035:藤花
黒い魔力がざわめき、揺れる。
それが滲み出している根本は、その使い手たる火之崎朱莉の肉体だった。
体外を循環し、魔力の鎧を形成しながら、朱莉は怒りに満ちた声で水城久音へと問いかける。
「これは、どういうことですか。何故、私の子にこのような仕打ちを?」
「……落ち着いてください、朱莉殿。今、先代に返答をする余裕はありません」
ゆらりと立ち上がる朱莉に対し、それをなだめようと声を上げたのは、正面に座る静久だった。
とは言え、その声は若干ながら上ずっている。
水城において当主を務める彼ではあるが、戦闘能力という点においては、間違いなく朱莉に分があるのだ。
彼の従者達も朱莉の動きに警戒して備えてはいるが、その顔は隠しきれない恐怖に引きつっている。
十秘蹟第五位――世界で五番目に強力な魔法使い。
その称号は決して伊達などではなく、彼女を打倒し得たのは、火之崎宗孝を置いて他にいないのだ。
そんな彼女の怒りを正面から受けつつ、それでも静久は言葉を連ねる。
「先代が使われているのは、水城の奥義が一つ《夢幻水牢》。これは本来、十人以上の魔法使いが協力して使用する魔法です。いかな先代とは言え、今は言葉を返す余裕はありません」
「ならば貴方が答えなさい。何故、彼女はこの子にこのようなことを?」
地の底から響くかのような、怒りと魔力に満ちた声。
朱莉の示す先には、球体状になった白い霧に包まれる仁の姿があった。
その姿に、朱莉の漆黒の魔力は更に密度を増していく。
完璧に制御されているとは言え、僅かな揺らぎだけでも人が消し飛んでしまうほどの力に満ちているのだ。
それを前にした恐怖に耐え、静久は説明役を押し付けられた恨みを内心で吐き出しながらも言葉を連ねていた。
「此度の提案において、水城の面々からの了解を取り付けるためです。先代を、ひいては火之崎との繋がりを否定する者たちを納得させるためのものです!」
「久音様は、まだ納得していないと? この方の言葉ならば、貴方達を納得させるなど難しくは無いでしょう」
「仰るとおりです。ですが、先代は自らの目で、自らの耳で判断しなければ納得されません。先代は、こうしてご子息を試されているのです」
水城において、未だ特大の発言力を有する先代当主。
水城の栄華を築き上げた人物であり、彼女の影響は未だに大きい。
そんな久音の言葉であれば、確かに水城の人間たちを納得させることができるだろう。
それが水城にとっての益となると、確信出来るようになるはずだ。
だが、他ならぬ彼女自身を納得させるには、仁自身がその実力を示さなければならないのだ。
「逆に言えば、先代さえ納得してくだされば、全ての問題が解決します。危害を加えるつもりはございません。先代はただ、彼を試されているだけなのです」
「……いいでしょう、今は矛を収めます」
その言葉と共に、朱莉が発現させていた漆黒の魔力が収束する。
その様子に静久は安堵の吐息を零し、そして朱莉が立ち上がるときに手を着いていたテーブルの痕を見て、思わず眉根を寄せていた。
朱莉が手をついたその部分だけが、削り取られたかのように欠損していたのだ。
(……《黒蝕纏魔》。火之崎朱莉の最大にして最悪の武器。こんな化け物を相手に足止めをしろなどと、無茶にもほどがある……先代、頼みますよ)
人間の――否、生物の有する魔力には、それぞれの個人に個別の特性が存在している。
朱莉の場合、この万物を削り取る漆黒の魔力こそが、彼女自身の特性なのだ。
この『魔力特性』は何かで検査することができるわけではなく、気づけるかどうかも運に左右される。
これ以外の武器を持たなかった朱莉は、属性の魔力にも恵まれず、そもそも一部の魔法以外を発動させることができなかった。
結果として彼女は才無しとして処分され――最終的に、宗孝に見出されることになったのだ。
結果として見れば、土御門は大きな力を失ったことになる。
この教訓があったからこそ、四大の一族は一見才能不足に見える人間の処分に慎重になっているのだ。
その点、此度の分家の話は、初音の落とし所としては最適であるとも言える。
当主としての打算と、父としての贔屓目。それらを含め、静久は霧に包まれる仁へと視線を向ける。
(どうか、先代の目に適うよう、努力して貰いたいものだ)
内心でそう告げて、静久は再び、いつ暴発するかも分からない爆弾の監視へと戻ったのだった。
* * * * *
当たりをつけて、私は霧の中を歩き始める。
予想通りというべきか、運良くと言うべきか――私の仮説は、ある程度当たっていたようだった。
尤も、残されていたこのヒントが、わざと残されていたものなのかどうかはわからなかったが。
もしもわざと残されていたものの場合、何かしらの干渉がある可能性が高い。
警戒は決して怠らず、周囲への注意を更に高めながら、私は建物の中から外へと足を踏み出していた。
「これは……霧が無い時に散歩してみたかったものだな」
『こうも濃い霧が漂っておってはな。足元には気をつけることじゃな。下手をすると小川や池に落ちるぞ?』
「どうにも知覚を遮られるようだからな。注意しておこう」
千狐の言葉に肩を竦めつつ、私は当たりをつけた方向へと向けて歩き出す。
