176:正義を成すもの
『ごめんなさい、ご主人様、わたし……』
『大丈夫だ、リリ。今は、そこで休んでいてくれ』
世界が鳴動する。大地が、悲鳴を上げているかのように。
これは、『無貌』が組み上げた空間魔法。この国の周囲にある禁獄と、この地を繋げるための門を開く術式だ。
これを放置すれば、この国は間違いなく地獄と化す。
それだけは、決して許す訳にはいかない。この国のため、住まう家族たちのため――そして、初音の肯定してくれた、私自身の願いのためにも。
――私はもう、何も諦めはしない。
「 den Weg des Heiles nie zu finden, in pfadlosen Irren trieb ein wilder Fluch mich umher:
我が道に救いはなく、我が前に導はなく、この世はただ呪いに歪み荒れ狂う 」
故にこそ、私は私の法を口ずさむ。
これこそが私の祝詞、私の理。私の答えであると、誇らしく告げんがために。
「 zahllose Nöte, Kämpfe und Streite,
我が道を塞ぐは無限の辛苦、我が道を阻むは無数の戦禍 」
私の言葉に、『無貌』は楽しげに笑みを深める。
これは奴と戦うための力であるというのに、奴は私の力の発動を止めるつもりは無いらしい。
業腹ではあるが、それならば好都合だ。遠慮なく、この力を完成させてやるとしよう。
「 zwangen mich ab vom Pfade, wähnt ich ihn recht schon erkannt.
足跡は消え、行き先は見えず、この身は未だ迷い路に在り 」
私の願いはただ一つ、正義の味方でありたいと願った、最初の願いを踏襲するもの。
大切なものを護りたいという願い。その発露となった始まりの祈り。
だが、年を重ねた今の私には、そこまで純粋な願いを抱くことは出来なかった。
だからこそ――
「 um das zu hüten, das zu wahren, ich Wunden jeder Wehr mir gewann;
されど、あらゆる武器も、あらゆる痛みも、我が道を遮ることは叶わぬだろう 」
――私の願った世界は、因果に対する応報が存在する世界。
あらゆる悪に対し、それを糾す正義が存在する世界。
私はヒーローでありたい。けれど、それは私一人である必要はない。
私は私の無力を知っている。だから――
「 denn nicht ihn selber durft ich führen im Streite,
英雄はただ一人、護るべき器を背に歩む 」
私は、全ての正義に力を与えよう。
絶望に抗う者たちに、悪意に屈さぬ者たちに――当たり前の希望を夢見て、戦い続ける者たちに。
報われぬ正義などないことを。この圧倒的な悪意を前に、倒れるばかりではないことを証明したい。
「 der dort dir schimmert heil und hehr:
刮目せよ、輝きは傷つくことなくこの背に在り 」
故にこそ、私の法を世界に浸透させる。
通常の超越ではない。あらゆる神々が――彼の《白銀の魔王》すら成さなかったであろう奇跡を、ここに体現する。
これは、己の世界で現実の世界を侵食する法ではない。
己の理を世界に浸透させ、包み込むための法。
「 des Grales heil'gen Speer.
