038:幼き日の誓い
先ほど会談の場となっていた、この広い部屋。
その中に二人きりで残され、私は困惑を抱かずにはいられなかった。
確かに、話し合いの場が欲しかったことは事実であるのだが、あの話の後ではさすがに平静ではいられない。
婚約者となった初音を相手に、どんな話をしていいのか、私でも思い浮かばないのだ。
しかも、周囲を流れる魔力は未だに消えていない。
この水城の屋敷内全体を支配しているのだろうが、それはつまり、私たちの話も水城久音には筒抜けであることを示している。
『今更ではないのか、あるじよ? あの女には、既にお主の本心を隠すことなく話していよう。今更恥が増えたところで変わらんよ』
『いや、恥と言うわけではないが……まあ、さすがにそこまで無粋ではないことを祈ろうか』
まあ、水城久音には既にあれだけ話してしまっているのだ。
今更と言えば今更だろう。それよりも、今この場にいる私と初音を保護することのほうが重要なはずだ。
今の私たちの立場は、重要かつ不安定なものになってしまっている。
四大の一族を繋ぐ分家――それがどれほどの価値を持つのかは、考えずとも分かることだ。
だが同時に、古き一族の人間には受け入れがたい内容であるということも容易に判断できる。
そういった連中が、私たちにちょっかいを出してこないとも限らないのだ。
だからこそ、この水城久音の監視は、私たちの護衛も兼ねているのだろう。
そう考察をしていたところで、私に張り付いたままだった初音が、ようやくゆっくりと体を離していた。
未だ顔は赤いが、それでも落ち着いた表情には戻ってきている。
「……仁。あの、あのね」
「ああ、何かな、初音?」
このようなやり取りも、随分と久しぶりに感じる。
幼く無垢で、優しく無邪気な――私の良く知る、初音の姿。
だが、今日の彼女は、その表情の中に決意の色が見えたような気がした。
今までにはない、強い意志の表れ。その気配に引かれて、私は彼女の言葉に深く耳を傾ける。
「あのね、仁……たすけてくれて、護ってくれて、ありがとう」
「……それは」
初音から告げられた言葉に、私は思わず困惑していた。
確かに、あの連中を倒したことで、初音の安全も確保されたことは事実だろう。
連中の狙いが私や凛たちだったとはいえ、他国の人間であったならば、水城の弱体化を狙った可能性も高い。
だが、私に出来たことはほんの一部だけだった。私が初音を護ったなどとは、口が裂けても言えないだろう。
「私は、直接初音のことを助けられたわけではないさ。母上が来てくれなければ、結局全てが無駄になっていた」
「でも、仁ががんばってくれなかったら、朱莉さんもまにあわなかったでしょ?」
「それは、そうかもしれないが……」
私や凛が捕らえられた後で母上が到着していたら、一体どうなっていたことか。
正直、どのような対応になるのかは想像することもできないが、今よりも状況が悪くなっていたことは事実だろう。
困惑する私に、初音は僅かながらに笑みを浮かべながら続ける。
「だから、ありがとうなんだよ、仁。たすけてくれて、ありがとう」
「……ああ、どういたしまして」
初音の意思は固い。私がいくら否定したところで、意見を曲げはしないだろう。
苦笑し、私は頷く。この子も、中々したたかになったものだ、と。
だが――初音の言葉は、それだけでは終わらなかった。
「でもね、仁……わたし、心配したんだよ」
「ぬ……」
初音の言葉の中に、怒気が混ざる。
珍しい、というよりは初めての、怒りの混じった言葉であった。
眦を吊り上げ、私の服を握り締めながら、初音は不満げに私を見つめる。
仕草が可愛らしいが故に迫力こそないが、発せられている怒りは確かに本物であった。
「窓から見てて、仁がきずだらけになって……わたし、心臓がとまっちゃうかって思ったんだから」
「……やはり、見ていたのか」
あの時、霧の中で初音に化けた久音が言っていた言葉は、確かに初音自身が考えていたことでもあったらしい。
だとしたら、大層心配をかけてしまったことだろう。
無茶が過ぎたことは自覚しているし、心配をかけてしまったことは反省している。
だが、私は――
「すまない、初音。本当に心配をかけてしまった。我ながら、本当に無茶をしたものだとは思っている」
「そうだよ、仁。仁は、むちゃしすぎなんだよ」
「返す言葉もない。だが、私は――」
「――わかってても、そうしちゃうんだよね」
告げられた言葉に――私は目を見開いて、まじまじと初音のことを見つめていた。
初音は、淡く笑みを浮かべている。いつもの無邪気な表情とは違う、どこか大人びた表情。
彼女の印象と噛み合わず、ひょっとしたらまた久音に化かされているのではと疑いながら、私は目を瞬かせていた。
この子は、一体何を――
「仁は、強いから。仁はぜったい、あきらめないから。ずっとずっとがんばって、がんばり続けちゃうんだよね」
「私は……強くなど、ない」
「ううん、仁は強いよ。おとうさまよりも、おばあさまよりも……仁は、だれよりも強い人だから」
どこか大人びた表情で笑いながら、初音はそう告げてくる。
分からない……なぜ彼女はこうも、私のことを信用している?
