002:始まりの日
ゆらゆらと、ゆらゆらと――どこか、液体に包まれて揺られているような感覚。
だが、一箇所に留まっているわけではない。ゆっくりと、ゆっくりと、少しずつではあるがどこかに運ばれている。
これが何の感覚に似ているのかを思い出すのにはしばらく掛かってしまったが、結局のところその言葉をひねり出すまで何か変化があるわけではなかった。
そうだ、この感覚はまるで――
『……流れるプールか』
『《輪廻の環》をそのように表現したのはお主が初めてであろうなぁ、あるじよ』
ふと、声が響き――私は目を開く。
視界に入ったのは、どこか悪戯っぽく笑みを浮かべる千狐の姿だった。
直前の記憶、つまり天へと昇っていったあの時と同じように、私の手を引いている精霊の少女。
あの時と違っているのは、私自身の手に異常が発生していることだろう。
まるでおぼろげな光の塊のように、私の手は輪郭を失っていたのだ。
だが、それでも私の思ったとおりに右手は動く。そしてそれと同時に、手だけではなく全身が同じ状況であることに気づいていた。
『これは……』
『まずは礼を言っておこう。お主のおかげで、妾は目的通りあの世界より抜け出すことができた。ここが新天地、というわけじゃな。お主のその状態は、まだお主の魂が新たな体に馴染んでいない証拠じゃ』
『新たな体? 輪廻の先ということは、やはり転生したと言うことなのか?』
『うむ、下を見てみるが良い』
言葉に従い、私は千狐が示した指の先へと視線を向ける。
そこには、透明なケース――保育器の中に寝転がる、一人の赤ん坊の姿があった。
いや、赤ん坊にしても少々小柄だ。未熟児と言うほどではないが、少し不安になる体躯である。
この小柄さが原因で保育器に入れられてしまっているのだろうか。周囲に母親と思える人物の姿はなかった。
よく見れば、そんな赤ん坊の体に、私の体から伸びる光のロープがつながっている。
『これが私、か……今の状態では、あまり実感が湧かないな。正直、信じがたい』
『じゃが、事実を事実として受け止めきれぬほど、お主は狭量ではないじゃろう。ほれ、今世での名じゃ、見てみるが良い』
保育器を回り込むようにして移動した千狐が、その横に備え付けられてあったネームプレートを示す。
名前は――『火之崎仁』、か。まずは男であったことに安堵すべきなのだろうか。
苗字は変わっているものの、名前自体はありふれたものだ。とりあえずは、呼ばれても問題がないよう、意識に刷り込んでおくべきだろう。
……しかし、ここは日本なのか? 異なる世界、と言っていたはずなのだが。
まだあまり現実味は湧かないが、それでも見慣れた景色であるだけまだマシだろう。
『さて、あるじよ。時間も有り余っていることだし、少し話をしておこうか』
『そうだな。他にやれそうなこともない……色々と、説明をしてくれるのだろう、千狐?』
『うむ、任されよう。さて、まずは改めて――』
呟き、千狐はふわりと浮かび上がる。
その動きとともに揺れたのは、私と赤ん坊の体を繋ぐものと同じような、光のロープだ。
千狐の毛並みと同じ色をしたそのロープは、私と千狐の、ちょうど心臓のある辺りから生えて繋がっている。
『これから末永く、よろしく頼むぞあるじよ。妾は千狐、お主の契約精霊として、共に歩む者じゃ』
『……碌な説明もなかったから、てっきりこちらに着いたら離れて行ってしまうものかと思っていたのだがな』
『一度結んでしまった契約は、そう簡単に破棄することはできんよ。お主ほどのあるじも、探したところでそう簡単には見つからんろうからの。それに……心にもないことを言うでない。お主は既に、妾との繋がりを感じ取っておっただろうに』
『見透かされてしまうものだ。これが繋がりという訳か?』
胸から伸びるロープを見つめ、私は小さく苦笑を零す。
これはまた、随分とわかりやすい『繋がり』だ。
そんな私の言外の思いを読み取ったのか、千狐は軽く笑みを浮かべながら続けていた。