我はここに、幕引きを告げる来訪者となる 」
そして何よりも――《這い寄る混沌》の用意した、この悲劇の舞台を覆すための理。
奴の用意する一流の悲劇を、三流の喜劇で塗り替える為の力――
「超越――」
私は、灼銅の歯車を掲げる。
これこそが我が力、我が理の形。
その力を、私は地面へと向けて手放していた。
「――《掌握:英雄凱歌・機神降誕》」
その名を告げると共に地面に落ちた歯車は、しかし跳ね返ることなく、まるで水面に沈むように潜り込む。
刹那、僅かながらに見えたのは、世界全体の基盤になっているかのような歯車の群れ。
大小さまざまな歯車たちの群れの中へと落ちた私の歯車は、まるで最初からそこに在ったかのように、ぴったりとはまり込み――周囲の歯車たちと共に、一斉に動き出していた。
「……ふむ? これは……一体なんだ? 君は一体何をした、灯藤仁?」
「意外か? いや、その反応も当然か。このような超越を作り上げた超越者は、恐らく私が初めてだろう」
超越とは、己自身の願いを元に、精霊の持つ理を利用して新たなる世界を作り上げる法だ。
それは本来、世界とは相容れない力であり、周囲の空間に大きな負荷を駆けながら発動することになる。
例外は、己の法則を世界に同化させ、世界の管理者となった場合。これは即ち、神と呼ばれる存在に変質することに他ならない。
だが今の私は、その頂に登ることなく、しかして世界を侵食させずに超越者としての力を発現させている。
あの歯車が動き始めた情景も、すでに消えてなくなっている。これは、通常の超越ではあり得ない現象だった。
「だが、貴様ならば既に感じ取っているのではないか、管理者よ。私の理が、貴様と同じように世界を覆っていることを」
「……ああ、その通りだ。だが、君自身からは超越者の気配は感じても、神格に及んだ気配は感じない……君は、一体何を願った? 《白銀の魔王》の権能に、君は一体何を願ったんだ?」
「決まっている――」
これは凱旋を告げる唄。物語の終焉を告げる英雄の凱歌。
悪意によって紡がれた物語を、強引な終わりへと導くための理。
――ご都合主義の終わりを与える、機械仕掛けの神の掌。
「――貴様の悪意に対し、必ずカウンターとなる正義を生み出す。その正義に、必要となる力を与える。それこそが、この世界に新たに根付いた、私の法だ」
『無貌』の術式が完成する。
日本の周囲にある禁獄と空間が繋がる門が形成され、内部から悍ましい姿の怪物たちが一斉に溢れ出してくる。
けれど――それを薙ぎ払う力が存在した。
炎が、水が、風が、土が。ありとあらゆる魔法が、溢れ出した魔物たちを薙ぎ払う。
それは四大の一族の魔法使いたちが放つ魔法。リリの分体と戦い、疲弊していたはずの彼らは、しかしその疲れを一切見せずに禁獣の群れを迎撃していた。
拮抗ではない。彼らは、襲い掛かる魔物たちを上回る勢いで戦闘を繰り広げていたのだ。
禁獄の禁獣たちは、全て一級に等しい力を有していると言われている。それらの相手は、四大の一族でも上位の存在にしか不可能である筈だというのに。
「……これは、まさか」
「私の法は、悪逆に抗う『誰か』に力を与える。救うべきものを救うための速さを、邪なるものから身を護るための護りを、そしてあらゆる悪を討つための力を――迫る悪意を退けるに足る力を、貸し与える為の超越だ」
そう、それこそが私の超越。
戦う意思を持つ者を、正義の味方へと押し上げる為の理。
あらゆる悪に対し、抗う力が存在しないことを認めない――私の望んだ世界だ。
私の力を理解し、『無貌』は呆然とした様子で言葉を失う。通常、超越とは近しい人間以外の存在を考慮に入れないような力となるものだ。
このような、不特定多数の誰かを対象にするような力など、本来であれば存在しない。
故にこそ、この『無貌』ですら、その性質を測り切れなかったのだろう。だが――
「……は、はは」
『無貌』は、その黒い顔を手で覆い、裂けた口元を隠すようにしながら肩を震わせる。
一瞬、激高したかと思ったが――これは違う。そんな刺すような感情ではない。
この男は――歓喜、しているのだ。
「はははっあははははははははははは! おお、偉大なる王よ! 我が親愛なる《白銀の魔王》よ! 貴方の采配に、僕は最大の感謝を送りましょう! 素晴らしい、これほど素晴らしいことがあるものか!」
戦場の音が響く中、『無貌』は両腕を広げ、天を仰ぎながら歓喜に身を震わせ叫んでいる。
皮肉などでは断じてない。彼は、心の底から歓喜しているのだ。
