037:手に入れたもの
世界のすべてが白い霧の中に溶け――そして、視界を覆う白霧はゆっくりとその姿を薄れさせていく。
そして、目に入ってきたのは、元々いたあの部屋の光景であった。
どこか夢見心地だった感覚も元通りになり、私は体の各所を確かめながら現状把握に努めていた。
と、そこに、心配そうな様子の母上が声をかける。
「仁ちゃん、大丈夫? おかしなところは無い?」
「ええと……はい、大丈夫です」
《掌握》を使って己が肉体の状態を確かめたが、特に問題らしい問題はない。
あの霧の影響を受けていた五感も戻っているし、異常が存在しないことは確認している。
今になってみれば、どこかふわふわとした奇妙な感覚であった。
それに違和感を覚えさせないからこそ、意識を支配する幻術というものは恐ろしい。
魔力によって精製された薬物まで併用しているというのだから、なおさらだ。
しかし、薬物を使っていたというのに、残留した様子が一切無いとは思わなかった。
人間の意識に干渉するような効果を持つものだ。多少は後遺症があると思っていたのだが――
『あの霧に含まれていた薬物とやらは、魔法によって生み出された特殊なものじゃ。錬金術とも異なり、その効果は術式によって維持されておった。つまり――』
『術式が切れれば、薬物の効果も消えるということか』
『効果の自由度は高いが、いつまでも効果を残留させることはできない。魔力によって抵抗することも可能であるし……まあ、一長一短といったところじゃの』
千狐が知っているということは、水城固有の術式というわけではないのだろう。
或いは、その効果の内容そのものが水城の秘伝なのかもしれないが、ともあれ後に影響を残さないのは助かった。
前世からも、薬物の恐ろしさは嫌と言うほど良く分かっている。
それが己に投与されたとなれば、ぞっとしない話だ。
その点、術式によって作られたこの効果は、解除されればそれまでであるため、ある程度気が楽ではあるが。
「霧の中でも特に危険があったわけではありませんでしたし、大丈夫です」
「そう……良かったわ。頑張ったわね、仁ちゃん」
安堵したように笑みながら、母上はそう声を上げる。
母上にしても、私が被害を被るはずがないとはわかっていたはずだが、やはり親心というものか。
安堵した様子の母上に頷き――ふと、動く気配を感じて私は視線を横へと向けていた。
視線の先は、あのカーテンの向こう側。
それまで動く気配を見せなかった、部屋を区切るその布が――今、独りでに動いてゆっくりと開こうとしていた。
「ひひひっ! 楽しませてもらったよ、坊や」
その先に現れたのは、座椅子に座る一人の女性の姿。
肘掛に頬杖を付き、不敵な笑みを浮かべる一人の女性。
外見については、想像よりも随分と若く見えるだろう。三十代後半と言われても、それほど違和感はないはずだ。
母上と同じように着物を纏い、色鮮やかな青の瞳を輝かせる、床に着くほどの長い黒髪の女性。
水城久音――水城の先代当主たる彼女は、その腕の中に初音を抱きながら、楽しそうに笑みを浮かべていた。
唐突に現れた初音の姿に、私は思わず目を見開く。
私はこれまで、初音の気配など一切感じ取ることができていなかったのだ。
周囲を支配する、この久音の魔力の流れ――この内側に隠蔽され、気づくことができなかったのだろう。
私が驚きに目を見開く様子を、久音はどこか満足そうな笑みで眺めていた。
そしてひとしきり笑った彼女は、腕の中の初音へと告げる。
「……もういいよ、初音や。行ってきな」
「っ、仁!」
小さく声をかけ、久音は腕の中から初音を解放する。
その途端、幼い少女は立ち上がると、一直線に私に駆け寄り――そして、飛びつくように抱きついていた。
彼女の小さな体を受け止めて、その姿を見下ろす。
初音は、私の胸に顔をうずめたまま、じっと抱きついて動こうとしない。
驚き、一度引き剥がそうとしたが、ふと初音の耳が真っ赤に染まっていることに気がついた。
ぐりぐりと胸に顔を押し付けてくる初音の様子に面食らいつつ、私は久音へと問いかける。