純粋に、戦闘能力の強さという意味で、強いといっているわけではないだろう。
彼女も、四大の一族のトップがどれほどの力を持つのか、おぼろげながらにも分かっているはずだ。
初音が強いと表現しているのは、もっと別の部分のはずだ。
尤も私の強みと言えることなど、精々この諦めの悪さ程度しかないだろうが。
「仁は強いから……きっと、どんどんさきに行っちゃうんだよね」
「私は……私は強くなりたいと、そう願っている」
「うん。わたしはね。仁に、『まって』って言いたくないの。『まつだけの女はおいていかれるだけだ』って、おばあさまも言ってたから」
いや、待て。あの女傑はこんな子供に一体何を教えているんだ。
間違っているとも言いがたいが、そんな極端な話にすることはないだろうに。
恐らく、初音が感じているのは、漠然とした危機感だろう。
私と己を比べて、己がずっと子供であることに距離感を感じてしまっている。
その距離感を『置いていかれている』と感じて、必死にその距離を埋めようとしているのだ。
「わたしはね。仁のお嫁さんになれるの、すっごくうれしいんだよ。でも……わたしはもう、見てるだけなんてイヤだから」
「初音、お前は……」
「なにもできないのは、もうイヤなの。置いていかれちゃうのも、こわい。だからね、仁。わたしも、もっともっとがんばるから」
どこか縋り付くように、初音は私の服を握り締める。
瞳の奥に、強い決意の意志をこめながら、私の目をじっと見つめて。
初音は――それでも、どこか柔らかな笑みを浮かべていた。
それはまるで、私を安心させようとしているかのように。
「わたしも、強くなる。仁にまけないように、強くなるから。仁が、わたしのせいできずついたりしないように、強くなるから! だから……みてて、仁」
幼い子供の言葉ではある。
経験も無く、先のことを見据えることなどできるはずもない。
無鉄砲で、思慮の足りない、大人として諌めねばならないもののはずだ。
苦難に道を行くことは悪いことではない。だが、一時の感情でそれを決めてしまうのは、あまりにも危険すぎると。
だが――初音のその言葉は、確かに私の胸を打っていた。
まじりっけの無い、ただ純粋な彼女の言葉。それを無碍にすることは出来ないと、何よりも私自身の心が感じていたのだ。
「……初音、お前は強くなるだろう。生憎と、私はお前が期待するほどに強くなれるかどうかは分からないが……」
諦めるつもりは無い。だが、困難な道であることは理解している。
制御力こそかけているが、初めから才覚のある初音とは比べるべくも無いだろう。
しかし、こうも期待されてしまっているのだ。
初音は、私のために苦難の道を歩もうとしている。私のために、強くなろうとしているのだ。
本来ならば、留めるべきなのだろう。
だが、並々ならぬ決意より生まれたその言葉を、私には止めることは出来なかった。
「私も強くなろう。お前の隣に立つに相応しい男となれるよう。火之崎と水城、その架け橋となる分家当主に相応しい人間となれるよう。お前の立場を、誰にも文句など言わさせぬように」
今の私では、とても分家の当主など名乗れまい。
父上の領域は遥か遠く――他の分家当主たちの領域ですら、その影すら見えない状態だ。
強くならねば、初音が決意したこの選択すらも、後悔させてしまうことになりかねない。
「私は、必ず強くなろう」
「……わたしのため?」
「その聞き方は久音様に聞いたのか? まあ、間違いではないが……私は、家族のために強くなる。お前とて例外ではないさ、初音」
