034:霧の迷宮
甘い、花の香り。
垂れ下がる、紫色の花。幾度かなその道を歩いたことがある――無論、前世の話ではあるが。
懐かしい。だが、同時に何か恐ろしい感覚。
何かを忘れているような、喉の奥から出かかって、けれど形を得ることが出来ない歯がゆい感覚。
私は……一体、どうして――
『――あるじよッ!』
「っ!?」
耳元に響いた千狐の言葉に、私は意識を覚醒させる。
感触こそないが、私の肩に手を置いている千狐は、顔を覗きこむようにしながら厳しい視線を向けてきていた。
何だ、何があった。意識が朦朧としていた自覚はあるが、今は一体何が起こったのか。
急ぎ周囲を見渡すが――そこには、異様な光景が広がっていた。
「何だ、霧……? 千狐、これは一体?」
『妾にも分からぬ。不覚じゃが、妾の意識も一瞬支配されておった。一瞬だけ意識が朦朧として、気がついたらこの状況じゃ』
「精霊の意識にすら干渉したのか!? 一体、どんな魔法だ、これは……」
眉根を寄せながら、私は立ち上がりつつ周囲を見渡す。
部屋の形は変わっていない。入ってきたときと同じく、カーテンに区切られた空間があるだけだ。
異様なのは、この場に私たち以外の誰もいないこと。そして――周囲に、白い霧が立ち込めているということだ。
窓が大きく開け放たれているわけでもなく、何かしらの発生源があるようにも見えない。
だが、今この部屋は、室内であるにもかかわらず、濃い霧に覆われていたのだ。
「ここはどこだ。先ほどと同じ部屋なのか?」
『分からぬ。確かに見た目は同じ部屋に思えるが……御母堂も、水城の当主の姿も無い。たとえ水城の二人が結託したとして、御母堂をこの場から排除できるかの?』
「とてもではないが、これほどの魔法を維持しながらできることとは思えないな。だとしたら、似たような空間というだけか? 何らかの手段で移動させられた?」
『転移魔法というものも存在していないわけではないが、そこまで便利なものでもない。少なくとも、妨害の手がある場所で成功させられるとは思えぬ』
「……ならば、幻術か?」
『妾も、それが最も高い可能性だと思っておるよ。じゃが――』
苦い表情で、千狐は周囲を見渡す。
霧が立ち込めていること、そして母上たちの姿が無いこと以外は、先ほどと変わらない部屋。
先ほど会議の場となっていたテーブルの上にふわりと浮遊しながら、千狐は厳しい視線を崩さぬまま私に問いかけていた。
『あるじよ、妾には先ほどと同じ部屋に、白い霧が立ち込めておるように見える。お主も変わらぬか?』
「ああ、私の目にも同じ光景が見えている……まさか、精霊にも通用する幻術など存在するのか?」
『妾も可視光線を認識してものを見ている以上、幻術にかけることが不可能というわけではないが……精霊の知覚は人間のそれよりも遥かに情報量が多い。徹底的に研究せねば、成し遂げられぬ魔法じゃぞ』
「……どんな術式なのか、想像することもできないな」
今この場に立ち込めている霧や光景からは、術式の気配を感じ取ることはできない。
《掌握》を使っても、この霧が魔法によって生み出されたことしか認識できなかった。
恐らく、というより間違いなく、この魔法の術者はあの水城久音だろう。
現状からでは隙どころか概要を見出すことすらできない、母上の賞賛に違わぬ最巧の魔法使いだ。
先ほど、彼女はあのカーテンの向こう側で、私に対して魔法を仕掛けてきたのだろう。
だが、私はその発動すらも認識することができなかった。
「発動の瞬間さえ掴めれば、もう少し術式の解析ができたのだが……」
『恐らく、周囲を支配していたあの魔力の影響じゃろうな』
水城の屋敷全体を満たしていた、あの不自然すぎるほどに自然な魔力の流れ。
あれが、水城久音の魔法発動を巧妙に隠蔽していたのだろう。
あの魔力の流れに身を任せながら、まるで流れ出すかのように術式を紛れ込ませる。
