175:収束
意識が急速に浮上する。目に入ったのは、先程と変わらぬ円卓――そして、その奥で笑みを浮かべるハストゥールの姿だった。
その口元に浮かべられた愉快気な笑みは、私の内心を見透かしているかのようで、酷く落ち着かない。
だが――その表情の意味も、今では理解できる。
「……全てお見通し、という訳ですか」
「くく、見込み通りであったことは事実のようだな。とはいえ、心持ち一つでこれだけ変わるか……これだから、貴様らと言う存在は面白い」
笑うハストゥールに、私は軽く肩を竦める。
右手の中には、今は何もない。だがそれでも、あの灼銅の歯車の感触が残っている。
今の私は、次なる力への階段へ足を掛けた状態だ。
その階段には最早遮るものは残っていない。後は、ただその階段を駆け上がるだけだ。
ともあれ、その状態にあることを、ハストゥールも理解しているのだろう。彼は、満足げな様子で頷いていた。
「ふむ。ともあれ、これで準備は整った訳だ。位階を登れば、力の総量は圧倒的に高まる――であれば、貴様の力はほぼ回復すると見ていいだろう」
「と言うことは、つまり……私は、日本に向かえると?」
「今の貴様であれば言うべきことはない。すぐにでも向かうか?」
「ま、待ってください!」
と、そこで声を上げたのは、相変わらず体調の悪そうな姉上だった。
あの亜精霊化の魔法を使ったからだろう、その消耗はそうそう回復しきれるようなものではない。
声を張り上げてはいるものの、そうすることすら辛い状況だろう。
大焚が姉上のことを押し留めてはいるが、しかしそれでも、姉上がその剣幕を収めることは無かった。
「私も――私たちも、日本に戻ります! 仁だけを行かせるわけには……!」
「余は構わんが、今の貴様らが役に立つとは思えぬな。そも、いるだけ邪魔であろう」
「それは……ッ」
「朱音様、貴方は一番安静にしなきゃいけない人物でしょう。彼は、戦いを終えた今の段階では信用できる。ここは間違いなく安全なんですから、戦えるようになるまでは待つべきです」
姉上に待ったをかけたのは、存外に冷静な舞佳さんだった。
現地には詩織がいる、舞佳さんも気が気ではないだろう。
しかしそれでも、彼女も魔力によるパワードアーマーを使ったせいか、かなりの消耗を強いられている。
動くことこそできるが、魔力の消耗も肉体への負荷も大きく、全力での戦いは不可能だろう。
「現状で動くことが出来るのは仁くんだけ、それは間違いない。貴方も分かっているでしょう?」
「……けれど、この場で手を拱いていることは……」
「朱音様、アンタは生き残ることが何より重要だ。頼むから、今は体を休めてくれ」
臥煙に押し留められ、姉上は俯いて口を噤む。
姉上からすれば、日本のことは何よりも気がかりなはずだ。
ここで安穏としていることは、火之崎の気性からして許せることではないだろう。
だが、現実的に動き回れる状態ではない。それを理解しているからこそ、姉上は口を噤まざるを得なかった。
それに何よりも――火之崎として、姉上を失うことは出来ないのだから。
「姉上、大丈夫です。少しだけ休んでいてください。動けるようになったらで、構いませんから」
「仁……っ、ごめん、任せるわ」
「いえ、お任せください」
姉上に礼をし、私は立ち上がる。
そして、私は隣に座る初音へと視線を向けた。
「……初音、行ってくるよ。終わったら、全てを話す」
「うん、頑張って、仁。信じてるよ」
笑みを交わし、頷き合う。
初音の視線の中にあるのは、極限の信頼だ。私をヒーローだと信じてくれる、その視線。
その重さを理解して、その楔を受け入れて――私は、小さく笑う。
酷く重く、心が締め付けられる。だが、これこそが私が望んだもの、私の最初の願い。
そうありたいと願った、私自身の最初の願い。
――私は、彼女のヒーローでありたい。
