023:朱音と宗孝
「そういえば、姉上と二人きりというのは珍しいですね」
「あー、そういえばそうだね。仁のお見舞いに行く時は、いつもお母様も凛も一緒だったし」
私の言葉に、姉上は少し大人びた表情で笑みを浮かべていた。
思えば――これまでの人生で、姉上と二人きりで話したことは殆ど無かったように思える。
基本的には母上や凛と一緒であり、特に凛は私にべったりと張り付いていたため、姉上と二人きりになるような場面が無かったのだ。
皆無であったとは言わないが、それでもしっかりと話をするのはこれが初めてのような気がする。
血縁であると言うのに寂しいことではあるが……だが、これからは時間もあるだろう。
「凛は仁にべったりだったからねー。いっつも仁のところに行くんだー、あたしがお姉ちゃんなんだー、って張り切ってたもの」
「ははは、私も楽しみにしていましたから」
「相変わらず子供っぽくないね、仁は。って言うか、その言葉遣い止めない? 私たち、姉弟なんだから」
「……ふむ」
小さく呟き、私は姉上の姿を見上げる。
姉上は私よりもいつつ年上。つまり、まだ十歳の子供だ。
火之崎宗家の年上の人間であることと、血の繋がった姉であること――私にとっては、後者の方が大切だ。
私の認識の上では、彼女は多少早熟した性格とは言え、まだまだ小さな子供だ。
そのように対応することも、あまり意識的な違和感は少ない。
「……分かった。これでいいか、姉上」
「そうそう、凛に言うような感じでいいんだよ。お母様もそんな感じで話してあげたら?」
「それは、流石に……私にとって母上は尊敬する人物だ。火之崎の上層部の人間であることも含めて、そうそう気安くは話しかけられないよ」
「お母様は怒らないどころか、むしろ喜ぶと思うんだけどなぁ」
「だとしても、周囲から聞きとがめられてしまうよ」
私の行動に関してどこまで干渉してくるかは分からないが、流石に母上に態度は難しいだろう。
特に、すぐ傍で目を光らせている鞠枝がいるのだ。
あの事件以来まだ話していないため、彼女のスタンスは分からないが、以前と同じであればお説教を喰らうことだろう。
どちらにせよ、母上に対しては丁寧な態度を崩すつもりは無かった。
姉上はあまり納得していない様子であったが、それ以上追求するつもりも無いようだ。
「そうかなぁ……ま、無理に言っても仕方ないか」
「ええ。ところで、姉上。凛は一緒には?」
「来てないね。凛には、ちょっとショックだったみたいだから」
姉上の言葉に、私は口を噤んで視線を伏せる。
ショック、か。それはそうだろう。幼い子供に、あのような場面はあまりにも衝撃が大きすぎる。
火之崎と言えど、まだ幼い子供なのだ。必死だったとは言え、形振り構わず暴れすぎてしまったか。
「凛の様子は……どうだったんだ?」
「んー……」
私の問いに対し、姉上は何故か虚空を見上げて悩むように声を上げていた。
その反応に、私は思わず首を傾げる。
私は何か、おかしなことを言っただろうか。
「姉上?」
「ああいや、ごめんね。どう答えようかなーって思って……ああでも、上手く言えないや。ごめんね、仁。それは、仁が確かめて」
「……凛の様子を見て来いと?」
「今すぐじゃなくていいよ。今すぐ行っても、あんまり上手く話せないだろうから」
「よく分からないが……姉上は、そうした方がいいと思うのだな?」
「うん。私はそうした方がいいと思うよ」
姉上の言いたいことはいまいちよく分からなかったが、彼女がここまで断言するのだ。
凛と会うには、もう少し時間を空けたほうが良いと言うことだろう。
凛にとっても……そして、私にとっても。
私自身、何を話せばいいのかよく分からないのだ。少し、考えておくべきだろう。
「まあ、それよりもほら、こっちだよ仁。ここが、私たちがいつも使ってる訓練場」
「ここが……一応外観だけは目にしていたが、こうして見ると大きいな」
