるという意味だけではないだろう。
何故なら、母上は『つけてくる』と言ったのだ。
言葉の上だけで考えれば、まるでここではないどこかで、十年間もの歳月をかけて修行を行うように聞こえてしまう。
いや、流石にそれはないと思いたいのだが――
「……一応聞いておきたいのだが、どこで修行を行うつもりだ」
「私が修行していたのと同じところよ。懐かしいわね、宗孝さんと出会ったのもあそこだったかしら」
「ああ、あそこか……まさか、あんな所に十年も篭ってくるつもりか?」
「はい、そうだけど?」
さも当然といわんばかりに母上が告げたその言葉。
それを耳にした父上は、大きく溜息を吐いて頭を抱えていた。
母上の前だからか、或いは他者の目が無いからか、父上の態度はいつもよりも感情的なものになっているようだが――それにしたところで、父上にしてはあまりにもリアクションが大きすぎる。
一体、母上は私に対してどのような訓練を課そうとしているのか。
こと訓練に関しては凄まじく厳しいあの父上にこのような反応をさせるとは……一体、どうなっている?
「……公務はどうするつもりだ?」
「書類は近場の拠点に届けてもらえれば大丈夫。流石に、緊急を要するものに反応が遅れてしまうのは危険だから、それは宗孝さんにお任せしたいのだけど……」
「まあ、その対処をするのはやぶさかではないが……お前が出向かねばならない場所もあるだろう?」
「そこは宗次朗様にお願いするわ。あの方も宗家ですし、むしろ私よりも立場としては上ですもの。仁の錬成のためならば、宗次朗様も協力してくれるでしょう?」
「父ならば確かに、そう言われれば納得するだろうが……」
父上は苦い表情で眉根を寄せる。
一体何がどうなっているのか――嫌な予感を覚えつつも、私は恐る恐る二人へと問いかけていた。
「あの、父上、母上……その私の修行は、一体どこで行うのでしょうか」
「ああ、ごめんなさいね、仁ちゃん。話し込んじゃって……修行場所はね、山よ」
「……山?」
「そう。山よ、山。修行といえば、やっぱり山篭りよね」
山。山で山篭り。
確かに、修行と言われるとそういったイメージがあることは否めないのだが――若干信じがたいという思いを込めて父上へと視線を向けると、彼はどこか沈痛な表情で首を横に振っていた。
どうやら、母上は冗談でも何でもなく、本気で言っているらしい。
「懐かしいわ……私と宗孝さんが出会ったのも、あの山なのよ。出会い頭にプロポーズされてしまって、私びっくりしたわ」
「ん、んんっ! 朱莉、今はその話はいいだろう」
頬に手を当て、僅かに紅潮させながら語る母上の言葉を、父上が若干慌てながら遮る。
この二人の若かりし頃の話にも興味はあるのだが、それよりも今は自分の置かれた状況を把握しなくては。
まさかとは思うのだが――
「あの、ええと……私の聞き間違いでなければ、これから十年間、山に篭って修行を行うということのようでしたが」
「ええ、その通り! 私の時はもっと時間がかかってしまったけど、今はある程度方法が分かっているからね。頑張って十年に収めるわ」
にこやかに首肯され、私は途方に暮れる。
十年――五歳から十五歳まで、ずっと山の中で過ごすというのか。
いや、強くなることに妥協するつもりはないし、母上の訓練を受けられるのならば否は無い。
無いのだが……流石にそれはやり過ぎではなかろうか。
「……義務教育とかは」
「大丈夫、四大の一族は義務教育よりも能力の錬成を優先していいのよ。尤も、勉強をしないわけではないわ。ちゃんと教師ができる人もいるから、その人から学べば義務教育を修了させたことにできるわ」
どうやら抜かりは無いらしい。母上は、本気で私を育てようとしているのだ。
しかし、流石に十年は長い。その間、私は凛にも初音にも姉上にも会えなくなってしまうのだ。
だが……逆に言えば、これはチャンスでもある。
多忙な母上の時間を、十年間も貰うことができるのだ。
強くならねばならない私にとって、これ以上ないチャンスであることもまた事実。
覚悟を決め、私は視線を上げる。
「……分かりました。母上、お願いします」
「ええ、その意気よ! 仁ちゃんを必ず、一流の魔法使いにして見せるわ!」
――そう意気込む母上の姿に、私は期待と不安の両方を同時に覚えていたのだった。