019:《王権》
1章はここまでです。
2章からは、月曜日と木曜日の更新になります。
――時空の果て、この世界には無い遥か彼方。
遥か天上に在りし神々、その頂点に立つ者。
この世界に来る前、千狐が口にしていた『恐れ多い相手』――
銀の紋章より溢れ出した輝きを目にし、私は唐突に理解する。
溢れる光は、千狐の毛並みの如き銅の輝き。熱せられて赤熱したかのような、灼銅の閃光。
八条に分かれた光は螺旋を描き、私の右腕を覆いつくしていく。
『今のお主になら分かるはずじゃ、我があるじよ。それが一体何なのか。お主に、一体何が出来るのか』
絡みつく光は、私の右腕を覆いながら肩口まで伸び、そしてそのまま虚空へと飛び出して揺れ始める。
私の肩口から虚空に消える光の帯は八条。まるで尾のように揺らめくそれは、千狐の後ろ髪そのものであった。
そして、光が絡み付き肥大化した私の腕は、ゆっくりとその形を変貌させてゆく。
それは獣の腕だ。鋭い爪と、灼銅の毛並みに包まれた異形の腕。
『お主は理解できたはずじゃ。お主の腕で、妾の腕で、一体何を成せるのかと言うことが』
そして最後に、右の瞳が変貌する。
鏡は無く、直接見れるわけではない。だが、私はそれを確かに感じ取っていた。
私の右目が、千狐のそれと同じものに変貌していることを。
瞳孔の切れ上がった紅の、獣の瞳へと姿を変えていることを。
半身を異形と化したこの姿。だが、右腕の中で燃える灼熱は、確かにあの日と同じものであった。
唯一異なる点は――今の私が、これを制御する術を持っていると言うこと。
右手を握り、感触を確かめ――私は、小さく笑みを浮かべる。
「何だ、そりゃ……お前は、一体何なんだ」
私の変貌を目にし、男は呆然と呟く。
だが、答えるつもりは無い。答えをくれてやったところで、意味など無い。
余分な時間を使っている余裕などないのだ。
この《王権》は、通常の精霊魔法にはありえないほどに大量の魔力を消費する。
《掌握》の発動に掛かる魔力が5程度であるとすれば、この《王権》は発動だけで1000以上の魔力を消費してしまうのだ。
しかも、発動しただけでは意味がない。戦うには、ここから先の力を使わなければならないのだ。
「仁……?」
呆然とした様子で、凛が私の名を呟く。
否、驚愕に固まっているのは凛だけではなく、姉上や鞠枝も一緒だろう。
突然私の姿が変貌したのだ、驚かずにいる方がどうかしている。
肩越しに振り返った先に見えた凛の姿は、驚愕に目を見開き――けれど、私に対して恐怖の感情などは覚えていない様子であった。
私は肩越しに笑顔を向けて、そして改めて敵へと意識を集中させる。
今の私には、この《王権》を完全に操りきることはできない。
使うことができる力も、ほんの一部だけ。だが――今は、その一部が最も適しているはずだ。
「テメェは……何なんだよ! 火之崎仁ッ!」
「《王権》――《刻守之理》」
――赤く、紅く、誰よりも鮮烈に疾走する少女の幻影。
その背中を追いかけるように、私は異形と化した右腕を伸ばす。
瞬間、肩口より伸びる光の尾の一つが紅に染まり――その瞬間、世界は静止していた。
否、時間が止まったわけではない。これは、私自身が極限まで加速しているのだ。
《刻守之理》の力は、自分自身の極限加速。
まるで時間が止まった世界を移動しているかのような、究極の加速能力だ。
『気をつけろ、あるじよ。発動中は、どんどん魔力を消費していくぞ』
「分かっている。早急にけりを付けるぞ」
この加速状態の中でも、私は普段通りの感覚で動き回ることが出来る。
だが、それはあくまで感覚だけだ。現実においては凄まじい速さで動いていることに変わりは無く、その速度で動き回れば私自身の肉体が自壊してしまう。
故に、消費し続ける魔力の一部を削り取り、私は自らの肉体を限界ギリギリまで強化していた。
残る魔力はそう多くはない。現実の時間で言えばほんの数秒だろう。
――十分だ。
「――――ッ!」
地を蹴る。ただそれだけで、骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げる。
だが、その一切合財を無視し、私は一直線に目の前の相手へと飛び込んだ。
泥のように重い空気を掻き分け、ただ前へ。布で擦り付けられたかのような熱さを覚えるが、それすらも無視し、私は正面の男へと突撃する。
男は――驚くべきことに、この加速された感覚の中でなお、その口を動かしながら腕の位置を移動させていた。
加速系の強化魔法か。男は、私が拳を突き出す一瞬前に障壁を展開し――握り締められた異形の拳は、その障壁をほんの僅かな抵抗のみで粉砕していた。
突き抜けた拳は、だが鈍った一瞬の間に差し込まれた腕に阻まれ、直撃はせず――それでも、振り抜いたその一撃の威力により、男は大きく吹き飛ばされてロビーから硝子を突き破り、建物の外まで弾き出されていく。
その行き先を見届ける前に、私は再び地を蹴っていた。
(全て、潰す……ッ!)