それ自身は魔法ではなく、純粋なる技術。
父上や母上の使っていたあの魔力の鎧と同じく、ある種の究極ともいえる極限の魔力制御による賜物だろう。
「……ともあれ、先手を打たれている以上、このままでは埒が明かないな」
『じゃが、果たして水城久音の目的は何じゃ? いきなりこのようなことをしおって』
「どうにも、会議が始まった時からロックオンされていたようだがな。大方、私を試しているといったところだろうが――」
ヒントどころか、目的の提示すらない。
何かしらの課題が課せられた様子も無く、今の私の目標はこの空間からの脱出程度しかない。
とりあえずは、それを目指すべきということか。
「行動していれば、何らかの変化がある可能性が高い。彼女が私を試すつもりであれば、相応の試練やら干渉やらがあるだろう。どうであれ、ここからの脱出を目標にすべきだ」
『ふむ……そうじゃな、妾としても異存は無い。ともあれ、行動するしかないというわけか』
考察は必要であるが、この場で話し合いを続けているだけでは何も解決しない。
行動を開始しようと歩き始め――ふと気になり、私は部屋を区切るカーテンに手をかける。
思い切ってそれを大きくめくり――
『……やはり、誰もおらぬな』
「灯台下暗しというが、流石にそこまであっさりとは行かないか」
やはり、その向こう側はもぬけの殻。
精々、先ほどは見れなかったその空間の様相を観察することができた程度だ。
時代劇で度々見るような、城の主が座しているような空間であるが、そこには人が存在した気配すらない。
手がかりらしい手がかりも見つからず、私と千狐は揃って肩を竦めて、この部屋を後にしていた。
先ほどこの部屋へと向かう途中に通ったろうかも、白い霧が立ち込め、奥が見通せなくなっている。
私はきょろきょろと周囲を見渡し――そんな私に対し、千狐は首を傾げながら声を上げた。
『あまり緊張はしておらぬようじゃな、あるじよ』
「警戒はしてるがな。だが、少なくとも危害を加えられることは無いと思っている」
尤も、この状況を危害と言ってしまえばそれまでであるが。
だが、私に対して攻撃を行えば、それは水城から火之崎への攻撃となってしまう。
四大の一族同士での私闘はどう扱われているのか分からないが、少なくとも母上が黙っているはずが無い。
世界でも五番目の実力を持つと言われるあの母上に、正面から喧嘩を売るような真似はしないだろう。
そういう意味では、私の『身の安全』については確保されていると考えてもいい。
「元より、戦闘能力的な面での期待はされていないだろう。火之崎の末席である私に対して、直接的な攻撃に出る可能性は低い」
『流石に、これを警戒してお主に位を与えたわけではないじゃろうがの』
「ならば、何を確かめようとしているのか……お前の力である、という可能性もあるがな」
『《王権》か……今のお主に使える四種で、これに対抗するとしたら一種だけじゃが』
「分かっているさ。だが、頼るつもりも無い」
千狐の言葉に、私は肩を竦めてそう返す。
《王権》の力は強力であるし、千狐の言う通り、今の私に使える四種の内の一つでこの状況を打開できるだろう。
おまけに、《王権》の発動後であれば魔力の消費も少ない力だ。
少なくとも、《刻守之理》よりは長持ちさせられるだろう。
だが――
「言っただろう、千狐。私が《王権》の力に頼るのは、家族を護るために必要となった時だけだ」
『お主も頑固じゃのう。分かっておるよ』
苦笑する千狐の様子に頷き、私は再び視線を周囲へと戻す。
《王権》は確かに強力な力だ。遥か格上の相手と戦うには、どうしても必要となってしまうだろう。
だが、安易に頼るつもりは無い。強すぎる力に依存してしまえば、私自身の成長がなくなってしまう。
とは言え、使うべきときに使わないことも愚の骨頂であるが――
「……ふむ」