『何、お主がその体の中に入れば自然と見えなくなる。これは魂の繋がりじゃからな』
『ふむ……そういうものか。この世にそんなものがあったのだな』
『異世界まで来ていて何を言う。稀有な体験じゃぞ?』
『……それだ。正直、ここが異世界だと言われても、全く実感がないのだが』
周囲を見渡しても、見えるのは私にも分かるものばかり。
流石に専門的な機器の名称などは知らないが、それでも用途が全く理解不能なものは存在していない。
私の肉体だと言うこの赤ん坊が入っているのも、知識にある保育器にしか見えない。
だが、そんな私の考えを、千狐は首を横に振って切って捨てていた。
『ここは確かに、お主がいた場所とは異なる世界じゃよ。何故なら、ここには魔法があるからの』
『魔法? 魔法と言うと、アレか。杖を持って光ったりする』
『えらく中途半端な知識じゃの。まあ、認識としては間違っておらんが……見ての通り、ここは現代。故に、もっと理論化された魔法となっておるようじゃ』
『……どうやって調べたんだ?』
『妾の権能の一つじゃよ。まあ、それに関してはそのうち説明しよう』
誇らしげに胸を張りながら言う千狐の言葉に、私は疑問を感じつつも首肯する。
権能などという随分と仰々しい言葉であったが、どうやら千狐はそれに誇りを持っている様子であった。
この様子ならば、いずれ質問せずとも語ってくれることだろう。
『魔法に関してじゃが……一つ、お主に謝らねばならぬ。済まぬの、あるじよ』
『それは、一体何に対する謝罪だ?』
『今世での、お主の境遇についてじゃよ。お主が、この保育器に入れられている理由。それは、お主の魔力が極端に低いためじゃ』
『魔力が、低い?』
耳慣れない言葉であるが、イメージでは魔法を扱う力と言ったところだろう。
魔法のある世界においてそれが低いと言うのは、確かに不利な身の上かもしれないが、それほど深刻な話なのだろうか。
疑問符を浮かべる私に対し、千狐は申し訳無さそうな表情で続ける。
『言ったじゃろう、お主がこの保育器に入れられている理由じゃと。この魔力と言うものは、完全に枯渇してしまえば死に至ってしまうのじゃよ』
『……つまり、今の私はいつ死んでもおかしくない状況だと?』
『うむ。何かの拍子に魔力を放出しきってしまえば、その時点でお主は死ぬ。流石に、次の輪廻の先までお主が記憶を保っていられる保証はないぞ』
『流石に、それは困るな……伸ばす方法は無いのか?』
『あるにはあるが、過酷な方法じゃ。お主の転生先を選べればこうはならんかったのじゃが』
言って、千狐は肩を竦める。
流石に、せっかく生まれ変わったと言うのにそう易々と死んでしまうつもりはない。
千狐は過酷な方法と言うが、方法があるならば実践するのみだろう。
そう考えていた私の思考を読み取ったのか、千狐は僅かに苦笑しながら声を上げた。
『実践については後回しじゃ。とりあえず説明をせねばならんしの』
『む……そうだな、頼む』
『うむ。この世界に魔法があることまでは説明したが、それ故にこの世界はお主の知識とは相当に違った歴史を歩んでおる。まずは先入観を捨てることじゃ』
『そうだな、そこまで大きな要素があるとなれば、辿る歴史も異なるか』
『細かい歴史については追々学んでいけばよい。お主が覚えておくべきことは……お主の生まれは、魔法使いの大家と言うことじゃ』
その言葉に、私は思わず口を噤んでいた。
魔法使いの大家――そして、そこに生まれた魔力不足の子供。
どうやら、私が考えていた以上に厄介な身の上となってしまったようだ。
『面倒な身の上のようだな……私以外に兄弟はいないのか』
『お主からそれほど離れられるわけではないからの、家族構成までは把握しておらん。じゃが、お主の兄弟は少なくとも一人いる。お主は、双子じゃったからの』
『双子? 私に、弟か妹がいるのか』
『何故自然に自分が兄と思っておるのか知らんが、お主にいるのは姉じゃぞ。そして……その双子の姉こそが、お主の魔力が少ない原因でもある』