「ハストゥールよ、どうか――」
「うむ、よかろう。よき闘争を期待しているぞ、新たなる神の階に臨む者よ」
その言葉の直後、私の体は逆巻く風に包まれ――強い浮遊感の直後、私は上空へと投げ出されていた。
視界の下に広がるのは、雲間に見える街並み。それは既に、見慣れた日本の街並みだった。
ハストゥールがいかなる術式でこれを成したのかは分からない。
だが――何にせよ、都合はいい。目的地には、これで到達できたのだから。
「さあ――まずは、下準備だ。始めよう、千狐」
『うむ。さあ行こう、我があるじよ。まずは、収束を始めるとしよう』
《白銀の魔王》より引き継いだ、《王権》の力。
彼の力は、最終的に二つの理に変質すると千狐から説明を受けている。
それは即ち、《無限螺旋》と《極点収束》。私に与えられた権能はほんの欠片であり、無限に拡散し続ける《無限螺旋》の力に到達することは出来ない。
だが、あらゆる力を束ねる《極点収束》――その力に対してはほんの僅か、そしてたった一度という制限こそあったが、干渉することが出来た。
そう、《超越》の領域へと足を掛けた、今の私であるならば。
「さあ――戻って来い、リリ。また、戦いを始めるとしよう」
告げて、私は力を発現させる。
神々の持つ力とは異なる、脆弱にも程があるほどの出力だろう。
彼らとは比べるべくもない、小さな小さな力。
けれど――それでも、十分だ。
私は笑みを浮かべ――その直後、私の右腕が、灼銅に輝いた。
* * * * *
街を一望する、高いマンションの最上階。
元々は、灯藤仁が拠点としていた、彼らの自宅。
その建物の屋上で、黒いカソックを纏う人物は、黒く塗りたくられた顔で笑みを浮かべていた。
町中からは、いくつかの煙が上がっている。それらは全て、彼によって準備され、引き起こされた事件だ。
本来の彼からすれば、小さく単純にもほどがある事件。だが――
「いやはや――やはり、この国は面白い。かつての時代であれ、ショゴス・オリジンの暴走と拮抗することなどできた筈もないというのに」
リリと名付けられたショゴス――《母なる沼》と呼ばれた、原初の魔神の欠片から生み出された始まりのショゴス、四体の内の一体。
同種の中ではたった一体だけ残った個体であり、このような形で活動しているのは『無貌』にとっても予想外であった。
いかなる故で目覚めたのか、その経緯には興味は抱いていない。
だが――彼にとって、このショゴスは非常に利用価値のある存在だった。
「危険を周囲に配置しただけで、これほどまでの独自進化を遂げるのだから、人間と言うのは面白い。灯藤仁も面白いが、この国自体も中々だ」
だが、と『無貌』は口の中で付け加える。
彼はまだ満足していない――この程度の混乱で、《混沌》の化身たる彼が満足することなどあり得ない。
際限の無い悲劇、そこから生まれる数々の想念。それこそが『無貌』――《這い寄る混沌》にとっての何よりの楽しみであり、存在意義であるとも言える。
例え《白銀の魔王》によって止められていたとしても――その本性を、そうそう変えることなどできはしない。
超越者である彼は、己の理に背くことは出来ないのだ。
そして、だからこそ――
「――ああ、ようやく到着か。待ちわびたよ、灯藤仁」
遥か上空に現れた、魔力の気配。
そこに現れた気配に、『無貌』は歓喜に震える声を零す。
《白銀の魔王》によって選ばれた愚者。己と同じく、歪んだ想念の果てに生きる愚か者。
偉大なりし神により与えられた玩具――その完成を、ついにその燃える瞳に見ることが出来るのだと。
「さあ、見せてくれ。君の答えを――僕もまた、全力でそれに応えるとしよう」
その言葉を呟いた刹那、空の果てにて灼銅の光が輝いた。
その瞬間、魔力とは異なる巨大な力の波動が、地上を覆い尽くしていく。
