020:事件の顛末
第2章 白霧の迷宮
深く、暗く――まるで、水底に沈んでいくかのような浮遊感。
しかし、私がその感覚を自覚した瞬間、急激に引っ張り上げられるような感覚と共に、視界は眩い光に包まれていた。
私は思わず左腕で目を覆い――そして、意識が覚醒する。
「ぅ……」
差し込んでくる光を左腕で防ぎながら、私はゆっくりと瞼を開ける。
しばし光に目を慣らす中、私が感じていたのは嗅ぎ慣れない……否、久しく嗅いでいなかった畳の匂いだ。
やがて目が慣れ、そして視界に入るのは、見覚えの無い木目の天井。
少し視線をずらせば、見事な鳳の姿が気で描かれた梁と、白く映える襖。
障子の付いたガラス戸の向こう側には、広い庭の光景が広がっている。
今生においては、生まれて初めて目にする和室の光景がそこにはあった。
「ここは……」
『気がついたか、あるじよ』
頭の中に響いた声に、私は再び視線を天井へと移す。
するとそこには、いつの間にか姿を現していた千狐が、どことなく不機嫌な様子で浮遊しながら私のことを見下ろしていた。
少し不満げに、けれど確かに心配するような気配を残しながら、千狐は軽く嘆息して声を上げる。
『気分はどうじゃ、あるじよ。傷は既に癒えておるはずじゃが』
「……確かに」
先ほど反射的に光を遮っていた左手を眼前に広げ、私は閉口する。
驚くべきことであるが、傷一つ残っていない。
あの時、私は左腕を犠牲にすることであの男の攻撃を防いだのだ。
少なく見積もっても粉砕骨折。後遺症が残ることも考えていたのだが――何も異常がないどころか、傷跡すら残っていないのだ。
半身を起こし、布団をめくって体の状態を確かめる。
最も重症だったであろう、骨が砕け肉が裂けていた右足も、傷一つなく思うように動かすことができる。
体の損傷を修復する魔法にもいくつか種類があるのだが、基本的には体の自己治癒機能を高めることによって傷を癒すというものだ。
しかし、あれほどの重症となれば、一日二日で完治させられるような物ではない。
一体どのような術が使われたのか、私には想像もできなかった。
「千狐、これは一体……」
『説明するのはやぶさかではないのじゃがな、あるじよ。一つ、言うことがあるのではないか?』
「……む」
腕を組みながら半眼で見つめてくる千狐に、私は思わず押し黙る。
彼女の言っていることが理解できなかったからではない。
求められているものを理解して、その上で答えを躊躇する理由があったためだ。
だが、こうしていつまでも黙り込んでいる訳にもいかないだろう。
「……済まなかった、千狐。お前の忠告を聞かず、私は命を捨てようとしていた」
『全くじゃ。次に死せば記憶を保つことはできんと、妾はそう言っておった筈じゃぞ?』
「ああ……だが、その上でもう一度謝ろう。済まない、私は……同じ状況になれば、必ず同じ行動を取るだろう」
それが私と言う人間の在り方なのだ。変えることはできない。恐らく、これから先、一生付いて回る性分だろう。
そんな私の言葉に対し、千狐は深々と嘆息して声を上げていた。
『知っておるよ。そのような人間じゃと知った上で契約を持ちかけたのは妾じゃからの。じゃが、無茶をする度に文句ぐらいは言わせて貰うぞ』
「ああ、それで気が済むなら」
『全く、度し難い男じゃ……それで、聞きたいことがあるのじゃろう?』
「そうだな。体のこともそうだが……それよりも、凛や姉上、母上はどうなった?」
『それが心配する順番か? まあ、案ずることはない。全員傷一つなく無事じゃよ』
くつくつと笑う千狐の言葉に、私は思わず安堵の吐息を零す。
母上が到着したところまでは覚えていたが、その後の状況については完全に意識を失ってしまっていた。
流石に、母上が到着したならば心配する必要は薄いだろうと考えていたが、それでも心配なものは心配なのだ。
そんな私の考えを読み取っているのか、軽く笑みを零した千狐は言葉を続ける。
『順を追って説明するとしよう。お主が意識を失った後、お主は鞠枝に預けられ……あの襲撃者達は、ご母堂の追撃を受けることになった』
「母上の……」
『妾が見ることができたのはほんの少しであったが、鎧袖一触とはまさにあのことじゃな。指先が軽く触れた程度でも、人体が軽く消し飛んでおったわ』
世界で十指に入る、とまで言われると流石に誇張かと思っていたが、それを聞く限りではあながち冗談ではないのかもしれない。