私にそう告げて、千狐は嘆息を零す。
その表情の意味は図りかねるが、それでも私は僅かに安堵していた。
とりあえず、女性が跡継ぎになれるかどうかは分からないが、それでも私以外に後継者がいることは事実のようだ。
とは言え、原因がその姉にあるとなると、その理由を問わないわけにはいかないだろう。
言葉を待つように沈黙すれば、千狐はゆっくりと口を開いていた。
『魔力の器と言うものは、胎児の時に母親から魔力を与えられることで徐々に成長していく。その魔力の殆どを、お主はその姉に奪われてしまったという訳じゃ』
『……双子には良くあることなのか?』
『いや、珍しい例のようじゃの。妾がお主に宿っていたからという可能性も無視はできんが』
『確証の無い話の上に、そんなことでお前を責めるつもりはない。だから、そう申し訳無さそうな顔をするな』
千狐の様子に苦笑しながら、私は首を横に振る。
流石に、『かもしれない』と言う程度の話で千狐に責任を追及するようなつもりはない。
そもそも、彼女にも私の転生先を選ぶことは出来なかったのだろうから、お門違いと言うものだ。
尤も、厄介な状況であることは確かだ。しがらみも多くなるだろう。
だが、千狐は確かに、魔力を増やす方法はあると言ったのだ。
ならば挑戦すればいい。苦難の道など、今更尻込みするようなものではないのだから。
それに……私からすれば、家族が壮健であることは好ましいことでしかない。
『私の分まで、その子は強くなったのだろう? 子供は健康が一番だ』
『お主は……自分のことを棚に上げて、良くそこまで言えるものだ』
『お前も知っているだろう、私はそういう人間だ』
『確かに、そのような莫迦者でなければ、妾もお主を見初めることは無かったじゃろうな』
互いに告げて、そしてクスクスと笑い合う。
おかしな性分ではあるが、これが私の本心だ。
偽ることはできないだろう。私は、家族の無事を何よりも祈っているのだ。
だがしかし、それだけで満足できるわけではない。
『この赤ん坊の時期に何をするかと考えていたが……やるべきことは決まったな』
『……言いたいことは分かるが、過酷じゃぞ?』
『内容も知らん内に安請負は出来ないが、やるしかない。これはあらかじめ言っておくべきだろうが――』
私のすべきことは、たった一つだ。
家族を護る。私自身のこの手で、護るべきものを護り抜く。
もう二度と、あの日のような絶望を味わうことの無いように――私は、家族を護れる強さが欲しい。
だからこそ、一切の妥協を捨て去る覚悟をした。強くなるためならば、過酷などという言葉で足踏みをしている暇は無い。
『私は、家族を護るために強くならねばならない。この世界にどのような危険があるのかはまだ知らないが、強くなれる機会があるのならば、私は常に挑戦していくつもりだ。今度こそ、必ず護り抜くために……これから先、お前が共に歩んでくれると言うのなら、私はお前にこの願いを誓おう』
『……莫迦者め』
私の言葉に、千狐は大きく溜息を吐き出す。
だが、彼女の口元に浮かべられていたのは、どこか嬉しそうな微笑であった。
私の言葉を受け取り、千狐は誇らしげな様子で告げる。
『まだ色々と調べねばならんが、魔力量は確かに、強さに直結する要素ではある。お主にとっても必要なものじゃろうな……魔力量の増加は魔力を取り込むタイミングで発生する。つまり、ギリギリまで魔力を放出し、周囲の魔力を体内に取り込んでいくこと……これが、魔力を増やす効率的な方法じゃ』
『……だが、一歩間違えれば死に至る危険行為、と言うわけか』
『まだ、お主が魔力を扱うことは出来んじゃろう。それまでは――』
無造作に、千狐が手を伸ばす。
彼女の右手は、私の視界を覆うように広げられ――
『――妾が、その作業を代行するとしよう。それほどの大言壮語をしたのじゃ、この感覚を掴んで見せるがいい』
――次の瞬間、体の奥から発生した虚脱感と鈍い苦痛に、私は苦悶とともに体を捩りながら、ゆっくりと意識を失っていた。