178:因果を歪めるもの
『無貌』の体から吹き上がったのは、無数の小さな蝙蝠のような生物だった。
それが本当に生き物なのかどうかは分からないが、翼を羽ばたかせたそれらは一斉に飛び立ち、私の視界を覆い尽くす。
それ自体に脅威を感じることは無い。だが、それを甘く見るようなことはしなかった。
私は即座に防御魔法を張り巡らせ、危険が身に及ぶことを《拒絶》する。
その瞬間――その蝙蝠たちは、黒い炎となって爆発していた。
「ッ――!」
精霊の力を交えた防御魔法ならば、この程度の攻撃を防ぐことは難しくない。
だが、『無貌』もその程度のことは分かっていることだろう。
視界を覆う漆黒が晴れた瞬間、その場に黒い巨体の姿は無く――その刹那、私は背後からの衝撃に弾き飛ばされていた。
「ぐッ!?」
あれだけの巨体が移動すれば気づくはず。
ということは、奴は恐らく、転移魔法で私の背後に回り込んでいたのだろう。
本体である《這い寄る混沌》からのバックアップに加え、『無貌』自身の魔法技能も行使してくるのだ。厄介なことこの上ない相手である。
弾き飛ばされた私は、近くにあったビルの壁面へと叩き付けられ、壁にめり込むように停止する。
ダメージはそれほどでもないが――そこへと向けて、黒い巨体が突進してきていた。
『さあ、防ぎきれるかな!?』
「ちッ――!」
頭部に生えた角を、まるで衝角のように突き出しながら突撃してくる黒いスフィンクス。
その角の先端には、紫色の魔力が怪しく揺らめいていた。
恐らくは防御貫通、しかも《這い寄る混沌》の能力を含めたものだ。
奴は私の防御能力の高さを知っている。その上で接近攻撃を選択してきたとなれば、何らかの対策があるということだ。
であれば、あれを受け止める訳にはいかない。
「リリッ!」
『ん……!』
長い襟巻と化したリリを腕に絡め、そのまま離れた位置の建物へと伸ばす。
そしてそのまま引き寄せることにより、私は《加速》しながらその場を離脱していた。
消耗しているリリとは言え、この程度であれば可能だ。
私が回避したことにより、『無貌』はそのままビルへと突っ込み、あっさりと建物を貫通していた。
幸い、リリが暴れ始めてから結構な時間が経過している。
日頃危険に対する意識を育んでいるこの国の住人であれば、当の昔に避難所へ避難しているはずだ。
『無貌』が貫通したビルは、その穴が開いた場所から黒い炎に焼かれている。
しかし、強い熱を放つその炎によって炙られた場所は、何故か紅い氷に包まれ、やがて風化するように塵へと変化していった。
どこからどう見ても、この世の常識の範疇にはない変容。恐らくはあれこそが《這い寄る混沌》の権能に繋がる力であり、私の展開していた《拒絶》の防壁を貫く手だったのだろう。
『あるじよ、理解できたか?』
「概要程度は、だがな……!」
千狐の声に、私は苦々しく呟く。
奴の持つ精霊としての力は《混沌》。その力の性質は、常に変容を続ける、一定の形を持たない理だ。
だからこの奴の力は読み切れないのだが、ある程度の予測は立てられる。
恐らくは――
「因果を歪める力――いや、原因に対する結果を異なるものにすり替える力か!」
『ほう? くふふ、《賢者》の理を持つ君には、それぐらいは読み取れてしまうか』
「……隠さなくていいのか? それは、貴様の力の本質だろう」
『隠した所で意味は無いからね。何しろ、僕にすら読み切れない! この《混沌》の法は、性質と結果を歪めるだけ。その果てに在るものまで指定してしまったら、面白みに欠けるだろう?』
なるほど、と――私は小さく呟く。
今の言葉に、恐らく嘘は無い。表情を読み取れるわけではないが、『無貌』は今の言葉を本心から口にしていた。
そして、納得でもある。この力、彼の《白銀の魔王》が警戒することも頷ける力であった。
《魔王》の持つ力は、因果を歪め、望む結果を掴み取る力。それに対して《這い寄る混沌》の力は、そこから更に異なる結果を生み出してしまうかもしれないものだ。
だからこそ、あれほど強大な力を持った《白銀の魔王》も、この管理者を完全には御しきれていなかったのだろう。