姉上に手招きされた先は、火之崎が敷地内に併設している訓練場だった。
ぐるりと見た感じではスタジアムのような印象だろうか。
天井はなく、訓練に使うグラウンドを建物が囲んでいるような外観となっている。
ドーム状ではないのは、炎の魔法を扱う火之崎だからこそだろう。
上に向けて魔法を撃つ分には安全なのだから。
「ところで、姉上。どうして私をここに連れてこようと?」
「今はお父様がここで訓練してるからね。仁って、お父様とはほとんど話したことないでしょ?」
「確かにその通りだが……」
父上、火之崎宗孝――火之崎家の現当主にして、あの母上をも超える最高位の魔法使い。
私が見たことのある父上の姿は、常にこの火之崎家の当主としての姿だ。
父親として私に接してきたことはなく、私としてもどう向き合うべきなのか悩み続けているところだ。
会話をする機会もない以上、彼がどういったスタンスで私に向かおうとしているのかを掴むこともできない。
そういう意味では、姉上のこの取り計らいは、渡りに舟であるとも言えるだろう。
「姉上、姉上から見ると、父上は一体どんな人なんだ?」
「お父様? そうねぇ……」
姉上に連れられて修練場の中へと足を踏み入れる。
そんな中、姉上は虚空を見上げながら言葉を捜している様子だった。
姉上にとっても、父上は形容しづらい人物であると言うことか。
「えーと……そうだね、厳しい人だと思うよ」
「厳しい、と言うと?」
「今、私はお父様に魔法と戦い方を教わってるんだけど、すっごく厳しいんだよ。何度か死ぬかと思ったし」
「……流石は、日本最強の魔法使いと言うべきなのか」
少々大げさに言っているのかもしれないが、十歳児相手にどこまで厳しい訓練を課しているのだろうか。
尤も、私はそれを否定するつもりはない。
火之崎は強くなくてはならないのだ。そうでなければ、あの病院での私のように狙われることにもなりかねない。
四大の一族、火之崎にとって強く在ることは義務であり、厳しい訓練を課すのも当然であるのだ。
けれど、師として姉上に対して対応しているのであれば、ますます父上の人柄が見えてこない。
果たして父上は私に――否、私たち姉弟に、一体どのような感情を抱き接しているのか。
そう考えていた私に対し、姉上は少し慌てた様子で付け加える。
「でもね、絶対にできないことは言わないんだよ。ちゃんとどうすればいいのか教えてくれて、できたら『よくやった』って褒めてくれるんだから」
「……姉上は、父上のことを尊敬しているんだな」
まだ十歳の子供である姉上が、このようにフォローを入れているのだ。
子供にとって、大人が裏で抱いている感情は、非常に伝わりづらいものだ。
相手のことを思って厳しく接していたとしても、子供は甘やかしてくれる相手がいればすぐにそちらに懐いてしまう。
厳しさの中に含まれる思いやりを子供に伝えるのは、とても根気の要る向き合い方が必要になるのだ。
そうであるにもかかわらず、姉上は心の底から父上に対する敬意と感謝を抱いている。
それだけでも、父上がただ厳しいだけの人間ではないことは理解できた。
「少し、気が楽になったよ。父上と話してみたいものだ」
「そ、そう? よかったー……じゃ、案内するね。今の時間なら、お父様はたぶん組み手してると思うから」
姉上は、私が父上に対する隔意を抱かなかったことを安堵している様子だった。
まあ、元よりまともに話していないうちから敬遠するつもりなど毛頭なかった。
例えどのようなスタンスであろうと、彼は私の父親なのだ。
血の繋がった肉親を容易く嫌うなど、私の主義に反する。
とは言え、会話をしなければ印象も何も決まらないのだが。
「あ、いたいた。仁、あそこだよ」
「む、どれどれ――」
姉上の指差した先へと視線を向け――私は、思わず言葉を失っていた。
そこにいたのは、十人ほどの人影。その中心辺りに見える白い髪は、紛れもなく父上のものだろう。