『どうかしたのか、あるじよ?』
「いや、少し気になったのだが……あまりにも、音が無さ過ぎないか?」
立ち止まり、耳を澄ます。
来たときは自然音に包まれていた水城の屋敷だが、今は耳が痛いほどの静寂に包まれていた。
自分達の声以外、何の音も聞こえない。この板張りの床を歩く音すら、一切響いていないのだ。
これが相手を追い詰めるための演出であれば、なるほど確かに、効果はありそうだ。
だが――
「……この霧、というよりこの魔法か。これによって知覚能力に干渉を受けている可能性は高いか?」
『うむ、それには同意しよう。人間と精霊の持つあらゆる感覚に対して、幻覚を埋め込まれている可能性が高い』
「あらゆる、か。だが、全てという訳ではなさそうだな」
この術式を発動しているのは、恐らく水城久音ただ一人。
だが、本来の水城であるならば、この魔法は複数人による制御で発動すべき類のもののはずだ。
恐らく、彼女一人だけでは、完全な形では発動させられないのだろう。
いや、ある程度の形になっている現状そのものがおかしい、と言うべきなのかもしれないが。
「全ての感覚を、完全に支配されているわけではない。それに、演出にもある程度手を抜いている。いや、リソースを確保しているのか」
『確かに、それは妾たちにとっては若干有利になる仮説かも知れんが……それが分かったところで、解決策にはならんぞ?』
「いや、そうとも限らんさ」
千狐の言葉に、私は小さく笑う。
確かに、このままでは解決策にはなりえないだろう。多少相手に余裕がなかったからといって、完全に捕らわれてしまっていることに変わりはないのだから。
既に支配されてしまった感覚を、私の抵抗力で取り戻すことは不可能だろう。
弾くために必要な術式も知らないし、力技で破れるだけの魔力も持っていない。
唯一可能性があるとすれば《王権》であるが、リスクが大きすぎるし私自身頼るつもりも無い。
ならば――相手の僅かな隙に、全力で付け込むしかない。
(尤も、それが相手の罠である可能性もあるが――)
それでも、飛び込まなければならないだろう。
危険は無いと踏んでいるのだ、覚悟を決めてその領域に足を踏み入れていかなければならない。
例えわざと作られた隙であったとしても、この場では見えない相手へと近づくことができるのだから。
少なくとも、何らかの変化を見つけることができるだろう。
『ふむ……それはいいが、どうするつもりじゃ? 相手のリソース不足に付け入る技など、妾たちにあるか?』
「ああ、あるとも。というより、私にはそれしか出来ないさ」
『まあ、《掌握》じゃろうな。しかし、これでどうすると? 確かにこの精霊魔法は万能性に優れるが、その分だけ一点特化の力は無い。知覚、支配、どちらをとっても中途半端じゃぞ』
「ああ、だから集中させるのさ」
今まで、私はあまりこの《掌握》を応用して来ようとはしなかった。
元々万能性の高い術式であったため、あえて使い方を変えずとも、十二分に活用することができていたのだ。
それに、どれほど集中的に使ったとしても、相手の術式に直接干渉できるようになるわけではない。
《掌握》はあくまで千狐と私の術式。十分な出力を持って干渉できるのは、私が生み出したものだけだ。
今こうして存在しているこの霧も、魔力も、私では強く干渉することはできないだろう。
「私が《掌握》を使うのは、私自身に対してだよ、千狐」
『何……? 一体、何をどうするつもりじゃ?』
「見れば分かるさ。さあ、進むとしよう」
方法が決まったのならば、後はトライアンドエラーだ。
この幻術の目的も、私がすべきことも、必ず見えてくる。
ああ、そうだとも。諦めはしない。
時間を無駄にはしたくないのだ。まだ、初音の姿を一目も見ていないのだから。
「いくぞ、千狐――《掌握》」
そして、私は――私自身を、支配した。