無論、力の総量の差から言って、滅ぼすことは容易かったはずだ。どれほど結果を歪めたとしても、それが追い付かないほどの物量で押し潰すことが出来るだろう。
しかし、それには確実にこの世界を巻き込んでしまう。抵抗の間すらなく、全てが灰燼に帰するだろう。
《魔王》自身もそれを理解していたからこそ、私を利用したのだ。
「で、あるならば――」
私は、私自身の性質をより精鋭化する。
私の力は、悪を斃す正義に対して、《王権》の力を使って強化を施すもの。
その力は私自身にも及んでおり、より強力なバックアップを施すことが可能だ。
だが、ただ強化するだけでは、奴の性質に追いつけない。
ならば私は――私自身の願いに沿って、この力を特化させる。より高い出力で力を使うには、そうする他無いのだ。
故に定める。私の力、私のあるべき形を。
その為に、己が力を――《王権》の力を《掌握》にて支配する。
借りるばかりであった力、ようやく支配下に置くことが出来たこの力。それをさらに、己の血肉へと変える為に。
だがその瞬間――周囲の大気が、突如として鳴動していた。
「ッ、な――」
『おや……ははは、どうやら、我慢しきれなくなったようだね』
強大な魔力の波動が各所から迸り、空中でぶつかり合う。
それによって発生した軋むような音に、私は思わず顔を顰めていた。
この気配、この魔力――初めて感じるものではあるが、似たような感覚は覚えがある。
これは間違いなく、あのハストゥールを前にした時と同じ感覚だ。
即ち――
『禁獄の魔神――正確に言えば魔神候補たちだが、彼らが門の外に興味を持ったようだね。流石に深海都市の主は相変わらずの出不精みたいだが……これで、より面白くなったんじゃないかな?』
『無貌』の言葉に舌打ちする。
禁獄は、魔神を生むための苗床だ。魔神候補ということは、即ち禁獄の狂った生態系の中で頂点に君臨する存在と言える。
その力は、間違いなく十秘跡の上位に匹敵するものであるだろう。
間違いなく、父上や母上にとっても難敵であると言える。
それに、私の法が個人に力を与えたとして、あの門を封じるために戦っている人々まで強化できる訳ではないのだ。
で、あるならば――
「――《英輝の選定》」
より深く、この力を己の血肉とする他無い。
その為に、私はこの力へと、新たな形を命じていた。
* * * * *
――深淵の渓谷と呼ばれる禁獄がある。
それは、北日本の大地に刻まれた巨大な亀裂。
まるで、巨大な剣によって刻まれたかのようなその深い渓谷の奥底には、人の生存が許されない領域が形成されていた。
渓谷の内部は毒性の強い大気が充満しており、人間が対策なしに足を踏み入れれば一分と持たずに命を落とす地獄だ。
そして、酷く暗く、視界の悪いその内部には通り道すらないほどに大量の意図が張り巡らされており、僅かでも触れれば大量の禁獣が殺到してくる。
深海都市とは別の意味で攻略が困難――否、困難を通り超えて不可能に近い禁獄だった。
「まさか……そのような手を打ってくるとはな」
全身に紅の魔力を纏い、無数の虫の死骸を燃やし尽くしながら、火之崎宗孝は呟く。
彼が抑えに回ったのは、深淵の渓谷と繋げられた門であった。
この門から溢れ出たのは、大半が『アトラク=ナクアの幼生』と呼ばれる禁獣だった。
かつて、山奥で修業していた際に、仁が遭遇したことのある一級の禁獣。
普段は巣を張り、獲物を待ち構えて捕らえる禁獣であるのだが、それでも大量の獲物を目の前にして立ち止まるほど大人しい訳ではない。
宗孝の到着があと十分遅れていれば、この場は完全に蜘蛛の巣によって覆い尽くされていただろう。
「……っ」
普段、一族からは鉄面皮と揶揄される顔を顰め、宗孝は小さく舌打ちする。
地面に大きく開いた穴。そこに足をかけ、這い上がってくる蜘蛛たち。
ただの幼生であれば、宗孝にとっては物の数ではない。這い上がってきた傍から撃ち抜いてやれば済む話であった。
しかし――
「貴様が現れるか、蜘蛛たちの母」
敵の数が多く、門の術式解析は遅々として進まない。
