180:天の明星
こちらの未来視の特性を察知したことで、『無貌』は即座に対応を開始する。
私は未来の確実な光景を読み取ることが出来るが、その分近い未来の光景しか見ることが出来ない。
だからこそ、直前では回避できないような攻撃を放つことで、回避の目を潰そうとしているのだ。
まるで波のように広がる黒い魔力。その波そのものに飲まれれば、重力波によって潰されることになるだろう。
さらに、それが通り過ぎた後には変質した魔力によって読み切れない副次効果が発生する。
防ぐことは不可能ではないが、持続の長いこれを防げばしばらく足を止められてしまうだろう。
「ならば……!」
空を踏み、跳躍する。そしてその瞬間、私の体は即座に加速していた。
望む場所へと、遅れることなく辿り着くための速さ。
例え後手であったとしても、遅きに失するということは無い。
私は黒い波を乗り越える形で回避し、『無貌』へと接近する。
だが『無貌』も、それぐらいは予測していたことだろう。その黒い巨腕を以て、私を迎撃しようと薙ぎ払う。
「だが――」
私はそのまま攻撃することはせず、薙ぎ払われたその腕を回避しつつ、その腕へとリリの触手を這わせていた。
その勢いに引かれながら、私は弧を描くようにその場から移動する。
同時、右腕へと力を充填し――その一撃を、『無貌』の背へと叩き込んでいた。
『が――ッ、君は!』
「おおおッ!」
拳に込められたエネルギーが爆ぜ、『無貌』の巨体が弾き飛ばされる。
その様子をよく見れば、私の拳が命中した場所から、黒い煙が上がっている。
あれは恐らく、あの巨体を構成するときに『無貌』の人間体を覆っていたものだろう。
あの内側に『無貌』の本体があるのであれば、並の攻撃では有効なダメージを与えられないことになる。
尤も、直接当てなかったとしても私の法によってダメージは入る。対処法が何も存在しないという訳ではない。
とは言え、そう簡単に有効なダメージとなる訳ではないだろう。であれば――
「千狐!」
『うむ、分かっておるとも』
私の意志を受け取り、千狐は力強く頷く。
ならば、後はタイミングだ。既に道筋は見えている以上、そのタイミングを計るのみ。
だが万全を期すならば、まずはもう少しだけ場所をずらさなくてはならないだろう。
「し……ッ!」
『おっと……だが、二度通じるものではないよ』
『無貌』の言葉に、私は内心で毒づきながらも接近する。
奴の周囲には黒い粒子が舞っており、それが奴の攻防一体の策であることは分かっている。
あれは攻撃に使用できる魔力の塊であると同時に、周囲を索敵する効果を持っているようだ。
あれでは、死角に回り込んだところで即座に察知されてしまうだろう。
尤も、それで問題は無い。先ほどの一撃で、既に仕込みは済ませているのだから。
「――――ッ!」
脳裏に映る、周囲が黒く爆ぜる光景。
周囲に舞う黒い粒子、その全てが爆薬として作用するのだろう。
その複合効果は厄介だ。単品で見れば大した威力ではないが、全てまとめて受けると流石に無事では済まないだろう。
ならば、と――私は、周囲に浮かぶ粒子の全てを一つ一つ防御魔法の障壁によって覆っていた。
全ての障壁に《拒絶》の力を分けることはしない。一つ一つの爆発が小規模なものであるため、そこまで力を割く必要はない。
爆ぜた衝撃によって障壁は砕かれるが、それを防いだ一瞬の時間さえあれば、通り抜けることは不可能ではなかった。
「づ――あああッ!」
限界を超えた情報量に、瞳の奥が痛みを発する。
本来であれば一つしか起動させない筈の権能を、超越の強度で同時発動しているのだ。
その情報量は並のものではない。だが、それ位の無理を通さねば、到底奴に届く筈もない!
