177:執行者
「おい、術式の解除はまだか! このままじゃ押し切られるぞ!」
「無茶を言うな、無理やり壊したら閉じなくなるかもしれないんだぞ!」
半ば廃墟と化した街の一角、そこに開いた空間魔法の門の前では、幾人もの魔法使いたちが怒号を上げていた。
その門と繋がっているのは、深海都市と呼ばれる禁獄だった。
それは海中に沈んだ都市であり、内部には無数の水棲の禁獣たちがひしめき合っている。
禁獄の中では、珍しく禁獣単体の力ではそれほど高いとは言えない場所だ。
しかし、海中と言う環境、そして統制の取れた動きをする禁獣たち――その悪辣さは、禁獄と呼ぶに相応しい場所であった。
本来手出しをしなければ危険の少ない禁獄であるのだが、数年に一度海上に浮上した時には、決して小さくない被害が出てしまう。
それでも、本土への侵入を許したことは無かったのだが――
「畜生、何だってこんなことに……!」
「いいから撃て、手を動かせ!」
「分かってるよ、クソッ!」
門の向こう側から現れるのは、魚と人間を掛け合わせたかのような異形の生物。
深きものどもと呼ばれる、深海都市に数多く生息する禁獣たち。
個体の能力は精々が二級と言ったレベルであるのだが、この禁獣たちは組織立って動くことが可能なのだ。
上位種からの指令を受け、作戦を立てて行動する――それが、この禁獣たちが危険と判断されるゆえんであった。
それらを相手にして、今その戦線を担っているのは、全て魔法院の魔導士たちだ。
門が開いた直後、この一角はあっという間に壊滅まで追いやられてしまった。
しかし、それ以上被害を広げず、この崩壊した一画で相手を押し留めているのは間違いなく彼らの功績だ。
それでも、膠着状態が彼らにとっての限界。そこから先の解決へ向けての方策は、今だ遅々として進んでいない状況だった。
――そう、今のままでは、だが。
「ギィィィイイ!?」
――刹那、轟音と共に、戦線を突破しようと突撃してきていた深きものどもの群れが吹き飛ぶ。
そしてそれと同時に、黒い魔力が吹き荒れ、その周囲にいた禁獣たちまでもバラバラに引き裂いていた。
突如として現れた暴威、その中央に立っていたのは、黒い着物を纏う女性の姿だった。
「ここは私が引き受けます。貴方たちは、術式の解除に専念なさい」
「《黒曜の魔女》……!? りょ、了解しました!」
現れたのは、《黒曜の魔女》と名高い、火之崎朱莉であった。
漆黒の魔力を纏う彼女は、門の向こう側からあふれ出る禁獣たちを睥睨しながら周囲の魔導士たちへと告げる。
その溢れ出る膨大な魔力に、さしもの深きものどもすらも恐れをなしたのか、その動きが躊躇うように止まっていた。
そんな禁獣たちを睨みつけながら、朱莉は僅かに視線を細める。
(この気配……この事態の原因は『無貌』に間違いないでしょうね。けれど、さっき現れたこの気配は)
『無貌』の悍ましい気配とは違う、それでいながら強大で鮮烈な気配。
その巨大な力に、しかし朱莉は危機感を覚えることは無かった。
力強く在りながら、優しい気配。その気配が現れた瞬間、朱莉は突如として己の力が底上げされたことを自覚していた。
その仕組みは朱莉にも理解できなかったが、力の気配そのものを間違える筈もない。
(……貴方なのね、仁ちゃん)
その気配の主を、朱莉は彼が幼い頃から知っている。
弱い魔力の中にある、不可思議な気配。その力が、今になって異様なまでに増大していることを彼女は理解していた。
そして何より、その膨れ上がった力が、今自分たちを後押ししているということを。
そのことを理解して、朱莉は小さく笑う――ただ、嬉しそうに。
(本当に……本当に立派になったわね。こんなことまでやってのけるなんて)
小さく呟き、朱莉は幼い頃の仁の姿を思い返す。
火之崎の宗家に在りながら、魔法使いとしての才を持たなかった子供。
その未来は、決して明るいものではなかったはずだ。
仁を強く生んであげられなかったことに、朱莉は負い目を感じている。同時に、凛に同じ負い目を背負わせてしまったことも。
だがそれでも、彼は決して諦めることなく、自らの手で未来を切り開いた。
そして今、彼はこの世で最も強大な相手を前に、その力を示している――それが、母親としてこれ以上ないほどに誇らしかったのだ。
「貴方が戦うというのなら――私が、後顧の憂いを晴らしてあげないと、ね。今はもう、母親としてしてあげられることは少ないけど……」
拳を握り締め、朱莉は一歩前へと踏み出す。
ただそれだけで、足元のアスファルトは罅割れ、捲れ上がるように砕け散ってゆく。
その巨大な闘志を前に、禁獣たちは尻込みするように動きを鈍らせていた。
「深海都市の禁獣たち。お前たちの力では、私には届かないと知りなさい。例え数を力としようと――脆弱な刃を束ねたところで、この私の鎧を貫くことはあり得ない。お得意の精神汚染とて、同じことよ」
深海都市の禁獣たちは、その統制された動きに加え、精神に対して異常を発生させる特殊な術式で知られている。
だが、術式と魔力を介している以上、膨大な魔力で構成された《纏魔》を貫くことはあり得ない。
朱莉にとっては、相性のいい相手であると言えた。
「来ないのならば、こちらから行くわ――さあ、しばらくの間、付き合って貰うわよ」