「久音様。一体、初音はいつから?」
「ひひひっ、最初からに決まってるだろう? お前さんの、あの霧の中での言葉も、しっかり全部聞いていたさ」
その返答に、私は思わず顔を引きつらせる。
我ながらではあるが、かなり恥ずかしい発言をしてしまっていた自覚はある。
相手が久音だからこそ、それをしっかりと伝えるべきと考えていたのだが――まさか、それを逆手に取られるとは。
ある程度彼女のことを出し抜けたと思っていたのだが、やはり久音の方が一枚上手だったか。
「ひひひひっ、問題はなかろう? あの言葉は元々、初音に向けられるべきものだ」
「否定はしませんが……こんな不意打ちは流石に困りますよ」
「男ってのは、正面に立ったらいつまで経っても言わないだろう? ああいう情熱的な言葉を聞いて、喜ばない女はいないもんさ。だったら、無駄に垂れ流させるなんて勿体無いにも程があるってね」
からから笑う久音の姿に、私は嘆息を零す。
流石に、相手が子供であるといっても、気恥ずかしさは感じてしまうものだ。
ああも柄でもない言葉を、本人に聞かれてしまうとは。
ぐりぐりと顔をこすり付け、沈黙したままの様子の初音に苦笑し、私は軽く彼女の肩を抱く。
ピクリと震えるが、それでも私に体を預けたまま、初音は少しずつ力を抜き始めていた。
久しぶりの再会ではあるが……随分と、思わぬ形になってしまったものだ。
話したいと思っていたこともすっ飛んで、どうしたものかと考えあぐねていると、間を埋めるかのように静久が声を上げた。
「さて、先代。此度の試練の結果ですが――」
「成功も成功、大成功ってもんだよ。ひひひっ、まさかあの宗孝の息子が、こんな風になってるとはねぇ。血は争えないってところかね?」
あの霧の空間でも言っていてくれたことだが、どうやら水城の先代当主は、私のことを認めてくれたようだ。
ならば、次の一言こそが重要となるだろう。水城で絶大なる発言力を持つ、彼女の言葉が。
その期待に応えるかのように、背筋を伸ばした久音は、この場に集う者たちへと向けて厳かに告げる。
「水城が先代当主、水城久音の名において、水城の子たる初音と火之崎の子たる仁の婚約を認め、全面的に支援すると宣言しよう」
「では、分家たちへの説得は……」
「ああ、任せてもらおうかね。ひひひっ、生意気な連中を黙らせるのが楽しみってモンだ。まさか、あたしの《夢幻水牢》を正攻法で破った奴相手に、文句なんか言えるはずもないだろうからね」
「なんと……!」
久音の言葉に、静久は驚いた様子で私に視線を向ける。
正直なところ、破ったというよりは久音を見つけただけで、そもそも正攻法と言えるのかどうかすら微妙なところだったが、久音が協力してくれる以上は何かを言及する必要もないだろう。
おおよそ、満足すべき結果に落ち着いたはずだ。
「彼の精霊は、それほどの力があったということですか?」
「うんにゃ、あたしの術を破ったのは、ほとんどその坊やの力さ。精霊魔法を使わなかったという訳じゃないみたいだがね。まだまだ未熟なのは否めないが、良い発想をしている。鍛え甲斐があるんじゃないかい、朱莉よ」
「……はい、私も成長が楽しみですから」
私の無事を確認してようやく落ち着いたのか、母上は久音の言葉に笑顔で答える。
少々持ち上げられすぎな気もするが、まあ今は売り込んでおくべき場面だ。これはこれでいいだろう。
「楽しみだって言うなら、お前さんが鍛えてやりな。その子とは、お前さんのほうが相性がいいだろう?」
「久音様?」
「魔力の不足、感応能力の欠如。お前さんなら、それを補う術を教えてやれる。逆に、それ以外では大成のしようがない。お前さんがどれだけ時間をかけてやれるかが、その子の将来に繋がるだろうね」
その言葉に、母上は視線を伏せる。
だがその表情は、葛藤しているというよりも、黙考しているもののように思えた。
私にとってもありがたい話であるが、母上にとっても考える余地があるものだったのだろう。
母上の修行であればぜひとも受けたいところであるが、果たしてどうなるか。