私の作り上げたこの理が、何よりも嬉しいと言うかのように。
「素晴らしい、君は本当に素晴らしい! 君をここまで育てて、本当に良かった! これほどまでに成長しただけではない、これほどまでに演出しがいのある舞台を作ってくれたのだから!」
「無論、私が現れた程度で、貴様が改めるなどとは思っていない。続ける以上、私が相手になるまでだ」
「無論だとも、愛しき仇敵よ。君との戦いは、際限なく心躍るものだ」
裂けた口で笑い、『無貌』は私の方へと向き直る。
今まで、この男はずっと、私の力だけを見ていた気がする。
それが今ここに至り、ついに私個人へと視線を向け始めたのだ。
私の作り上げたこの理は、退屈を理由に世界を混乱に陥れるこの男にとって、格好の遊び相手と言うことだろう。
「君の作り上げた力は、即ち僕の力に対するカウンター。僕の作り上げた力に応じて、相応の力を以て迎撃するのだろうね。繋げた禁獄の禁獣たちがことごとく迎撃されているどころか、僕の術式の解除に向けても動きが始まっている。本来ならばとっくに力を使い果たしているだろうに……ははははっ! 全く、無茶苦茶にもほどがある!」
上機嫌な様子で、『無貌』はそう告げる。
どうやら、戦いは人間にとって有利な形で進んでいるらしい。
それはこの男にとっては望まざる展開である筈だが、依然として上機嫌は崩れていない。
まだ余裕があるということか、はたまたこの不利な状況すらも楽しんでいるだけか――或いは、その両方か。
私が胸中で警戒を深めたその瞬間、『無貌』はようやっとその哄笑を収め、しかして口元を笑みに歪めたまま声を上げていた。
「このままでは、僕の負けと言うことになる。だが――それを黙って見ているのも面白くない」
「リリはこちらにいる、もう奪わせはしない。繋げる禁獄も、日本の周囲にはもはや存在しない。それ以外は遥か彼方だ。それほどの遠距離を繋ぐことは、いかな貴様でも不可能だろう。であれば――」
「く、ふふふふふ……君の力の性質は理解した。だが――それで終わりではないだろう。他者を強化するだけの超越など、あり得るはずがない。それが君自身に作用した時どうなるのか、その答えを見せておくれ」
ぞわり、と。『無貌』の顔を構成する漆黒が蠢く。
その悍ましい様相に、しかし私は目を逸らすことなくその様を見つめ続けていた。
この男の言葉に間違いはない。私の《英雄凱歌・機神降誕》には、他者を強化するのと同じように、私自身を強化する為の法がある。
それを見定めるというのであれば――この男も、相応の力を発揮するということだろう。
「 Nyar shthan, Nyar gashanna! Nyar shthan, Nyar gashanna!
来たれ、来たれ、我が法、我が理。混沌なりし深淵の御業を 」
その言葉が紡がれた刹那、圧力を伴う漆黒の闇が、『無貌』の全身を包み込んでいた。
『無貌』はあくまでもこの世界の管理者である《這い寄る混沌》の傀儡の一つであり、その体そのものが超越者としての力を持つ訳ではない。
だが、この力は――紛れもなく、《這い寄る混沌》のものに他ならなかった。
「 Hagel Pharao der Finsternis, Hagel Nyarlathotep
黒の王、暗黒のファラオよ。夢の淵の微睡みより醒め、その咆哮を響かせよ 」
巨大化していくその体に、足場が耐えきれず軋み始める。
咄嗟にこの建物自体を強化して――私は、その姿の全貌を目の当たりにしていた。
「 Cthulhu fhtagn, Nyarlathotep th'ga, shamesh shamesh,
其は千の顔を持ちし仮面の王。死の先触れにして星の智慧 」
それは、四本の足を持つ巨大な黒い獣。上半身を立てて立つその姿は、どこかスフィンクスを思わせる。
だが、その背には悍ましく蠢く赤黒い翼が、尾に当たる部分には無数の触手が蠢き、そして何より、その貌は以前の『無貌』それと同じ、渦を巻くような漆黒が蠢いていた。
「 Nyarlathotep th'ga, Cthulhu fhtagn!
我が名は混沌。その片鱗にして体現者なり 」
正しく異形――人の姿に非ざる、正真正銘の怪物。
その悍ましい力の覇道を正面から受け止めつつ、私は機械仕掛けの拳を握り締める。
『さぁ――遊ぼうじゃないか、正義の味方よ。悍ましき悪は、ここにいる』
――その言葉を聞いて、私は地を蹴り、『無貌』へと向けて飛び出していた。




