173:怠惰なる深淵
一人の少女が、闇の中を歩く。
伸ばした手の先すらも見えぬ暗闇、けれどその中にありながら、彼女は迷うことなく歩を進めていた。
からんからんと、草履が石畳を叩く音だけが反響し――その刹那、暗闇の横合いから黒い粘液が彼女へと襲い掛かっていた。
その黒い体を生かし、暗闇の中から音も無く奇襲してきたショゴスは、しかしその直後、突如としてその体の大部分を消滅させていた。
まるで何かに削り取られたかのように、その場からごっそりと消え失せたのだ。
その様子を、視界に収めることも無く察知しながら、その少女は腕の中にある存在へと語りかける。
「駄目ですよ、残しては。すぐに元通りになってしまいますから」
その言葉に呼応するように、彼女の腕の中の存在――黒い毛に覆われた小さな生物は、まるで肩を竦めるように蠢く。
そして次の瞬間、再生しようと蠢いていたショゴスは、その足元の地面ごと削り取られて消滅していた。
消滅した部分が戻ることは無く、暗闇の中にはまた耳に痛いほどの静寂が戻る。
その様子を感知して、彼女は――霞之宮綾乃は、小さく嘆息を零していた。
「全く、大雑把なんですから」
呆れたように呟いた彼女は、しかしそれをあまり気にした様子も無く、再び暗闇の中を歩き始める。
その腕の中にある黒い毛玉、彼女に『ぐーちゃん』と呼ばれていたその生物もまた、彼女の言葉を気にした様子も無く、怠惰にその身を預けていた。
と――そんな二人の耳に、これまでには無かった音が届く。
硬質なその音は、靴が石畳を叩く音に間違いない。それを聞き届けて、綾乃はその足を一度止めていた。
やがて、彼女の前に姿を現したのは、伸ばした前髪で顔の半分を隠した、一振りの刀を携えた青年。
綾乃の姿を確認した彼は、僅かながらに緊張を滲ませながらも恭しく一礼していた。
「ようこそおいで下さいました。我らが主人がお待ちです」
「これはご丁寧に。ご案内、よろしくお願いしますね」
現れたのは、戸丸白露。刀を携えた彼の周りには、両断されて動かなくなったショゴスの残骸が零れ落ちていた。
本来であれば物理攻撃では打倒しえない怪物、それを刀の一振りで殺しきっていることに、綾乃は僅かながらに驚愕を滲ませる。
だが、彼女は世界に名だたる十秘跡の一角。この絶技も第三位であれば鼻歌交じりにやってのける事であったがために、必要以上に驚くことは無かった。
綾乃は、戸丸の後に続き暗闇の中を進んでいく。やがて姿を現したのは――地下の巨大な空洞に建つ、一つの社であった。
「しかし、驚きました。まさか、貴方がこの通路をご存じだとは」
「ええ。以前に、幾度か訪れたこともありますから。その際に、こちらを使うようにと教えてもらいまして」
「成程……貴方であれば納得ですね、十秘蹟第九位、《神癒の使徒》様」
「……あまり、その仰々しい呼び方は好かないのですが」
「おっと、それは申し訳ない」
頭を下げる戸丸は、その穏やかな物腰の内側に、僅かながらの警戒を残していた。
それを敏感に感じ取りつつも何も言わず、綾乃は柔和な笑みを浮かべたまま社の正面へと回っていく。
そして、彼女が正面に立った瞬間、社の戸は自然に開いていた。
『――どうぞ、お入りなさい』
「失礼します、八尾様」
社の中で待つのは、一人の巫女。
そして、その体を依り代とする、護国の大精霊。
その前にある座布団に姿勢よく腰を下ろし、綾乃は略式ではあるが丁寧な礼をしていた。
「お久しぶりです、八尾様。ご健勝なようで、何よりです」
『ええ。と言っても、今まさに大きな問題が起こっておりますが……それでも貴方が、貴方がたが姿を現すことは少々予想外でした。十秘跡第九位――いや』
大精霊を宿す巫女の瞳が、綾乃へ――否、その膝の上に乗る、黒い毛玉へと向けられる。
その視線の中にあるのは、確かな警戒心であった。
護国の大精霊、膨大な力を持つ彼女は、確かにその小さな生き物を恐れていたのだ。
『《怠惰なる深淵》、そして、その巫女よ。人の世から離れ、静かに日々を過ごしていた貴方たちが……どうしてこの地を訪れたのですか?』
「……そう警戒なさらないでください、八尾様。私たちがこちらに来たのは、あくまでも私の我がままです。ぐーちゃんは、世話役の私がいなくなったら困るからと付いて来てくれただけですよ」
警戒を滲ませる八尾に対し、綾乃は小さく苦笑を零しながらそう返す。
この地を訪れたのは、あくまでも綾乃の意志だ。
今回の事件が『無貌』の企てであったとしても、自分に被害が及ばない限り、《怠惰なる深淵》が動くことはない。
だが、火之崎の一族と深い関わりのある綾乃にとって、今回の事件は無視しきれるものではなかったのだ。
そのことを理解して、八尾は安堵の溜息を零す。
少なくとも、彼女たちが敵になることは無いだろう、と。
『そうですか……貴方がたも、《這い寄る混沌》のことは警戒しているということですか』
「並の相手であれば、私たちもあの地を離れることは無かったでしょうが……彼が乗りに乗ってしまうと、何が起こるか分かりませんからね。座して静観するのは悪手ですよ」
『かつての大噴火ですか。流石に、あの規模の事件を起こさせるわけにはいきません』
遥か昔に起こった、《這い寄る混沌》と《生ける灼熱》の争い。
神格と魔神の争いは、一つの山と広大な森をまとめて焦土と化したのだ。
その戦いの果てに、《這い寄る混沌》の体の一つは完全に滅び去り、そして大量の力を使い形態を保てなくなった《生ける灼熱》は、この星を去った。