それでも、宗孝の援護によって、他の魔法使いたちも何とか術式の解析は進めていたのだ。
だが――
「総員、後退せよ。これは、お前たちを護りながら戦える相手ではない」
「しかし、それではこの魔法の解除が!」
「行け、無駄に命を散らすな。今ある情報だけでも生かせ」
「ッ……承知いたしました」
他の魔法使いたちを後方へと下がらせ、宗孝は前へと進み出る。
その瞬間――巨大な黒い鉤爪のような足が、門の周囲へと掛けられていた。
その大きさは、実にこれまでの幼生たちの十倍以上。
放たれる魔力の強さは、最早比べることすら烏滸がましいという程のレベルであった。
日本でも頂点にある魔力の持ち主である宗孝ですら、その総量では遠く及ばない。
圧倒的なまでの怪物――真紅の目を持つ漆黒の蜘蛛。
「アトラク=ナクア……貴様が、直々に現れるとはな」
深淵の渓谷の主、蜘蛛たちの女王。
禁獄の全域に巣を張り巡らせ、今なおその拡張を続ける怪物――それこそが、禁獣アトラク=ナクア。
その存在のみが語られる、災厄の獣だった。
漆黒の巨体の全てを曝け出したわけではないが、その上半身だけでも十分すぎるほどの巨大さと危険性を有している。
上半身だけしか姿を現せていないことも、あまり救いにはなっていなかった。
それに――
(……空間術式に無理やり干渉を掛け、穴を広げようとしているな。噂程度には聞いていたが、本当に器用なことだ)
宗孝がその存在を知っているのは、あくまでも他の十秘跡から情報を得たからであり、決してアトラク=ナクアとの交戦経験がある訳ではない。
だが、その情報があることはせめてもの救いであると言えた。
いかな宗孝とは言え、この禁獣は明らかに格上。第二位ほどの怪物ではないにしろ、それに手を届かせるほどの力を有していることは間違いなかった。
――だが、それでも。
「――【集い】【連なり】【貫け】」
燃え上がる炎の槍が、黒い巨大な蜘蛛へと降り注ぐ。
金属を容易く焼き貫くほどの炎は、しかしアトラク=ナクアの巨腕の一振りによって掻き消される。
だが、それでも手は緩めない。無数に連なる炎はその巨体へと降り注ぎ続き――けれど、その鋭い爪によって描かれた魔法陣によって、魔法はまとめて掻き消されていた。
『シャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!』
「甲高い声だ……」
無論、宗孝とてそれを黙って見ていた訳ではない。
彼が並行して準備していたのは、先ほどの槍が燐寸と見まがうほどの巨大な炎の槍。
衝撃波と共に打ち放たれたそれは、広げられた魔法陣を貫き、その内側へと巨大な爆炎を発生させる。
『シャアアアッ!』
「ち……ッ!」
しかし、炎の向こうがから発せられるのは、まるでダメージを受けた様子の無い怒りの声であった。
そこから発せられた黒い衝撃波を炎によって相殺しながら、宗孝は大きく跳躍する。
掲げる腕に刻まれた刻印は空間に投射され、彼を包む《纏魔》を覆うような球状の魔法陣を形成する。
それは彼の秘術。火之崎の奥義にして、彼らの祖が齎した人ならざる力――
「――《灼身天星》」
まるで圧縮するかのように魔法陣は縮まり、それと共に真紅の魔力を飲み込みながら宗孝の身へと還していく。
それと共に、彼の前身は白く輝く炎へと変貌していた。
手のひらの上に浮かぶのは拳ほどの火球。しかしそれは、次の瞬間には長大な槍と化し、眼下にいるアトラク=ナクアへと撃ち降ろされる。
「《落ちる明星》」
炎の中から現れた黒い巨体、まだ全身を出現させられていないが故に動けぬその体へと、炎の槍が突き刺さり、爆裂する。
その衝撃波だけで周囲の建物をなぎ倒しながら、吹き上がる炎の嵐より響き渡るのは、巨大な蜘蛛の苦悶と怒りの声。
『ギィィイイイ……ァアッ!』
「……ダメージにはなるが、致死には遠く及ばんか」
動きを止めることも、ある程度ダメージを与えることも出来る。
だが、仕留めることは恐らく不可能。このままではジリ貧にしかならないだろう。
そう結論付けて、宗孝は舌打ちし――視界の端に、見覚えのある少女たちの姿を視認していた。