「しゃあああッ!」
足場を蹴ると共に魔力を炸裂させ、『無貌』へと駆ける。
スピードの分だけ処理速度を上げねばならず、目尻から血涙が雫となって飛ぶのを感じながら『無貌』へと肉薄する。
しかしその直後、『無貌』の身から零れ出た黒い霧が、強大なエネルギーへと変換されて私に叩き付けられる光景が脳裏を過ぎる。
それを認識した瞬間、私は即座に奴の横をすり抜けるように駆け抜けていた。
『む……!?』
『無貌』は、私が攻撃してくると踏んでいたのだろう。
あれだけのリスクを負って接近したのだから、そう考えるのも無理はない。
だが、私の目的はそこではない。私はただ、奴に触れるだけで良かったのだから。
そう――先ほどの攻防の際に付着した、リリの一部に触れるだけで。
「リリッ!」
『てけり・り……!』
その瞬間、『無貌』に付着していたリリの一部が爆発的に膨張する。
突如として膨れ上がった黒い粘液に、私は小さく笑みを浮かべてその場から離脱していた。
『っ、これは!? 君は、一体何をした!?』
突如として膨れ上がったリリの一部は、そのまま『無貌』の体と融合し、更なる異形へと変貌してゆく。
突如として生える触手や口、瞳。新たな腕が生えたかと思えばおかしな方向へと曲がり、それが足の形へと変貌する。
それは、元から異形の体を持っていた『無貌』にとってもあり得ざる異形の姿。
己の意志によらぬ変貌に驚愕を滲ませる『無貌』に、私は溜飲が下がる思いで告げていた。
「リリの一部を、適応進化を繰り返す状態で本体の制御から切り離しただけだ。リリの能力は、貴様も良く把握しているだろう?」
『それは……だが、例えショゴス・オリジンであったとしても、このような無軌道な進化を――まさか』
「……気づいたか。切り離したその分体は、貴様の法の影響を受けている。結果そのものをランダムで変化させる貴様の法の、な」
『私に好き勝手してくれたお礼です。存分に味わっていきなさい』
《這い寄る混沌》の法は、奴自身の願いに則り、奴自身ですら結果を読めない変化をもたらす性質を持っている。
故にその性質を利用し、リリの一部を異常進化、および侵食させることによって『無貌』の体を縛ったのだ。
異形へと変貌し、体のバランスが崩れている『無貌』は上手く動けずにいる。
奴がこの状況に適応する前に、仕留める他無い。
「さぁ……行くぞ、千狐!」
『ああ、決めるとしよう、我があるじよ!』
右腕の歯車がうなりを上げ、隙間から灼銅の光が炎のように吹き上がる。
この一撃で、魂を打ち砕く。そのために、残る力の全てを収束させる。
尾を引く灼銅の光は、まるでそれ自体が熱量を持っているかのように、空間を歪めて荒れ狂っていた。
『――焦ったね、灯藤仁』
刹那――異形のスフィンクスの内側から、人間体の『無貌』が現れる。
そして、奴はそのまま距離を取ると、抜け出した後のスフィンクスの体だけがこちらへと襲い掛かっていた。
確かに、それは可能だろう。だがまさか、自分からあの外殻を捨て去るとは――!
「中々に面白いことをしてくれたんだ、君も味わって行くといい!」
「ッ――!」
力の制御のため、大きく動くことは出来ない。
しかし異形のスフィンクスは裂けた腹から触手を伸ばし、私を飲み込もうと――
「――焦ったのは貴様だ、『無貌』」
――その瞬間、迸った白い閃光がスフィンクス貫いて瞬時に焼き尽くし、更にはその先にいた『無貌』の胸を貫いていた。
「――な、に?」
「よほど仁に執心していたようだな。貴様の裏を掻けるとは、中々に爽快な気分だ」
誰もいなかったはずの空間、そこから声と共に現れたのは、白く輝く亜精霊体へと変化した父上と、その傍で幻影を展開していた初音であった。
その姿に、『無貌』は炎に貫かれたまま揺らめく瞳を硬直させる。
「ば、かな。まだ、アトラク=ナクアは、あそこに……!」
「よく見てみることだ、貴様ならば見えるだろう?」
その言葉に、『無貌』はアトラク=ナクアが姿を現していた門、そこで今も繰り広げられている戦いへと視線を向ける。
その瞬間、そこに広がっていた光景は揺らめきながら消え去り――そこにあったのは、巨大な幻影を作り上げていた着物の女性、水城久音の姿だった。
そしてその傍には、凛や姉上、そして久我山や詩織たちの姿が見える。
どうやら、私の超越の力を受けたことで、姉上たちも回復したようだ。
そこで父上が魔神候補を抑えている間に、詩織の力で門を解析して解除したのだろう。
そして、その上で水城久音が幻術を掛けることで隠し、父上の接近を『無貌』に気づかせないようにしたのだ。
「ッ――《生ける灼熱》……! またも、貴様がッ!」
「ふん、私のことを気にしていていいのか?」
「――――!」
父上の言葉に、『無貌』の視線がこちらを向く。
だが、もう遅い。父上が注意を引きつけてくれたことで、こちらの充填も完了した。
右腕全体が灼銅に輝き、眩い光を放ちながら唸りを上げる。
そして、炎の槍に貫かれ、動けずにいる奴へと、私は駆ける。
「灯藤、仁……ッ!」
「終わりだ、『無貌』ッ!」
光の尾を引き――私の拳が、『無貌』の顔面へと突き刺さる。
その瞬間、全霊を込めた《魂魄》の力が、『無貌』の魂へとその刃を届かせていた。
「オオオオオオオオッ!」
「ッ、ああああああああッ!」
だが、まだだ。もっと、もっと――深く、奴の根本にまで!