体が燃えるように熱い。右腕に宿る灼熱ではなく、空気抵抗の摩擦によって発生した熱だ。
全身を火傷が覆いつくしていくのを感じながら、私は咄嗟に左目を閉じていた。
この異形と化した右目だけは、この熱に耐えうる力を持っていたが故に。
(一人として、残すものか!)
向かう先は、目に付いた襲撃者の集団。
途中にいた敵を右腕で打ち砕き、私は転がっていた長椅子を右腕で掴み取って投げつけていた。
放たれた長椅子は、現実の感覚で言えば凄まじい速さで男達に直進し、彼らの体諸共粉々に砕け散る。
しかしその結果を見届けることなく、私は更に進んでいた。
凛たちを取り囲むように立っていた連中を一人残らず吹き飛ばし、離れた位置で狙っていた者には転がっていた椅子を投げつける。
そんな中で、僅かにでも動き回ることが出来ていたのは、加速系の魔法を使う魔法使いだけだった。
逃げようと言うのか、踵を返したその男へ、私は即座に接近する。
(逃がさん!)
実際はかなりの速さで逃げているのだろう。だが、今の私にはスローモーションのようにしか見えない。
その背へと向けて右の拳を振るい、展開された障壁を打ち砕いて、逃げようとする足を握り締める。
悲鳴を上げようとしているのだろう。だがそれよりも早く、掴んだ足でこの男の体を振り回し、他に逃げようとしていた男へと向けて投げつけていた。
千切れ飛んだ足は適当に放り捨て、動き回る敵影が既に無いことを確認し、私は視線を外へと向ける。
まだ終わってはいない。最も厄介な敵が、残ってしまっているのだ。
『気をつけろ、あるじよ。この加速された感覚の中でも、最早一分も維持することはできんぞ』
『分かっている……これで最後だ!』
千狐の言葉に頷いて、私は駆ける。
外へと飛び出せば、弾き出されていた男は立ち上がり、その体勢を整えようとしているところだった。
左腕はだらりと垂れ、骨折していることが伺えるが、まだその戦意は衰えていない。
右手にナイフを握り締めた男は、真っ直ぐと向かってくる私の姿を、確かに捕捉していた。
そして――その姿が、鋭く輝く雷光に包まれる。それと同時、男は先ほど逃げようとしていた連中よりも圧倒的に速く、それこそ私でもややゆっくりな動きに見えるほどの速さで飛び出していた。
(だが、それでも――まだ、遅い!)
私は骨折している左腕側に回り込みながら拳を叩きつけ――発生した障壁に、攻撃を相殺されていた。
魔法を仕込んでいたのか、それとも刻印式か、それを判断している暇はない。
私の攻撃をかろうじて防いだ男は、瞬時に反応して私へとナイフを突き出していた。
その軌道は、既に私を捕らえようとするものではなく、確実に仕留めようとする殺意の篭ったもの。
この男は、既に私を脅威として認識しているのだ。
右腕を振り切った今の体勢からでは、既に迫ってきているナイフを回避することは難しい。
故に私は、握り締めた左の拳で、ナイフを握った男の拳を打ち据えていた。
「ぐ……ッ!」
私と男の拳が、砕けて拉げる。
その痛みを堪えながら、私は強引に右足で踏み込んでいた。
強く地面を踏みしめ――その衝撃で骨が折れ、筋肉が裂け、血が吹き出す。
これ以上動くことはできないだろう。だが、どの道この加速も持ってあと数秒。
故に――この一撃に、全霊を捧げる!