濃い霧に包まれ、10メートル先はもう何も見えないというほどの状況であったが、その狭い距離の中でさえ、水城の庭園は見事なものだった。
だが、それでも僅かながらに違和感が残る。
砂利道を進んでいるにもかかわらず足音も聞こえないのでは、違和感もひとしおだった。
こんな場所をゆったりと散歩で斬れば気分も落ち着くのだろうが、流石に難しいだろう。
さて、向かう場所は――
「……向こうか」
『池があるのぅ。迂回する必要があるようじゃな』
「この霧の中だと、危ないな」
軽く肩を竦め、池が視界に入るように注意しながら進み始める。
一歩間違えれば、池の中に真っ逆さまだ。通常の世界ならばまだしも、この異様な幻覚の空間で水に落ちたらどうなるのか、さっぱりと想像がつかない。
慎重に池のほとりを回り、木造の橋を発見した私は、そこに異常がないことを確認してから対岸へと渡っていた。
ここまで変化は何もない。ただ、痛いほどの静寂に満ちた世界が広がっているだけだ。
「……近いな。この辺りか」
『お主の勘は馬鹿にできんのぅ』
私にとっては生命線とも言える感覚だ。しっかり働いてくれなければ困る。
尤も、全く根拠の無い感覚というわけではないだろう。
直感というものは、それまで積み重ねてきた経験則から導き出される感覚だ。
世界が違えども、生きている人間が完全に異なるわけではない。
だからこそ、人間の持つ無意識的な癖などから発した情報は、今でも私の直感に引っかかるのだ。
「いるだろうな。この先だ……さて、鬼が出るか蛇が出るか」
橋を渡り終え、その場所へと足を踏み入れる。
そこは――木枠の連なる小道。紫の、藤の花が垂れ下がる並木道。
強く甘い匂いに包まれたそこは、まるで匂いそのものが霧と化しているのではないかと錯覚するほどの場所。
その真ん中には――一人の、少女の姿があった。
「っ……初音?」
背中しか見えないが、その姿を見間違えるはずがない。
烏の濡れ羽色の髪を揺らし、幼い少女はこちらへと振り返る。
大きく輝く蒼い瞳は、私の姿を認めると嬉しそうに綻んでいた。
「会いたかったよ、仁」
「初音? お前は、どうしてここに?」
「お婆様に、お願いしたの。仁と会いたいって」
嬉しそうに、にこやかに、初音は私にそう告げる。
まさか、水城久音は、初音の願いからこのような試練を始めたということなのか。
ありえないとは言いがたいが、そのようなやり取りがあったとは露ほども考えていなかった。
しかし――
「ねえ、仁」
「……どうした、初音?」
私の思考を遮るかのように、初音が声を上げる。
その続きを促せば、彼女は僅かに目を細めて声を上げていた。
「仁はどうして、あの時怖い人に向かって行ったの? 仁だって、危なかったのに。大怪我しちゃったのに。私、仁が心配だったんだよ?」
「……それは、悪いことをしたな。だが、私にはどうしても必要なことだった」
――既に考えは纏まっている。ならば、この問いに答えることの方を優先すべきだろう。
とは言え、言うまでもないことだ。心配はかけてしまっただろう。大怪我をしてしまった事実は、覆しようがない。
だが、それでも――私の取る行動は、何一つ変わりはしないのだ。
「私は家族を護りたい。何物にも変えがたい、大切な宝物を。だから戦うんだ。例えどれほど傷ついたとしても、私は諦めるわけにはいかない」
「死んじゃったかもしれないんだよ?」
「否定は出来ないな。だからこそ、私は誰よりも強くなりたい。全ての家族を……父上や母上すらも、護れるほどに。そしてお前もだ、初音」
「え……?」
私の言葉に、初音は目を見開く。
その反応に小さく笑いながら、私は考えていた言葉を告げていた。
「私は家族を護りたい。私の中にある願いはそれだけだ。けれどあの時……私は確かに、お前のことを護りたいと思ったんだ」
偶然に縁を結んだ少女。血の繋がりどころか、付き合いすらもそう長いわけではない。
だがそれでも……あの病院での日々、私たちは確かに共に暮らし、そして共に歩んできたのだ。
私は、初音と縁を結べたことを喜ばしく思っている。
――そう、気づかぬうちに思ってしまっていたのだ。
「私は……お前のことも、家族だと思っている。お前のことも護りたいと、そのためならばこの力を尽くすと――そう思っているんだ」
私は、初音のためならば《王権》を使うことを躊躇わないだろう。
護るべきもの、大切な家族。初音もまた、私にとっては欠くことはできない大切な存在なのだから。
「お前の婚約者になる、と言われた時……困惑したし、悩むこともあったが、それでも喜ばしく思っていたんだ」
前世のことはある。かつての想いに囚われている私は、恐らくそれを引きずり続けるのだろう。
妻を持ち、子を成す――それ自体に対する複雑な思いは、未だ昇華しきれていない。
だがそれでも、初音が傍にいてくれるかもしれないと知ったとき、私は確かに喜ばしく感じていた。
――そうすれば、私は初音のことを、ずっと護ってやることができるのだから。
「これからも、初音と共にいたい。それが私の想いだ――これが、私の紛れも無い本音ですよ」
最後の言葉を告げて――初音は、大きく目を見開く。
その表情に、確信を得ながら。私は、目の前の相手に告げていた。
「これでいいですか、水城久音様」
その言葉に――初音の姿をした何かは、にやりとした笑みに表情を歪めていた。