誰も何も得ることの無かった戦い。その果てには、ただ大きな焦土だけが残ったのだ。
――そのような悲劇を繰り返す訳にはいかないと、八尾は視線を細める。
『貴方がたに、協力を求める訳ではありません。それを申し出たところで、私の言葉で貴方たちを縛ることは出来ない。ですので、貴方がたは貴方がたの思うままに動いてください。私の名において、それを許しましょう』
「……分かりました。私は、私のできることを成しましょう」
絶大なる力を持つ十秘跡の一角。
されど、たった一人でできることは限られている。
その無力を理解しているからこそ、綾乃は決して己の力を濫用しようとは思わなかった。
己に出来ることは、精々が近しい誰かを救うことだけなのだから、と。
「それでは、行って参りますね」
『ええ、ご武運を――ああ、そうだ、一つ聞こうと思っていたのでした』
「あら、何でしょうか?」
大精霊からの問いと言う珍しい事柄に、綾乃は僅かに目を見開いて、浮かそうとしていた腰を下ろす。
そんな彼女に対し、大精霊はただ、どこか遠くを見つめるようにしながら問いかけていた。
『貴方は……彼がどうなると思いますか?』
それは、酷く抽象的な問い。
主語もはっきりとせぬその問いかけを、しかし綾乃はしっかりと理解していた。
そしてだからこそ、その答えを慎重に吟味する。
どこか、己の言葉が真実になってしまうことを恐れるように。
「どのような形を選ぶのかは、私にも分かりません。ですが――きっと、あの子は到達するでしょう」
『……そう、ですか』
八尾は、その言葉にそっと視線を伏せる。
それは、先に起こる混乱への憂慮か――或いは、最果てに辿り着いてしまうであろう少年への憐憫か。
綾乃は、どのような形を選ぶのかは分からないと口にした。それは結局の所、彼が到達してしまうことを確信しているということに他ならない。
しかして、その先にあるものは、この星が始まって以来の未曽有の闘争だろう。
その規模は、誰にも想像することは出来ない。この世界で初めて起こる、神話の戦いなのだから。
しかし、そんな八尾の懸念を払拭するように、綾乃は淡く笑みを浮かべていた。
「しかし、私はあまり心配はしていませんよ」
『ほう……何故ですか?』
「彼の祈りは、あくまでも正しいものです。例え狂気に染まっていようとも――いえ、だからこそ、彼は道を違えることはない。その祈りの具現であるならば、それは必ず、誰かにとっての救いとなるでしょう」
十年の間、その姿を観察し続けていた。
若い肉体に、老成された魂。そのアンバランスな在り方を、己に対する狂気にも似た信念で塗りつぶしながら歩み続けていた少年。
その行く末が人の理を外れることであるならば、それは確かに悲劇と呼べるのかもしれない。
けれど――その願いが、形を成すというのであれば。
「私は、彼に期待したいと思います。彼の祈りは、正しいものであると知っていますから」
『……あの《這い寄る混沌》が演出する悲劇を、塗り替えられると?』
「それを、私は願っています。そろそろ彼も、痛い目を見ておくべきだと――そう思いますから」
そう告げて、綾乃は悪戯っぽく笑う。
その言葉に、一瞬呆気にとられた八尾は、やがて小さく苦笑を零していた。
彼女の言葉に、心の底から同意できてしまったがために。
『ええ、全く――それならば、私も期待しておくこととします』
「そうしてください。それでは……そろそろ失礼いたします」
『良い話が聞けました、巫女よ。ご武運を――またいずれ、お会いできることを祈っています』
八尾の言葉に、綾乃は丁寧に一礼する。
そしてそれ以上は何も語ることなく、綾乃は大精霊の社から退出していた。
傍らで一礼する戸丸に目礼を返しつつ、綾乃はゆっくりと元来た道を戻り始める。
「さて、まずは朱莉ちゃんに会いに行くとしましょうか……あら、仁くんですか? 流石に、あの人の領域まで足を運ぶわけにはいきませんからね……大人しく、帰りを待つとしましょう」
己の腕の中にいる、小さな魔神。
《怠惰なる深淵》と呼ばれる、古の怪物。本来であれば《黄衣の王》と同格の、人知を超えた怪物である彼は、変わらず綾乃に身を預けたまま動こうとはしていない。
しかしながらその声は、契約者たる彼女に確かに届いていた。
彼が今この状況を、決して好ましくは思っていないということも。
「大丈夫です、無理はしませんよ。私はそれほど強くありませんから、出来ることだけに努めます」
それは、長き時を生きてきた綾乃にとっての処世術。
必要以上の干渉をしてこなかったからこそ、彼女はここまで生き延びてきたのだ。
そんな綾乃にとっても、此度の事件は初めて経験するほどの規模であると言える。
それほどまでに、《這い寄る混沌》が意気軒昂となっているのだ。
「……やりすぎですよ、《這い寄る混沌》。いえ、『無貌』――《黒き王》でしたか? 《時計人間》のような穏健派であれば、これほどの規模にはならなかったでしょうが……それとも、この化身の暴走こそが貴方の願いですか、《這い寄る混沌》」
暗闇の中へと歩を進め、綾乃は呟く。
この世界の裏側、干渉しえぬ遥か深淵に身を潜める、大いなる神へと。
「天罰、などと言うつもりはありませんが……応報は必ず訪れるでしょう。それが、貴方の望む形になるかどうかは、分かりませんが――」
それだけを口にして、綾乃は暗闇の中へと姿を消していった。