いかに相手が多く、護衛対象がいたことで満足に戦えていなかったとは言え、一流の術者である鞠枝が苦戦することになった相手だ。
それを、まるで羽虫を払うかのように一蹴するなど、想像の埒外であると言える。
『それに加えて、後詰めで火之崎の部隊が現れ、襲撃者達は鎮圧。まあ、その前に大半をご母堂が叩き潰してしまったようじゃったがな。おかげでほとんどの連中が心を折られている有様じゃったよ』
「……凄まじいものだな」
『《黒曜の魔女》の名は伊達ではないと言ったところかの』
あの時の、母上の姿を思い出す。
全身から湧き上がるように発生していた、あの黒い魔力のオーラ。
あれは、一体なんだったのか。あの時は既に《掌握》を使う余裕がなく、どのような術式が展開されていたのか感じ取ることはできなかったが……いや、あれは魔法だったのだろうか。
詠唱する様子すらなく、あれだけの力を瞬時に発現するなど、果たしてただの魔法に可能なのかどうか――謎は深まるばかりだ。
『その後、お主は緊急手術。粉砕骨折に筋肉、靭帯の断裂、おまけに全身にわたる火傷……無事なのは右腕だけじゃったからな、どうしたものかととにかく処置していたところに、ご母堂が治癒術師を連れて登場、その者が主体となってお主の治療に当たった訳じゃ』
「何者なんだ、その治癒術師は。火之崎の専属なのか?」
『さてな、妾にも皆目見当が付かん。じゃが、異常なまでの腕だったことは確かじゃな。僅か数十分で、お主の全身を元通りに修復して見せた』
火之崎が擁する治癒術師なのか、はたまた母上の個人的な知り合いか。
どちらにせよ、その人物のおかげで、私の傷は完治しているのだろう。
いずれ会うことがあれば、しっかりと礼を言わねばなるまい。
『その後は、敵対者を招きいれるような病院になど置いておけるかということで、お主はこの火之崎の家に引き取られてきたというわけじゃ』
「まあ、それはそうだろうな。国営の施設が襲撃を受けるどころか、内部に内通者がいたのだから……あの連中は、他国の工作員ということで間違いはないのか?」
『さて、妾にそれを知る手段はなかったからの。まあ、恐らく間違いではないと思うが』
他家ではなく他国、と言う点も少々気になるところだ。
病院にあった図書室で、多少は世界の情勢についても理解しているが、それでも現在の外交関係についてはほとんど情報を仕入れられていない。
流石に、あの場に置いてある程度の本だけでは、四大の一族と他国の関連性は見えてこなかったのだ。
尤も、理由と言う点ではそれほど疑問視はしていない。
単純に、日本の戦力としても有数の力を持つ火之崎を弱体化させようとしたのだろう。
母上のことをあれほど警戒していたのだ、よほど危険視されていると考えたほうが良い。
『ああそれと、お主が精霊契約者であることは既に周知の状態じゃ』
「あれほど派手に使っていれば、流石にそうだろうな」
『それもあるが、婦長から伝わっておった部分もあるようじゃぞ? 流石に、それを言わねばお主の行動力を説明できなかったのじゃろう』
「……婦長には、だいぶ無茶を言ってしまったな」
また会える機会があれば話をしたいところではある。
だが、私が再びあの病院に関われるのは、果たしてどれほど後のことになるのやら。
少なくとも、しばらくの間は近寄ることもないだろう。
そして、それは同時に、初音ともしばらく会えないことを示している。
分かっていたことではあるが、やはり日常的に顔を合わせていた相手と、まともな別れも言えずに離れ離れになってしまったのは残念だ。
水城と関わる機会は――これも、なかなか難しいだろう。
何だかんだと危なっかしいあの子のことは、やはり心配な部分が大きい。
そうやって内心で気を揉む私の姿に、千狐はどこか呆れを交えた様子で声を上げた。
『お主も大概心配性じゃな。あの娘も水城の一族じゃぞ? 家に引き取られていったはずじゃ』
「性分でな。あの子は護ると決めたんだ。今後も、私にとっては護るべき家族の一人だよ」
護りたいものを、護るべきものを護ると決めた。
だからこそ、手の届かない場所にいることを不安に感じてしまうのだ。
尤も、初音にとっては、今いる場所のほうがよほど安全だろう。
私はまだ弱い。あの子を護れるほど、強くならなければ。
『全く……ま、調子は戻ってきたようじゃな』
「ああ、心配をかけた。この通り、動き回っても問題は無さそうだ」
軽く《掌握》を使って己の調子を確かめ、私はゆっくりと立ち上がる。