告げて、朱莉は地を蹴る。
地は砕け、音は置き去りとなり――その漆黒の暴威は、容赦なく禁獣たちへと襲い掛かっていた。
* * * * *
「――千狐、行くぞ」
『うむ、援護は任せるが良い』
眼前にあるのは、巨大な獣。
黒く染まり、翼を持つ貌の無い異形のスフィンクス。
その怪物が持つ強大な力に、僅かに体が竦むのを感じる。
相手はこの世界の神の化身。その力は、超越者へと至った私にとっても、格上と言わざるを得ないものだった。
翼を羽ばたかせ、宙へと飛び出した『無貌』を追い、私もまた空を蹴って飛び出す。
機械仕掛けと化した両腕、その隙間から炎のように、灼銅の輝きを滾らせながら。
『さあ――遊ぼうじゃないか』
『無貌』が、黒いスフィンクスがその翼を羽ばたかせる。
それと共に、まるで鱗粉のように黒い粒子が舞い上がり――強烈な爆発となって、私に襲い掛かっていた。
私を磨り潰さんとする圧力に、しかし私は己の理を以て立ち向かう。
紡ぐ力は《拒絶》――あらゆる力が、私に触れることを拒絶する。
降り注ぐ黒い爆圧は、しかし私には一切の影響を及ぼすことなく、私はその向こう側へと飛び込む。
しかし、その炎の向こう側にいたのは、私へと迫りくる無数の触手だった。
虚空から延びた触手は、私を締め上げようと不規則な動きで襲い来る。
だが――
「――無駄だ、それでは捉えられんよ」
私は、その動きよりも速く《加速》する。
私を捕らえようとするものよりも速く――私が届くべき場所に、届くべき速さで辿り着くために。
溢れるように現れた触手たちを躱し、私は異形のスフィンクスへと肉薄する。
揺らめく黒を纏う『無貌』へと肉薄し、私は灼銅に輝く拳を放っていた。
込めるのは《魂魄》の力。相手の肉体ではなく、その魂を打ち砕くための拳だ。
逃れることは許さない。私は、その《未来》を認めない。
『が――ッ、はははは! いいぞ、それでいい! それが君の力か!』
私の拳が直撃し、黒いスフィンクスの体は僅かに揺らぐ。
だが、それは決して大きなダメージにはなっていない。ただの拳の一撃で倒しきれるほど、『無貌』の力は弱いものではないのだ。
しかも、相手は私の能力に当たりをつけたのだろう、僅かに舌打ちしながら追撃をかけようとし――薙ぎ払われたその手を回避していた。
悍ましい鉤爪の付いたその手は空を斬り――その軌道によって裂かれた空間から、黒い炎が吹き上がる。
《記憶》を探れば分かる、あれは魂すらも蝕む異形の炎。触れれば、今の私とて無傷では済まないだろう。
「っ……!」
しかも、炎によって炙られた空間が凍り付いている。
この世の物ではない、異界の法だ。あれこそが『無貌』の、《這い寄る混沌》が持つ理。
奴の持つ力は理解できている訳ではない。だが、その性質はある程度実感を得ることが出来ていた。
《混沌》の力には、決まった形と言うものは存在しない。
むしろ、決まった形そのものを崩し、無秩序な状態に変えてしまう力なのだろう。
故にこそ、それを読むことは難しい。分析はやるだけ無駄とは言わないが、詳細に分析している余裕はない。
「おおおおッ!」
巨大な前足を躱して肉薄し、拳を叩きつけようとする。
だがその瞬間、『無貌』の体から弾けるように触手が現れ、私の拳を受け止めていた。
その瞬間、触手は千切れて弾け飛ぶが、奴の体そのものは無傷。
奴の肉体そのものには然したる意味は無いということだろう。幾らダメージを与えたところで、致命傷になることは無い。
だが――私の力には、《魂魄》以外にもその不条理を覆す力がある。
その意味を、奴は己が身を以て体験したはずだ。
『っ、まさか……やはりそうか、君は、あらゆる道理を貫く――いや違う、君自身の道理を押し通す力!』
「そうだ……正義は、勝たなくてはならないからな!」
私の法は、悪を打倒し得る正義を生み出す法。
であれば、その力は悪を打倒し得るものでなければならない。
即ち私の力は、悪と断じた相手に対して、あらゆる道理や概念を貫き有効なダメージを与えることが出来るのだ。
故に、私の攻撃が当たる限り、それは『無貌』にとって確実なダメージへと変わる。
――それを理解した以上、奴も安易に攻撃を受けることは無くなるだろうが。
「堕ちろォ!」
『ははははっ、まだだとも!』
続け様に拳を叩き付け――その先に発生した黒い波紋が空間を歪め、私の拳を受け止めていた。
直接攻撃を受けなければダメージを与えられないのは事実だ。奴の対応は正しい。
だが――私の権能は、それだけではない。
こちらを捉えられている以上、反応されて防御される。であれば――その意識を《静止》させ、そこに空白を作り上げる。
『――――』
「はあああああッ!」
その刹那、私は瞬時に『無貌』の横合いへと潜り込み、相手の脇腹へとこの拳を撃ち込んでいた。
灼銅の歯車が回り、隙間から漏れる灼銅の光はまるで炎のように。
『が――――ッ! く、はは!』
『無貌』は苦悶の声を上げ――その刹那、吹き上がった漆黒が私の視界を覆い尽くしていた。
現れたのは、黒く染まった無数の翼、見たことも無い異形の生物。
数えきれないほどの群れの向こう側で、『無貌』は燃える三つの瞳を揺らめかせながら嗤っていた。