そう、父上は中心にいる――他の九人に囲まれながら、それらを一人で相手取り、圧倒していたのだ。
『……何なのじゃ、あれは。魔法も使わず、九人もの魔法使いを圧倒しておるぞ?』
「しかも、あそこにいるのは……臥煙と大焚の当主……?」
「ああ、あの人たちがいないとお父様の訓練にならないからね。他の人達も、みんな凄く強い人ばっかりだよ」
遠目からでも分かる。あの場にいる九人は、全員が私を誘拐しようとしたあの男よりも遥かに強く――そんな彼らが死力を尽くしてなお、魔法を使う気配すらない父上に、遠く及んでいないのだ。
日本最強の魔法使い――言葉にしてしまえば、陳腐な響きでしかないだろう。
だがそれは紛れもない事実であり、世界から警戒されるのも当然である、と言えるほどの実力者なのだ。
炎を吹き上げながら我先にと切り込んでいく臥煙。そしてその隙を埋めるように無数の炎を放ちながら、父上の移動を制限する大焚。
しかし、対する父上は、鮮やかな深紅のオーラを纏いながら、放たれる魔法の一切を無視して臥煙の拳を受け流していた。
彼の拳に込められていた魔力は、あの時の初音の魔法をも遥かに超えている。
一度直撃すれば、並みの魔法使いなど塵も残らなかったであろうその一撃。
だが、父上はその魔法を一切刺激することなく受け流し、尚且つ下からかち上げた肘の一撃で、臥煙を斜め後方へと吹き飛ばしていた。
『……人間業じゃないのう。今のは、少しでも失敗していれば腕が吹き飛んでおったぞ?』
「……あれが、火之崎の魔法使いと言うものなのか」
鞠枝やあの男の実力は、高いがまだ理解できる領域だった。
だが、父上や母上はそれとは隔絶されていると言っても過言ではない。
果たして、どれほどの修練を繰り返せば、あの領域に至るというのか。
天性の才能だけではない。限りのない努力と、その反復の果てに至ったであろう境地。
私の目指すべき先は、今の私にはその影すらも掴めないほどに遠い場所にあったようだ。
「だが、それでも――」
『お主なら、そう言うであろうな』
私の小さな呟きを広い、千狐は嬉しそうに笑みを零す。
私の目指すべきものは、家族を護れるほどの強さだ。
父上と母上が遥か彼方にあろうとも、護るべき家族であることに変わりはない。
ならば、強くなるしかないだろう。私自身が、あの領域に至るまで。
可能、不可能は、やってから考えればいい。試行錯誤もせぬ内に決め付けては、何も始まりはしないのだ。
「お、そろそろ終わりかな?」
「……結局、父上は無傷か」
「あの魔力の鎧、直接攻撃でもないと破れないからねー。私も教えて欲しいんだけど、身体強化も完全じゃないのにまだ無理だとかなんだとか」
父上が纏っていた紅のオーラ。あれが、姉上の言う魔力の鎧なのだろう。
霧散することなく体の内側に沈みこむように消えていくそれ――《掌握》を通して見たからこそ分かる。
あれは、魔法ではない。何故なら、そこには術式による制御が存在しなかったからだ。
魔法は全て、術式に魔力を通すことによって発動する。
そこに例外はなく、特殊性の高い精霊魔法ですらそれは同じことなのだ。
だが、父上のあの魔力のオーラからは、術式の存在を感知することができなかった。
魔力を使った現象ではあるが、魔法ではない。あれは果たして、何なのだろうか。
「終わった終わった。お父様!」
私の疑問を他所に、姉上は父上に対して上機嫌に声をかける。
その中には恐れのような色はなく、ただ純粋に相手を慕う感情が込められていた。
どうやら、姉上は心から父上のことを尊敬しているらしい。
姉上の声に反応したのか、はたまた最初から私たちの存在に気づいていたのか。
倒れ伏した面々の中心に立っていた父上は、くるりとこちらに振り返り、その深紅の瞳を向けてきた。
胴着のような服装に煤一つ付けることなく、まるで散歩の帰りのようないでたちで、父上はじっとこちらを見つめる。
その深く底の見えない瞳に、私は思わず息を飲んでいた。