「ま、それは火之崎のほうで決めるといいさ。お前さんなら、悪いようにはしないだろう」
「……はい。こちらでも、調整することにします」
「うむ。では、最後に、この子供たちに与えるべきものを決めるとしようか」
その言葉に、私は首を傾げる。
私と初音に与えられるものとは、一体何を指しているのか。
彼女から特に受け取るようなものはないはずなのだが――そう考えていたところに、笑みを交えた久音の声が響く。
「水城と火之崎の間には、新たなる分家が設立される。両家の宗家から輩出された人間によって。であるからこそ……あたし自身の名において、お前さんたちに新たな姓を与えよう。ま、初音はまだ水城だが、お前さんはそろそろ火之崎を名乗るわけにも行かなくなるだろう?」
「それは……確かに、そうですが」
「久音様、確かに久音様の提案であるならば無視はしませんが、火之崎でも吟味する必要はありますよ」
「それで構わんさ。両家の間に立つ分家、それに相応しい名を考えてあるからね」
笑いながら、久音は軽く腕を振るう。
瞬間、周囲に漂い始めたのは、あの時と同じ甘い香りだ。
藤の花の、甘い蜜のような香り。しかし、今回は意識を奪われるようなこともなく、私は久音の言葉に耳を傾けていた。
「仁。お前さんは、我ら水城と、お前さんら火之崎の両者を象徴する名を得なければならない。故にまず、火之崎から――朱莉の子であるお前には、『灯』の字が相応しいとあたしは考えている」
「……確かに、それならば火之崎の分家としても問題はありませんが」
火之崎の分家の名には、どこかに『火』の文字が入るようになっている。
若干燈明寺とも被ってしまうような気がするが、『灯』という字は今のところどこの家にも使われていない。
その字を使うことに関しては、問題はないだろう。
だが、そうなると、水城の場合は水を表す字を入れる必要があるということだろうか。
流石に、『灯』の字とは相性が悪い気がしてならないのだが。
「そして、水城から――あたしの展開した《夢幻水牢》を破ったそのきっかけにして、水城を象徴する花。藤の花より、『藤』の字を」
この甘い香りの中心で、それを展開した張本人たる久音は笑う。
まるで、この香りを――あの空間に咲き誇っていた紫の花を、自慢するかのように。
彼女は、恐らくこの花が好きなのだろう。
香として用い、魔法の触媒に使い、そして幻影の空間の中にも忠実に再現した、あの藤の花。
それを私に、火之崎の一員であるはずの私に授けるということは、彼女にとっては最大限の賛辞なのかもしれない。
「『灯藤』――灯藤仁、それがお前さんの新たな名だ」
「灯藤、ですか……」
久音の提案した、新たなる分家の名前。
その名をしばし口の中で反芻して、母上はゆっくりと顔を上げる。
表情の中には、穏やかな色の笑みを浮かべながら。
どうやら、この姓を母上は気に入ったらしい。
「火之崎としても、問題はないように思えますね。戻ったら、当主に提案させていただきます」
「そうするといい。宗孝も、きっと気に入るだろうさ」
そう告げて、久音は笑う。
どこか勝ち誇ったような、そんな笑みだ。恐らく、この提案が覆されることはないと、そう考えているのだろう。
何故なら、この姓は、水城が最大限に譲歩した形の姓だからだ。
直接的に水を表現する文字はなく、それどころか火之崎の形式則って、その上で母上の名そのものをもじった形としている。
更には、水城を象徴するという藤の字まで使っているのだ。
たとえ水城からの提案であろうとも、これを蹴ることはできない。
お互いの立場上、それは不可能なのだから。
「さて、面倒な話はここまでだ。どうせ、長居するつもりはないんだろう? 帰り支度の前に、少し時間をやってはくれないかね」
「ええ、いつまでもここにいては、水城の方々を刺激することになりますから……しかし、時間とは?」
「その子たちだよ。必要だろう?」
いって、久音は私と初音を示す。
どうやら――少しばかり、話をする機会が巡ってきたようだ。