そしてそれと同時――各地を襲撃していたショゴスたちが、一斉にその力の発生源へと引き寄せられていった。
「ッ……その権能は! ははははっ! まさかそこまでできるとは思いもしなかったよ!」
笑いながら、『無貌』は対抗するように術式と権能を行使する。
灯藤仁の発現した力により、ショゴスたちは彼の元へと収束していっている。
それに対し、『無貌』は可能な限り早く、他のショゴスたちにの本体との接続を切断していったのだ。
灯藤仁の行使した力は、力を一つに束ねるという性質を持っている。その力を、彼はリリと呼ばれたショゴスの本体に対して行使したのだろう。
それによって、分割されていた彼女の意識と体は一つに収束し、彼の下に集まろうとしている。
これを止めるには、他のショゴスたちを別個の存在として切断する以外に方法は無かったのだ。
「は、ははは……っ! 君とて、その権能はそう気軽に使えるものではないだろう? それを、使い魔を救うために使おうとは! やはり君は狂っているなぁ、最高だよ、灯藤仁!」
「――それは、貴様にだけは言われたくないな、『無貌』」
地響きを立て、一人の少年が同じ建物の屋上へと着地する。
以前と変わらぬ、落ち着き払った声。だが、その姿は以前とは完全に変貌していた。
かつては右腕の身に広がっていた、神の力による異形化。
灼銅の機械仕掛けと化したその腕は、今や左腕にまで広がっていた。
そして、その首元には、黒い襟巻が巻かれている――それは、先程収束させたショゴスに他ならないだろう。
だが、本質はそこではない。今や、彼の存在そのものが、根本から異なっているのだ。
そのことに内心で歓喜を抱えながら、『無貌』は彼へと言葉を投げかける。
「やあ、帰還おめでとう、灯藤仁。君が戻ってくるのを待っていたよ」
「こちらは、不思議な心境だ。ここに至るまで、私はひたすら、貴様に振り回されていたからな。こうしてようやく、目の前に立っている。それが何とも、言葉にし難い心持ちだよ」
彼の言葉は、とても落ち着いたものだ。
だが、その内心に抱えた激情は、並大抵のものではない。
その想いを何よりもうれしく思いながら、『無貌』は歪んだ貌で笑う。
「では――ここに至り、君はどうする?」
「貴様を打倒する。誰に言われたからでもない――私自身の願いで、貴様を倒そう」
告げる少年の手の甲に、最早《魔王》の刻印は存在しない。
それは何者にも支配されず、彼が己の意志でここに立っていることを示している。
そして――そうでなければならないと、『無貌』はそう告げるように声を上げる。
「ならば、これは君に捧げる最後の舞台だ。存分に楽しむがいい――この、悲劇を!」
告げて、『無貌』は術式を起動する。
無数のショゴスを操り、その身を媒介とすることで土地そのものに刻み付けた術式。
灯藤仁によってショゴスを回収されたことにより、万全なものであるとは言い難い状況だ。
だがそれでも、残る部分は『無貌』自身が補えば発動することは可能。
その判断に、迷いは無かった。
「――さあ、選ぶがいい。僕はこの地を、この国の周囲にある禁獄と繋げる。現れるのは、禁獄同士がぶつかり合い、潰し合う破滅の坩堝。人々が進化を遂げたこの土地は、新たなる魔神の格好の苗床となるだろう」
――地響きが、土地全体に響き渡る。
今まさに発動しようとする、『無貌』の術式。
その内容を聞き、灯藤仁はその視線を険しく細めていた。
「さあ、君はどうする?」
「――決まっている」
しかして、この絶望的な状況下に、彼の声は一切揺らいでいなかった。
手の中にあるのは灼銅の歯車。それを胸の前に掲げるようにしながら、彼は告げる。
「因果には応報を、罪過には断罪を。貴様の悪逆は、私の正義が打ち砕く――それが、私の答えだ!」
そして、その瞬間――その手の歯車は、目を灼くほどの輝きを放っていた。