拳をさらに押し込むように、私は奴と共に墜落してゆく。
そして――私の拳は、奴をその魂と共に地面へと叩き付けていた。
地面は陥没し、粉塵が舞い上がり――その中心で、私は告げていた。
「私の――私たちの、勝ちだ」
私の力は奴の魂へと深く突き刺さり、その根本――《這い寄る混沌》に繋がる核を打ち砕く。
その瞬間、奴の力は急速に薄れ、上空ですでに崩れかかっていた異形のスフィンクスもその姿を消してゆく。
尤も、先程の父上の攻撃で、足の一部以外は殆ど消し飛んでいたようであるが。
崩壊してゆく魂は、既に体を動かすだけのエネルギーを供給することが出来なくなっているのだろう。
『無貌』の体そのものも、手足の先から徐々に崩壊を始めていた。
「ああ……く、くく、君は本当に面白い、灯藤仁。まさか、君以外がああも脅威になるなんて……思いもしなかった」
「貴様は、私ばかりを見ていたからな。私の法を理解しながら、興味のあることにしか視線を向けなかったことが貴様の敗因だ」
「ははははっ! 嗚呼、全く……本当に面白いよ、君は」
黒い粒子と化して消滅してゆくその姿に、けれど私は油断せずにその状態を精査する。
だが、これは最早魔力を動かすことすら出来ない状態となっている。
『無貌』は最早、一分と待たずに訪れる滅びを待つだけの存在だ。
しかしその状況にあっても、『無貌』は相も変わらず口元に笑みを浮かべていた。
「――ああ、僕の負けだ。君は僕の筋書を超え、そして《這い寄る混沌》の予想すらも超えた。接続を切られた僕は滅びるだけだ」
「……その割には満足そうだな、『無貌』」
「当然だとも。これほど楽しい戦いが出来たんだ、予想を完全に上回った君のことを賞賛こそすれ、恨みをぶつけるような理由は無い。尤も、決着に《生ける灼熱》を使われたことは少々複雑だがねぇ」
急速に崩壊してゆく『無貌』は、既にその胴体しか残っていない状態だ。
滅びゆくその姿に、私は再び問いかけていた。
「『無貌』、貴様は――」
「僕は全霊で戦ったとも。僕の望むままに、僕の全てを使ってね。それを上回ったのだから、君は誇ればいい――嗚呼、本当に楽しかった。全力で遊べたのは、これが初めてかもしれないよ」
相も変わらず、この男は、己の愉悦の為だけに戦っていた。
敵意でもなく、憎悪でも無く――ただ、楽しむためだけに、私と戦っていたのだ。
ならば、納得できなくもない。その清々しい様子には、色々と思う部分がない訳ではないが――それでも、これで決着だ。
「だが、気を付けたまえよ、灯藤仁。僕が滅んだところで、《這い寄る混沌》には何ら影響はない。駒の一つが潰れたというだけの話だ。君の法は、《這い寄る混沌》にとって格好の遊び相手……その命の果てるまで、平穏というものは無いだろう」
「分かっているさ。それもまた、私の望んだ道だ」
正義を成すと、悪を討ち滅ぼすと、ただそう決めた。
それを己の在り方と定めて、私の魂は人の理を超えたのだ。
であるならば、その先にある戦いも、決して否定しようとは思わない。
そんな私の返答を聞き、『無貌』はただ満足気に笑う。
それは嘲笑ではなく――心からの、称賛の笑みだった。
「完敗だよ、灯藤仁。君の行く末を、その果てを――僕は、辺獄から期待して見ているとしよう。さらばだ、正義の味方よ」
そして、最後にそう告げて――『無貌』は、世界最強と呼ばれた魔法使いは、完全に消滅していた。
その残滓の全てが消え去ったことを確認し、私は大きく息を吐き出す。
ようやく……ようやく、終わったのだと。そして、全てが始まったのだと。
「仁……っ!」
頭上から、声が響く。
見上げれば、父上の姿を隠すという仕事をしていた初音が、まるで墜落するようにこちらへと向かってきている所だった。
その落ち着きのない姿に目を細めながら、私は苦笑を零す。
帰ってきたのだと、そう実感するような思いを胸に――私は、笑顔で涙を浮かべる初音を、誇らしいこの腕で抱き留めていた。