左手を布団に突いても、右足に力を込めて立ち上がっても、痛みどころか違和感すら感じない。
どうやら、怪我はしっかりと完治しているようだ。
と――それと同時、気配を感じる。床の鳴る音と、襖の揺らぐ音。それと共に現れたのは、上の姉である朱音であった。
「姉上、おはようございます」
「え……じ、仁!?」
「姉上?」
布団の上に立ち上がっている私の姿に、姉上はその深紅の瞳を大きく見開き硬直する。
何かおかしなことを言っただろうか――そう疑問符を浮かべながら首を傾げ、問いかけようと口を開く。
だが、それよりも僅かに早く、姉上は踵を返して走り去っていた。
叫び声にも近い、大きな声を発しながら。
「お、お父様、お母様っ! 仁が、仁が目を覚ましたよーっ!」
止める間もなく姿を消してしまった姉上に、私はしばし呆然としながら立ち尽くす。
そんな私の背中に、笑いを滲ませる千狐が声をかけた。
『言い忘れておったがの、あるじよ。お主、三日ほど眠り続けておったぞ』
「……そういうことは早く言ってくれ」
『目は覚めたのじゃから問題はなかろう。それよりほれ、行った気配がもう帰ってきたぞ?』
千狐の言う通り、早くも足音が戻ってきている。
それも、以前よりも数が増えた状態でだ。
落ち着きのない気配が二つ――だが、私の予想では、それに加えて母上も居る筈だ。
鴬張りとまでは言わないが、板張りの廊下を音を立てずに歩くのは至難の業だ。
事実、姉上の足音は部屋の中まで響くほどに聞こえている。
だが、母上のものと思わしき足音は、一切聞こえていなかった。
私が音に集中している内に気配は近づき、そして襖が開く。
現れたのは、やはり私の予想したとおりの三人であった。
「仁ちゃん! 良かった、目が覚めたのね」
「はい、母上。心配をおかけしました」
「……そうね、心配したわ。でも、無事でいてくれて何よりよ」
母上は、そう言って安堵した表情を浮かべる。
叱責とまでは言わないまでも、流石に厳重注意を受けるものと思っていたのだが……説教はまた後で、と言うことだろうか?
流石に、助けられた二人がいる手前では叱り辛かったのかもしれない。
「びっくりしたけど……でも良かった、仁。あの時、助けに来てくれてありがとうね」
「いえ……姉上も、怪我も無いようで安心しました」
「うん、仁のおかげだよ。本当に、ありがとう」
私と視線を合わせるように腰を屈め、姉上は嬉しそうな笑顔で声を上げる。
どうやら、私の無事を純粋に喜んでくれているらしい。
姉上は、確か私よりも五歳上――今は十歳のはずだ。
少々大人びた雰囲気があったが、今目にしている彼女の笑顔は、どこか年相応のものに思えた。
そんな姉上の表情に少しだけ安堵して――ふと、違和感を感じて視線を横へとずらす。
「…………」
じっと私を見つめているのは、顔を見せた最後の一人である凛だ。
だが私の双子の姉は、どこか表情を曇らせながら私のことを見つめていた。
普段ならば、私に対して過保護な凛は、真っ先に飛びついてきていただろう。
だが、今はそのような様子が全く見えない。
それどころか、どこか浮かない表情を見せている凛に、私は思わず困惑の混じった声を上げかけ――ふと、母上の隣にもう一人の姿があることに気がついた。
「……大事は無いようだな」
「宗孝さんたら。初めて顔を合わせるんだから、もう少し話すことがあるでしょう?」
「む……」
黒に近い灰色の、胴着にも近い服装。ゆったりとした服装ではあるが、鍛え上げられた肉体であることは手や胸元だけで把握することができる。
目を引くのは、白く染まった髪だろう。老人の白髪と言うわけではない、艶のある未だ若々しい髪だ。
そして、それ故に強い色彩を放つ、燃えるような紅の瞳。
母上が、宗孝と呼んだその男性――その名前には、聞き覚えがあった。
「……父上、ですか?」
「……仁、私と共に来い」
私の問いには答えず、彼は――父上は踵を返す。
回答を避けたその真意は、彼の鉄面皮からは読み取ることができなかった。
だが、私の名を呼ぶその声からは、あまり冷たい感情は伝わってこない。
まだ判断するには早いが、どうにも複雑な事情があるように思えてならなかった。
「一緒に、ですか。これからどこへ?」
「一族の会議だ。行くぞ」
有無を言わさぬその口調に、隣で溜息を吐く母上の気配を感じながら、私は父上の後に続いて歩き出していた。