「ああああああああああッ!」
強靭な右腕の鉤爪を広げ、私は全身を使って右腕を振るう。
攻撃を払われた男は即座に後退しようとしていたが、足を潰してでも詰めた距離が、私の攻撃を届かせる。
そのまま強引に薙ぎ払った右手は――男の胴を引き裂き、その右腕の肘から先を完全に切断していた。
――そして、右腕の変貌は強制的に解除される。
「ッ、がァァアアアアッ!?」
内臓が零れ落ちそうになっている胴を、そして切断された右腕を抑えながら、男は悲鳴を上げる。
だが、それを聞く私にも、追撃をするような余裕は存在していなかった。
右足も左腕も、最早使い物にはならないだろう。
左足に体重をかけて、立っていることが精一杯。最早、動けるような余裕は一切存在しない。
魔力も枯渇寸前であり、これ以上の戦闘行動は確実に命に関わることは容易に想像ができた。
――だが、まだ敵は倒れていない。
『待て、あるじよ。これ以上は無理じゃ。流石のお主も、これ以上動けば死ぬぞ!』
「まだ、敵は残っている……予備の人員が、居る筈だ……この男を、仕留めれば……後は、鞠枝だけで、十分だろう……」
『何を言っておる! いくら何でも――』
「弱い、私ならば……護れないような、私ならば……死んだほうが、まだマシだ」
右腕を、前へ。この強大な敵に対抗するには、これしか方法が無いのだ。
例えこの身が砕けようと、魔力が枯渇しようと、諦める理由などになりはしない。
私はここで、この男を倒さねばならないのだ。
「ぐ……ッ、ク、ソが……テメェの、どこが……出来損ないだ……テメェこそ、正真正銘、化け物じゃねぇか……!」
「何だって、いい。知ったことか。私は……諦めるわけには、いかない」
手を伸ばせ。決して立ち止まるな。
例え命を落としたとしても、絶対に屈するわけにはいかない。
私は誓ったのだ。もう二度と、諦めはしないと。
だから――
「《王権》――」
――その名を呼ぼうとした、刹那だった。
「――――ッ!?」
「な……っ!?」
轟音と衝撃が走り、地面が砕け散る。
私と男のちょうど中間、そこに墜落した何かが、舗装された頑丈極まりない地面を打ち砕いたのだ。
何か起こったか分からず、予想外の事態に《王権》の術式が零れ落ちるのを感じながら、私はじっと目を凝らす。
そして――その姿を認めて、私は思わず目を見開き驚愕していた。
そこにいたのは、赤い着物を纏う女性の姿。他でもない、我が母である火之崎朱莉だったのだから。
「は……母上?」
「…………」
地面を砕きながら降り立った母上は、私の姿を確認し、その上で男のほうへと向き直る。
放射状に罅が入った地面は、今の着地の衝撃の凄まじさを物語っているのだが、母上は一切の痛痒を覚えた様子は無い。
否、それどころか――地面の罅は、今も広がり続けていた。
そしてそれと同時に、母上の体の周囲に、濃密な魔力のオーラが顕現し始める。
それは黒く、深い闇の如き漆黒の魔力。その様に、私は図らずも理解していた。
母上が、《黒曜の魔女》と呼ばれていた理由を。
「よくも……ッ!」
普段は穏やかで、優しげな声音ばかりの母の声。
それが今は、深く腹の底に響くような、強い怒りの込められた物へと変わっていた。
右の拳が握り締められ、母上はゆっくりと前に進み出る。
その一歩ごとに、足元の舗装された地面を踏み砕きながら。
「馬鹿な……《黒曜の魔女》が何故ここに!」
「よくも、よくも……ッ!」
母上の右腕から、漆黒のオーラが爆発的に吹き上がる。
その魔力を纏う拳は、街路樹の葉などをオーラに触れただけで消滅させながら、まるで弓を引き絞るようにゆっくりと構えられる。
男は逃げない。逃げられない。母上の強く深い怒りに触れているだけで、身動き一つ取れなくなってしまっているのだ。
鞠枝とも互角以上に渡り合った、あの力ある魔法使いを――ただの殺気だけで、縛り付けてしまったのだ。
そして――引き絞られた拳が、放たれる。
「私の大切な息子に、手を出してくれたなァッ!!」
振り下ろされた、鉄槌の如き拳の一撃。
それは、反射的に展開された男の防御をまるで紙屑か何かのように引き裂き――男の体を、塵一つ残すことなく、その足元の地面ごと抹消していた。
遅れて走る轟音と衝撃に体を揺らされ、私はバランスを崩される。
だが、倒れそうになる体は、いつの間にか魔力を消して駆け寄っていた母上に抱き留められていた。
「仁ちゃん! ごめんね、大丈夫!? 私が遅くなってしまったから……!」
「いえ、大丈夫です、母上……ありがとう」
視界が白む。魔力を枯渇寸前まで使った上、血も流しすぎてしまったか。
最早、意識を保つことも限界だろう。
「少し……休みます。凛と、姉上を……」
「ええ、安心して休んでね……私が、必ず護るから」
その言葉に、僅かに苦笑して――私は、意識を手放していた。