「……むぅ」
私の返答に――初音は、僅かながらに不満そうな表情を見せていた。
何か、間違ったことを言っただろうか。そう思いながら僅かに首を傾げると、初音は小さく溜息をつき、再び笑顔を浮かべる。
この反応は……また誰かに、何かを教え込まれたのだろうか。
「まだ、今のわたしじゃダメだね。もっとがんばらないと」
「……すまん、私は何か悪いことを言っただろうか。何か気に入らなかったか?」
「ううん、うれしかったよ。でも、もっとがんばって『おんなをみがけ』って、婦長も言ってたから!」
「あの人の仕業か」
しばらく会う機会はないと思っていたのだが、私の見ていないうちに、初音に対して一体何を吹き込んだのか。
頼りになる女性ではあるのだが、何かと教育上あまりよろしくないことばかりしている人物でもある。
水城久音といい、婦長といい、初音の周りにいる女性は、少々不穏な気配ばかりしている気がするのだが。
一体、初音をどこに向かわせようとしているのだろうか。
「一体、婦長に何を言われたんだ? あまり間に受けてはいかんぞ?」
「へんなことじゃないよ。女の子としてとーぜんのことだって」
「……確かに女の子の話と言われると、口は出し辛いのだが」
その辺まで含めて、初音には言い含めていることだろう。
付き合いはそれほど多くなかったものの、あの人は人間観察に長けている節がある。
あの事件の間で、私の性格はしっかりと把握されてしまっているはずだ。
こういった言い方をすれば私が聞きづらいと、恐らくは婦長も分かっているのだろう。
全くもって、厄介な人物である。
「しかし、あの後で婦長と会う機会があったのか? 私も挨拶はしておきたかったんだが」
「あっ、婦長はね、わたしの従者をやってくれるんだって」
「……あの事件の後、水城に拾われたということか?」
「うん! あ、もう婦長じゃないよね」
あの人の名前は……苗字の皆瀬しか知らないな。
しかし、彼女が初音の従者になるとは……いかんな、何を吹き込まれるか分かったものではない。
まあ、初音が喜んでいることは事実であるし、あの入院のせいで初音は従者を得づらい状況にある。
信頼できる仲間を得られたことに、喜んでおくべきなのだろう。
「ああ、まあ……お前の傍にいてくれる人が増えたことに、安心しておくべきなんだろうな。だが、あまり婦長の言うことを真に受けるなよ?」
「そうなの?」
「ああ、気をつけるんだぞ」
小さく嘆息し、改めて笑みを浮かべる。今後の展望を、己が胸裏に抱きながら。
お互い、未来には不安ばかりのみではあるが――一つ、目標が出来たことは事実だ。
私は、初音の婚約者として相応しい実力を身につけること。
初音は、私についていける実力を得ること。
彼女がこの選択を後悔せぬよう、私自身、更なる努力を重ねなければならないだろう。
『あるじよ。外の気配が近づいてくる。話し合いの時間はそろそろ終わりのようじゃぞ』
「そうか……初音」
「ん、どうしたの?」
体を離し、首を傾げる初音の姿。
美しい蒼玉の瞳を見下ろしながら、私は最後に、彼女に対して本心を吐露していた。
「改めて、初音……これからも、よろしく頼む。お前が共に歩んでくれるなら、私は生涯を懸けてお前を護ろう」
「っ……うん! わたしも、ずっと付いていくから!」
今はまだ、幼い約束に過ぎない言葉。
根拠も保証も何も無い、簡単に千切れてしまいそうな繋がり。
――だが、これがいつまでも続く契約になることを、私たちは直感的に予感していた。